上 下
431 / 448
九条尚久と憑かれやすい青年

口付け

しおりを挟む
 九条がさらに続けようとすると、それより前に綾子が口を開く。そこから真っ赤な舌がだらりと垂れ、金切り声が飛び出した。耳を塞ぎたくなるような甲高い、嫌な音だ。怒りと拒否が入り混じった声だ、と九条は感じた。酷い声につい顔を歪める。

 すると再び、目の前から綾子が消えてしまう。今先ほどまであった昼の穏やかなキッチンではなく、しんとした夜中の真っ暗なキッチンに戻ってしまっている。

 イマイチ会話が成立しないことに、九条は顔を顰めた。一言でも向こうの意思を聞いてみたいのだが……。

「……いや」

 ハッとして振り返る。背後からまだ不穏な空気を感じ取ったからだ。いる、完全に消えてはいない。彼は急いで部屋の中へ戻り、暗い部屋全体を見回すとすぐに見つけることが出来た。

 伊藤は変わらず寝ている。だがその頭のすぐ隣に、今度は正座した状態の女が顔を覗き込んでいた。長い髪を垂らし、じっと伊藤の顔を見つめている。その口元は、卑しくにやあっと笑っていた。口の端に唾液が光る。

「円城寺綾子さん。その人は義雄さんではありませんよ」

 九条が厳しい声で言うと、明らかに綾子がピクリと反応した。そしてゆっくりと、まるで重い荷物のように頭を持ち上げて九条を見る。

 ひるむことなく、彼は続ける。

「あなたがここにいる理由はなんですか? 伊藤さんや私に何をしてほしいのです。この部屋に、矢部義雄さんはいませんよ」

 綾子は答えない。ただ九条をじいっと見ているだけだ。

 九条はひたすら綾子の返事を待った。憶測ではなく綾子の口から、この世に残る理由を聞いて確信したいからだ。

 だが待てども待てども、綾子は何も答えなかった。どれほど時間が経ったのか、ただ九条の方を見つめていた綾子が、またそっと俯いて伊藤を覗き込む。

 そして、両手で伊藤の頬を包んだ。まるでわが子を愛でる親のような動きで、伊藤の頬を撫でる。

 さらに、寝ている彼に徐々に顔を近づけていく。嬉しそうに楽しそうに、伊藤に近づいていく。

 口づけるつもりだ。

 その異様な動きに察した九条は、まずい、と思った。そして咄嗟に両手を一度叩き、大きな音を出した。部屋中にパン、と大きな音が響く。音は鳴ったものの、どこか鈍い音に聞こえた。

「うーん」

「伊藤さん!」

 寝苦しそうな声を上げた伊藤に呼びかけると、伊藤が目を開ける。同時に、女は舌打ちをして消失してしまった。

 結局聞けたのが、金切り声と舌打ちだとは。九条は一つため息をついた。

「は、はい、どうしました」

 伊藤はごそりと起き上がり、九条の方を見た。開けっ放しのクローゼットに、焦った顔をした九条。それだけで、ただ事ではない何かが起こったのだと理解するには十分だ。

 慌てた様子で部屋の明かりをつけ、九条の元に近づく。

「出たんですか!」

「……出ましたね。それはもう、フルコースでした」

 はあ、とため息をつきながら九条は簡単に今あった出来事を話した。

 死んだ場面を見せつけるように再現されたこと、伊藤のキッチンでカレーを作っていたこと、さらには寝ている彼に口づけようとしたこと。

 とてつもない恐怖に伊藤は眩暈を覚えた。自分はそんな状況の中、どうしてぐっすり眠っていられたのだろう。鈍感は才能だ、と九条は言ったが、鈍感のレベルを超えている気がする。

 頭を抱えながら伊藤は必死に自分を落ち着けた。

「そ、そんなことが……僕、キスされそうだったんですが……ひえ」

「あなたに固着していることは間違いなさそうですね。私にもマーキングはしていますが、伊藤さんへの想いの方が強そうです。キッチンだって、多分嫉妬したんじゃないですか」

