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蒼一の戸惑い①
しおりを挟む自分は昔から、計画性のある人間だと自負していた。何かを後回しにするのは嫌いだった。例えば夏休みの宿題だって、始めの方に終わらせて後半は休みを謳歌するタイプの人間だった。
仕事だってもちろんそうだ。プライベートでも。できることは早め早めに進めるのが自分のやり方。
そんな私が、一番大事なことはずっと後回しにしている。
北野蓮也と話した日、衝動を抑えきれず咲良を抱きしめてしまった後、結局私はまだ彼女と話せていない。これからどうするか、この形だけの夫婦関係をどうしたいのか答えを聞けていないのだ。
あの日彼女を抱きしめてしまった時、咲良は私を抱きしめ返した。混乱の末『立ちくらみがした』だなんて笑えるほど下手くそな嘘をついたわけだが、あんなの流石に咲良も嘘だと気づいているはず。
なぜ私を抱きしめ返してくれたのか。その答えも聞かねばならないのに。
それでも、この穏やかな関係が終わる可能性があるのだと思うと私の勇気は萎んで消える。彼女と夕食を取るとき、今日こそは今日こそはと思いつつ愛しい笑顔を前に何も言えなくなる。
話し合った末、『離婚したい』『好きな人と結ばれたい』『あの抱擁はなんとなく応えただけ』なんて言われたら。そんなことばかり想像している。
こんな生活が永遠に続いてくれないだろうか。咲良がずっとそばにいてくれれば。
……なんて、身勝手なことばかり祈っている。
まだ外も明るい時間に、私は自宅へ向かっていた。
咲良と暮らし始めた頃は仕事も忙しく帰りは夜遅かったのだが、ここ最近は少し落ち着いてきている。同時に私自身早く帰りたいと思う気持ちが強く仕事に入る力が違うのか、以前より早く帰宅できる日が増えていた。遅くなる日もあるが、早く帰る日もある、という感じだ。
さすがに二人の生活に慣れてきた私たちは特に問題なく暮らしていた。休日はそれぞれ好きなことをしたり、時には一緒に買い物をしたりして過ごしている。咲良の方はまだこちらの様子を伺っている感じはあるが、それでも最初の頃に比べれば肩の力が抜けているようだ。
片手にお菓子を持ちすぐ目の前になった家を目指す。仕事の関係者から貰ったバームクーヘンだった。今までの私なら子供がいる同僚などに適当にあげていたが、今日は違う。咲良が喜ぶかもしれないと思ってそのままもらってきた。
なんとなく浮き足立つのを自覚しながら歩いていると、目の前に見覚えのある顔が見えた。久しく会っていなかった家政婦の山下さんだった。
元々私の実家に昔から通う家政婦さんだ。気さくで優しく、母の味より山下さんの味の方が舌も慣れている。今はこちらの家にも昼間少しきてもらい、夕飯を作ってもらっていた。
「山下さん」
うちの実家からの帰りだろうか、彼女は私に気づくと顔を明るくさせた。少し増えた顔の皺に、なんだか切なさを覚えた。
「あらあらお久しぶりです蒼一さん!」
昔から変わらない明るい笑顔で私に寄ってきた。私も笑顔で応える。
「お久しぶりです、お元気そうで」
「元気ですよ、この通り!」
「いつもこっちまで来てもらってすみません、実家の方もあるのに」
「大丈夫ですよ、そんなに長い時間じゃないですし」
家に帰ると咲良はよく山下さんの名前を出す。たわいもない話で、山下さんのお子さんの話だとか、彼女から聞いた私の幼少期の話だとか、楽しそうに話している。きっと二人は仲良くやっているだろうと安易に想像がつく。
それは私の希望だったのでほっとしている。料理をしてもらうのと同時に、突然嫁がされた咲良の精神的フォローになってくれればという願いがあったからだ。
山下さんはふふふっと思い出し笑いするように言う。
「初めは心配してたけど、咲良さんも慣れてきたみたいですね」
「よかったです、山下さんもフォローしてくださって」
「いいえ私は何も。もう、咲良さんって本当に可愛らしいからこっちも微笑ましくて! ふふ、ケーキもあんなに練習して」
そこまで言った時、彼女はあっという顔をした。私はキョトン、として首を傾げる。
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