藍沢響は笑わない

橘しづき

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届け物

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 受け持ちの二人が一日であんなことになるなんて滅多にないことなので、私も先生も完全に思考が悪い方へ考えてしまっていた。病室に入った時、初めから久保さんがいたのも納得だし、その後も単に助かるか心配で私たちを観察していただけなんだろう。

 藍沢先生はじっと久保さんを見つめる。戸惑いの色が見えるその瞳を揺らした。

「自殺を試みた人は、ずっと前に書いたという遺書も見せてくれた。表面では家族にも看護師にも笑顔を繕っていたらしい。だが本人はずっと悩んでいた、昨日ついに決意してしまったということだ。
 ……俺と椎名さんはてっきり、久保さんがが周りを道ずれにしようとしているかと思い込んでいた。まさかその逆だったとは。
 君は何を求めてる? 彼女に無視しろと言い続けたのは俺だ。それでも諦めずに執着して、一体何を言いたい?
 残念ながら君は死者だ。ここに居続けるのはよくない。俺は今日消すつもりで来た。あの二人の患者の急変の原因は君だと思っていたから。
 でもそれが逆で……人を助けていたのだとしたら。自殺を止めていたのだとしたら、初めて……話ぐらいは聞いてみたい、と思う」

 意外すぎる答えを聞き、私は驚きで先生を見上げてしまった。彼はいたって真面目で、決意したように久保さんを見ていた。死にそうだった人間を助けた、という事実が、よほど先生にとって衝撃だったんだろうか。

 私も続いた。

「私にも聞かせてください。ずっと聞こえないフリをしていたあなたの声、一体何を訴えたいんでしょうか。無視しててごめんなさい、怖がっててごめんなさい。あなたなりの必死なアピールだったんですね。
 家にも帰らず、ここに居続けた理由は」

 私たちの問いに、彼はゆっくり顔を上げた。青白い顔に色のない瞳、いつもと変わらない様子だけれど、その顔を恐ろしいとは思わなくなっていた。こちらの受け取り方で、こうも違って見えるとは。

 思い返せば、いつでも彼は私を傷つけることはしなかった。ただひたすら自分が視える人間を探し出し、私を見つけたあとはついて回った。無視され続けることに悲しみを覚えたのか、やや強引に接してきたこともあったが、よほど私に話を聞いてほしかったのだろう。

 そして、久保さんはそっと口を開いた――。






 私はスマホに表示された地図を眺めながら、必死に坂道を登っていた。

 大分涼しくなってきた時期とは言え、急な坂を上ると体は熱くなる。額に少し浮いた汗を拭きとり、こっちで合ってるんだよなあ、と再度地図を確認した。

 静かな住宅街だ。どこからか子供が縄跳びをしている音が聞こえてくる。もう夕飯の準備をしているのか、換気扇からはいい香りが漂ってきている。今日は和食かな、いい匂い。

 赤色に染まった夕焼けを背にし、私は目的地であるアパートをようやく発見した。

 比較的新しい綺麗なアパートだ。ここで間違いないことを最後にもう一度だけ確認し、私はインターホンを鳴らした。

 しばらくし、中からバタバタと足音が聞こえてくる。そして、玄関の扉が開かれた。中から出てきたのは、久保さんの奥さん、美和さんだ。彼女はやはりどこか疲れた顔色で無理やり私に笑って見せた。視界に入ってきてしまった玄関は、靴などが乱雑に置いてある。健人くんの姿は見えなかった、預けているのか、それともテレビでも見ているのだろうか。

「こんにちは椎名さん! わざわざうちまで来て頂いて」

「いいえ。こちらが急に来てしまったんです、申し訳ありません」

「どうぞ、散らかってますが」

「ありがとうございます、でも玄関先で大丈夫です。お忙しいと思いますので……」

 私はそう言い、上がることはしなかった。玄関の中にだけ入らせてもらい、立ったまま鞄を漁る。

 奥さんは不思議そうに言った。

「忘れ物なんて……どこから出てきたんでしょう?」

「ええと、服とか入れる棚がありましたよね? あの裏に落ちてたんです。気づかなくてすみませんでした」

「いいえ、見つかっただけで嬉しいです。わざわざ届けに来てくださって」

「見落としていたのはこちらですから。……これですね」

 私は笑顔で、一つの封筒を差し出した。奥さんは静かにそれを受け取る。
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