「え……?」

 意味が分からず首を傾げたが、すぐに理解して青ざめた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

仲の良かったはずの婚約者に一年無視され続け、婚約解消を決意しましたが

ゆらゆらぎ
恋愛
エルヴィラ・ランヴァルドは第二王子アランの幼い頃からの婚約者である。仲睦まじいと評判だったふたりは、今では社交界でも有名な冷えきった仲となっていた。 定例であるはずの茶会もなく、婚約者の義務であるはずのファーストダンスも踊らない そんな日々が一年と続いたエルヴィラは遂に解消を決意するが──

【完結】生贄になった婚約者と間に合わなかった王子

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
フィーは第二王子レイフの婚約者である。 しかし、仲が良かったのも今は昔。 レイフはフィーとのお茶会をすっぽかすようになり、夜会にエスコートしてくれたのはデビューの時だけだった。 いつしか、レイフはフィーに嫌われていると噂がながれるようになった。 それでも、フィーは信じていた。 レイフは魔法の研究に熱心なだけだと。 しかし、ある夜会で研究室の同僚をエスコートしている姿を見てこころが折れてしまう。 そして、フィーは国守樹の乙女になることを決意する。 国守樹の乙女、それは樹に喰らわれる生贄だった。

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

好きな人に『その気持ちが迷惑だ』と言われたので、姿を消します【完結済み】

皇 翼
恋愛
「正直、貴女のその気持ちは迷惑なのですよ……この場だから言いますが、既に想い人が居るんです。諦めて頂けませんか?」 「っ――――!!」 「賢い貴女の事だ。地位も身分も財力も何もかもが貴女にとっては高嶺の花だと元々分かっていたのでしょう?そんな感情を持っているだけ時間が無駄だと思いませんか?」 クロエの気持ちなどお構いなしに、言葉は続けられる。既に想い人がいる。気持ちが迷惑。諦めろ。時間の無駄。彼は止まらず話し続ける。彼が口を開く度に、まるで弾丸のように心を抉っていった。 ****** ・執筆時間空けてしまった間に途中過程が気に食わなくなったので、設定などを少し変えて改稿しています。

【完結】亡き冷遇妃がのこしたもの〜王の後悔〜

なか
恋愛
「セレリナ妃が、自死されました」  静寂をかき消す、衛兵の報告。  瞬間、周囲の視線がたった一人に注がれる。  コリウス王国の国王––レオン・コリウス。  彼は正妃セレリナの死を告げる報告に、ただ一言呟く。 「構わん」……と。  周囲から突き刺さるような睨みを受けても、彼は気にしない。  これは……彼が望んだ結末であるからだ。  しかし彼は知らない。  この日を境にセレリナが残したものを知り、後悔に苛まれていくことを。  王妃セレリナ。  彼女に消えて欲しかったのは……  いったい誰か?    ◇◇◇  序盤はシリアスです。  楽しんでいただけるとうれしいです。    

【完結】20年後の真実

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。 マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。 それから20年。 マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。 そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。 おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。 全4話書き上げ済み。

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

婚約者の幼馴染?それが何か?

仏白目
恋愛
タバサは学園で婚約者のリカルドと食堂で昼食をとっていた 「あ〜、リカルドここにいたの?もう、待っててっていったのにぃ〜」 目の前にいる私の事はガン無視である 「マリサ・・・これからはタバサと昼食は一緒にとるから、君は遠慮してくれないか?」 リカルドにそう言われたマリサは 「酷いわ!リカルド!私達あんなに愛し合っていたのに、私を捨てるの?」 ん?愛し合っていた?今聞き捨てならない言葉が・・・ 「マリサ!誤解を招くような言い方はやめてくれ!僕たちは幼馴染ってだけだろう?」 「そんな!リカルド酷い!」 マリサはテーブルに突っ伏してワアワア泣き出した、およそ貴族令嬢とは思えない姿を晒している  この騒ぎ自体 とんだ恥晒しだわ タバサは席を立ち 冷めた目でリカルドを見ると、「この事は父に相談します、お先に失礼しますわ」 「まってくれタバサ!誤解なんだ」 リカルドを置いて、タバサは席を立った

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。