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(……あんまり怖い人じゃないのかな)
今までそう思ってたけど、ちゃんとお礼を言える人に悪い人はいない、と私は思っている。女嫌いと、それ以外も人と群れることは嫌ってるけど、根は悪い人じゃなさそう。
先生はそれだけ言うと、すぐにその場から離れた。なんとなく白衣の後ろ姿を見送りながら、本当にもったいないなあ、なんて思う。
まあ、お礼は言ってくれたんだし、助けられたんだよね? お節介はほどほどにしなきゃだけど、声掛けてよかったのかも。
ふうと息を吐きながら、すぐさま仕事モードに戻る。いけない、まだやることは盛りだくさんだというのに。次は何をするんだっけ、とりあえずステーションに帰って……。
そう思いながら、カートを押しつつ歩き出した時だ。
ひんやりとした空気が、首元を通った。
温度管理がしっかりされている病棟で感じることはありえない、冷たいものだった。例えば冷凍庫を開けた瞬間に感じるようなそれが、背後から流れ込んでくる。瞬間、何かがいる、と感じ取った。
ぞくりと嫌な感じを察して、唾を飲み込む。
視線が背中に突き刺さってる、そんな表現がふさわしい感覚だった。誰かが見てる、見てる上で、『こっちを見ろ』と呼んでいる。相手が、必死に私を見つめている。
振り返らずステーションに向かうのは簡単なことだった。今までの私ならそうしてきただろう。
それでもこの時はなぜか、振り返ってしまった。見えない力が私をそうさせたのだ。
目に入ったのは淡い水色の病衣。甚平タイプのそれは見慣れたものだ。足元は裸足で、真っ白な足先が寒そうだと思った。やや伸びた爪が見える。少し膨れたお腹のわりに、細い手足とこけた頬。グレーの短髪が見えた。
その顔を見たとき、自分の息が止まる。
じっとりとした目でこちらを見つめるその人は、私が今朝見送った人だった。
山中さん……。
生前私に笑いかけてくれていたのとはまるで別人の山中さんだった。
いつだって笑顔で軽口を叩いていた山中さん。お喋りで優しかった山中さん。そんな彼はどこにも見当たらない。ただ恨めしそうにこちらを見ているだけだ。
それがあまりに辛かった。突然の死で、驚いているのだろうか、嘆いているのだろうか。それは尤もなことで、私には到底想像できない苦しみなのだろう。
だがすぐにハッとする。彼の気配に気づいて振り返り、目が合ってしまった。今まで、あれだけ見えない振りをし続けてきたのに。
「えーと、記録の前にあの人の点滴見なきゃだったなあ」
すぐに視線をそらし、誰に言うでもなく独り言を呟いた。そして、まるで山中さんには気づいていない、という風に装い、彼の隣りを通り過ぎる。心臓がどきどきしている。
上手くごまかせただろうか。あちらに視えていると感づかれてはまずい。自分の話を聞いてほしくて、付きまとわれるかもしれない。それはだめだ、私には何の力もないんだから。
足早にその場から離れていく。振り返ることはしなかったが、幸い、あの冷気のようなものはすぐに消え去った。多分付いてきていない。
胸を撫でおろすとともに、ちくりと痛んだ。
山中さんはなぜああして残ってしまったんだろう。何かやりたいことがあった? 会いたい人がいた? 分からない、私は結局、彼のことを何も知らないのだ。
ごめんなさい、と心で謝罪した。何もできなくて、ごめんなさい。
でも今までも、入院患者と思しき霊は何人も見てきた。どの人たちも時間が経てばいなくなっていた。それは俗にいう成仏した、なのか、どこかへ移動したのかは分からないが、きっと山中さんも、そのうち見なくなるだろう。
そのときは、そう思っていた。
今までそう思ってたけど、ちゃんとお礼を言える人に悪い人はいない、と私は思っている。女嫌いと、それ以外も人と群れることは嫌ってるけど、根は悪い人じゃなさそう。
先生はそれだけ言うと、すぐにその場から離れた。なんとなく白衣の後ろ姿を見送りながら、本当にもったいないなあ、なんて思う。
まあ、お礼は言ってくれたんだし、助けられたんだよね? お節介はほどほどにしなきゃだけど、声掛けてよかったのかも。
ふうと息を吐きながら、すぐさま仕事モードに戻る。いけない、まだやることは盛りだくさんだというのに。次は何をするんだっけ、とりあえずステーションに帰って……。
そう思いながら、カートを押しつつ歩き出した時だ。
ひんやりとした空気が、首元を通った。
温度管理がしっかりされている病棟で感じることはありえない、冷たいものだった。例えば冷凍庫を開けた瞬間に感じるようなそれが、背後から流れ込んでくる。瞬間、何かがいる、と感じ取った。
ぞくりと嫌な感じを察して、唾を飲み込む。
視線が背中に突き刺さってる、そんな表現がふさわしい感覚だった。誰かが見てる、見てる上で、『こっちを見ろ』と呼んでいる。相手が、必死に私を見つめている。
振り返らずステーションに向かうのは簡単なことだった。今までの私ならそうしてきただろう。
それでもこの時はなぜか、振り返ってしまった。見えない力が私をそうさせたのだ。
目に入ったのは淡い水色の病衣。甚平タイプのそれは見慣れたものだ。足元は裸足で、真っ白な足先が寒そうだと思った。やや伸びた爪が見える。少し膨れたお腹のわりに、細い手足とこけた頬。グレーの短髪が見えた。
その顔を見たとき、自分の息が止まる。
じっとりとした目でこちらを見つめるその人は、私が今朝見送った人だった。
山中さん……。
生前私に笑いかけてくれていたのとはまるで別人の山中さんだった。
いつだって笑顔で軽口を叩いていた山中さん。お喋りで優しかった山中さん。そんな彼はどこにも見当たらない。ただ恨めしそうにこちらを見ているだけだ。
それがあまりに辛かった。突然の死で、驚いているのだろうか、嘆いているのだろうか。それは尤もなことで、私には到底想像できない苦しみなのだろう。
だがすぐにハッとする。彼の気配に気づいて振り返り、目が合ってしまった。今まで、あれだけ見えない振りをし続けてきたのに。
「えーと、記録の前にあの人の点滴見なきゃだったなあ」
すぐに視線をそらし、誰に言うでもなく独り言を呟いた。そして、まるで山中さんには気づいていない、という風に装い、彼の隣りを通り過ぎる。心臓がどきどきしている。
上手くごまかせただろうか。あちらに視えていると感づかれてはまずい。自分の話を聞いてほしくて、付きまとわれるかもしれない。それはだめだ、私には何の力もないんだから。
足早にその場から離れていく。振り返ることはしなかったが、幸い、あの冷気のようなものはすぐに消え去った。多分付いてきていない。
胸を撫でおろすとともに、ちくりと痛んだ。
山中さんはなぜああして残ってしまったんだろう。何かやりたいことがあった? 会いたい人がいた? 分からない、私は結局、彼のことを何も知らないのだ。
ごめんなさい、と心で謝罪した。何もできなくて、ごめんなさい。
でも今までも、入院患者と思しき霊は何人も見てきた。どの人たちも時間が経てばいなくなっていた。それは俗にいう成仏した、なのか、どこかへ移動したのかは分からないが、きっと山中さんも、そのうち見なくなるだろう。
そのときは、そう思っていた。
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