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ついてきた
しおりを挟むその夜勤帯はとりあえず、今だ廊下に立ったままの山中さんとは目を合わせることなく過ごした。ほかに看護師がいる状態だと、無駄にナースコールを押したりもしないのでよかった。だが、私が視えていることは明らかに向こうにばれているので、無視をするのがこれまで以上に心苦しい。
業務が忙しいと彼のことも頭から抜けてしまうが、ふとした時に思い出してしまう『見てほしい』の言葉。そして、あの悲し気な顔。私に何かしてほしいのは明らか。
かといって、また話しかけるほど愚か者ではない。
朝方になり仕事を上がる。へとへとになりながら病棟に別れを告げ、棒になった足を酷使しながら自宅へとたどり着く。
空は青く、いい天気だった。普通の人たちは今から仕事なのだ。夜勤って、こういうときの解放感は凄まじい。今から私は美味しいものを食べて寝るのだぞ! 明日は休みなんだぞ! 叫びだしたい衝動に駆られるのだ。
とはいえ叫べないので、思いきり伸びをしながらアパートの階段を上っていく。三階まで登ったところで、見慣れたあの子が泣いていた。部屋の前でひたすら肩を震わせているパーマの子。それを見て、一気に脳裏に山中さんのことが思い出された。満ちていた解放感も、どこかへ吹き飛んで気分が落ちる。
結局何も解決してないんだよなあ、山中さん。次の出勤の時もいるだろうか。どうしたら眠ってくれるんだろうか……。
必死に考えながら部屋に入る。靴を適当に脱ぎ捨てた。部屋はよくあるタイプの1Kだ。広さは十畳ほどで、広いクローゼットもあるので自分は十分だと思っている。
疲れたので持っていた荷物も適当に投げ捨てた。そしてまずは床にごろりと寝そべる。ベッドにインしたいけど、まずお風呂に入らなければ。このままではベッドには上がれない。
「うーん、何を見てほしいんだろう」
ぼんやり考える。生前、山中さんを受け持つことが多かった私は結構会話も交わしたはず。何かヒントになりそうなことはなかっただろうか。
考えても分からない。そりゃ、話すことが多かったとはいえ、業務もあるから一日数分ぐらいだ。もっと話せればよかったんだけど、忙しいとなかなかそうもいかなかったんだよなあ。
「あ、やば。洗濯だけ回しておくか」
思い出して起き上がる。持って帰ってきた白衣、洗っておこう。洗濯回してる間にお風呂に入り、朝食を食べ、干したら寝る。この流れはお決まりの流れなのだ。
袋に入れておいた白衣を取り出し、洗濯機へ向かう。中へほうり込もうとしたとき、足元でかちゃんと小さな物音が数回鳴り響いた。そちらに視線を落とす。
ボールペンたちだった。いつもはロッカーに入れておくのだが、今日は随分疲れていたらしい。ポケットに入れっぱなしだったのだ。仕事上メモを取ることも多く、さらにどこかに落としたりするので、いつでも数本常備している。
「あ、持って帰ってきちゃった」
しゃがみ込んでそれを手に取った時、背後からぶわっと何か嫌な気を感じ取った。勢いよく振り返る。
廊下の白い壁が見えているだけだ。ほかには何もない。そもそも、この部屋は信頼できるお寺で頂いたお札を置いておいて、普通のものは近づけないとお墨付きのはず。入ってこれるはずがない。
何もいない。何もいないから。大丈夫。
それでも、言葉に表せられないような嫌な気が、止まらない。
額にうっすら汗をかく。部屋中は静寂で保たれていた。恐らくアパートの住民は仕事に出ている人が多いからだろう。
「……もしかして」
ゆっくり立ち上がる。廊下の奥にある、玄関を見た。ぱっと見は何の変哲もない、いつも通りの扉がひっそりとそこにある。私は足音を立てないようにして、そちらへ近づいて行った。
紺色の扉だ。鍵もドアロックもちゃんとかかってる。その前までたどり着くと、素足のまま下に降り、じっと目の前のそれを見つめた。ひんやりとしたタイルの冷たさが足の平から伝わってくる。
心臓が嫌なほど鳴っていた。ごくりと喉に唾液を流し込み、ドアスコープを覗き込む。
場違いな水色の甚平。素足に垂れた両腕。グレーの髪。
ひどく俯いて顔が見えないものの、それが誰か一瞬で悟った。
愕然とし、数歩下がる。
来てしまった。家まで付いてきてしまった。
こんなことは初めてだった。やはり、話しかけたのがまずかった。彼は完全に私に標的を定めて執着している。
力が抜けてそのまま座り込んだ。多分、お札の効果はあるのだ、だから入ってこない。玄関で佇むしか出来なくなっている。そこは安心していいだろう。
だが玄関前でこうして立たれては、さすがに困る。
「どうしよう……私にはわからない……」
膝に頭を埋もれさせた。
見てほしいって何なの。ここまでして私に伝えたいことは? やっぱり、お祓いをしてもらった方がいいんだろうか。誰か霊媒師とかネットで調べて、ここまで来てもらえば……
そう思っているとき、先ほど拾って手に持っていたボールペンたちを床に落とした。ころころと転がり、そのうち一本が私の足にぶつかる。ふとそれが視界に入ったとき、思い出す。これ確か、先生の車に乗った日、なぜか持ち帰ってきてしまっていたペンだ。
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