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九条尚久と憑かれやすい青年
逃亡
しおりを挟む伊藤はそのまま最低限の荷物をまとめると、逃げるようにマンションを出た。実家は遠方ではないので、九条の運転でそのまま送ってもらった。
落ち着いたころ、今回の依頼料についてはまた今度話しますと言って、九条はそのまま去って行ってしまった。
実家では突然の長男の帰省にみんな驚いたが、温かい心で歓迎してくれ、妹たちは嬉しそうにはしゃいだ。しかし伊藤は素直にくつろぐことは出来なかった。
家族とはいえ、今回のことを話すのは気が引ける。信じがたい内容だし、下手すれば詐欺にあったと騒ぎになるかもしれない。伊藤は突然帰ってきた理由は告げず、しばらくそこから会社に通勤することにした。そして同時に他の部屋を探し出した。まだ一人暮らしを始めて一か月と少し。このために購入した家具や家電を考えると、あっさり一人暮らしをやめるのはさすがに格好がつかないと思った。
新しい住処を探しながら仕事に行き、バタバタした日常を送っていた。
居酒屋に入ると、一番奥の席に桜井が座っており、伊藤を見つけると笑顔で手を振った。彼の向かいに座り、伊藤は一息つく。
「お待たせ! 遅れてごめん!」
「伊藤が遅刻とか珍しいな。先適当につまみ頼んじゃったよ」
「ありがとう。えーと、飲み物どうしようかなあ」
メニューを見て適当なアルコールを注文すると、おしぼりで手を拭き、すでにテーブルの上に置いてあった枝豆を手に取った。塩気がやや足りないな、と心で呟く。
「先週仕事を休んでたから、そのしわ寄せがきててさ。忙しくて」
「そっか。体調でも崩してたん?」
「いや。前、桜井が紹介してくれたさ……」
「え。もしかして、まじであれ、行ったの?」
驚いたように桜井はテーブルに前のめりになる。伊藤は苦笑いして答える。
「うん、行ったよ。いやあ凄い体験をした。でもいい所を紹介してくれたよ、ありがとう」
「なになに、そんな派手なお祓いしたの?」
「お祓いとかはしないタイプのところでさ」
「お祓いをしない?」
首を傾げる桜井に、伊藤は少し迷ったものの、今回の事件の流れを簡単に説明した。桜井なら信じてくれるだろう、という信頼があったのだ。伊藤が元々霊に好かれやすい体質であることから、マンションに引っ越したことで起こった怪奇現象。結局は隣人がストーカー気質であったことも。
桜井は次第に顔が青くなっていった。注文したドリンクや料理が運ばれてくるが、二人ともほとんど手を付けずに話に夢中になる。全て話し終えた頃には、伊藤が頼んでいたビールの泡はすっかり無くなってしまっていた。
「……ってわけで、大変だったよ」
「え、これ……現実? どっかの小説の話とかではなく?」
桜井はわずかに声を震わせている。
「僕も信じがたいよ……現実。まあ、僕は何も見てないし感じないんだけど、それでも目の前で起こる展開にどっと疲れちゃったよ」
「それで、今お前どうしてんの」
「実家から通ってる。マンションには戻ってない。引っ越し先をようやく見つけたんだ! だから来週には引っ越すよ」
桜井はほっとしたような顔になるも、すぐに表情を厳しくさせる。
「引っ越しするとき、隣人は大丈夫なの?」
「んー相手が仕事に行ってるはずの平日にやるつもりだよ。まあ僕も一時期は好かれてたみたいだけど、カレーを食べてないことで対象から外されたから、もう執着されないと思うけど」
「こええー……見ろ、鳥肌立った」
桜井が腕を見せてきたので、つい伊藤は笑った。笑い事ではないのだが、ようやく平和が戻ってきたな、という気持ちになったのだ。
「いずれにせよ、桜井に教えてもらっていいとこ紹介してもらったよかったよ」
「……てかさ。いや気を悪くしないでほしいんだけど……俺もすっかり話に入り込んで聞いてたけど、壮絶な詐欺ってことはないよなあ? その九条って人と隣人が組んでて、みたいな……伊藤はみえないわけだし」
言いにくそうに桜井がもごもごと言う。伊藤は決して気分を害することなく、穏やかな声色で答える。
「ないと思う。桜井が九条さんを紹介してくれたのは偶然だし、小川さんの家に行こうって言ったのは僕だし? 飾られてた僕の写真を集めるのもかなり前からやらなきゃだし、カレーはあの夜食べちゃってたら計画はぐちゃぐちゃになるだろうし。さすがにヤラセはないね」
「あ、そうだな。そうだよな。ごめん」
桜井はすぐに納得してあっさり引き下がった。普通の人間なら、そういうことを疑うのも仕方がないと伊藤は思っていた。あの現場を目の当たりにし、次々謎が出てきてそれを解き明かしていく様子を体験してなければ、非日常的すぎて信じられないだろう。
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