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待ち合わせ

それは最高の偶然

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 その赤を見つけた瞬間混乱して叫ぶ。

「血が! 九条さん、血が出てます!!」

 私がそう言ったとき、ふっと全てが止んだ。風も、ラップ音もおさまり、静寂が流れる。そこでやっと九条さんが体を起こした。

 私から離れた九条さんの顔を改めて見上げると、やはり一筋の血が流れていた。足元を見れば、何かの割れた破片や部品が見える。非常灯だ、とすぐに分かった。私のすぐ頭上にあった非常灯が落下してきたのだ。私を庇って代わりに九条さんが怪我を負ってしまった。額から一筋垂れる出血はこめかみに光っている。

「大丈夫です」

 彼はそう短く言って何事もなかったかのように立ち上がる。私は慌ててハンカチでも、と思ったが、あいにく鞄は部屋に置きっぱなしなので持っていない。

「で、でも血が」

「私はいいです。
 それより、あちらをどうするか」

 鋭い視線で見る向こうを私も見てみると、呆然としたようにこちらを見てくる飛鳥ちゃんがいた。彼女は階段に座ったまま、罪悪感に満ちた表情で隣の九条さんを見ている。

 体を覆っていた黒いモヤはいつのまにか消えていた。その小さな体からは、強い戸惑い感じた。

(自分が誰かを怪我させたって、分かったのかな……)

 飛鳥ちゃん自身が受けてきた暴力。自分が流してきた血。

 それを今度は自分が加害する側になってしまった戸惑い。

「大丈夫、あなたのせいではありません。怖がらせてしまった我々大人が悪いんです」

 九条さんはそう言ったが、飛鳥ちゃんの表情は晴れなかった。

 膝に顔を埋めた。そして静かに静かに、泣き声を上げ始めた。

 その姿に、胸が痛みつけられて仕方がない。

 優しい子なんだ。ただ、どうしていいか分からないんだろう。そりゃそうだ、こんな小さな子、しかも心に深い傷を負った子が、すぐに私たちの話を聞いてくれるなんて難しいはず。

 この子のせいじゃないのに。どうして飛鳥ちゃんがこんな目に遭わなくてはならないの。彼女にだって幸せに生きる権利があったというのに……。

 私はいてもたってもいられず、ゆっくり飛鳥ちゃんに向かって階段を進んだ。九条さんが戸惑ったように名を呼んだが、足は止めなかった。

 飛鳥ちゃんの隣にしゃがみ込む。震えるその体に手を伸ばした。無論触れられない。

「怖かったね……」

 小さな嗚咽が聞こえる。



『寂しい』



 溢れた小さな声に、涙が止まらなくなった。

 本当なら、家族にいっぱい甘える年頃。走り回って、勉強をして、時々怒られて、でも幸せに成長していくはずだった子だ。それを、最も信頼する人間に裏切られ人生を絶たれた子。

 この小さな体を抱きしめられたら。

 過去の呪縛から救い出して、一緒に歩いていけたら。

 大丈夫だよって、伝えられたら。

 無力は罪だ、と痛感する。どうすれば伝えられるんだろう。どうしたら救えるんだろう。

 私たちの力だけでは、飛鳥ちゃんの涙は止められない。

 





 背景が、真っ白になった。

 今まで寒かった気温が一気に暖かくなる。まるで冬から春になったように、心地いい温度となった。皮膚にぽかぽかとした太陽の光が当てられているような錯覚を覚える。

 眩しいほどの白に、飛鳥ちゃんだけが泣いている。階段の壁も、聡美たちの姿も、何も見えない白い空間だった。突然変わった世界に、戸惑う暇すらない。

 飛鳥ちゃんに話しかけようとしたとき、すっと自分の目の前を二本の足が通った。細い足だった。突然、鈴の音のような声が降ってきた。

———どうしたの

 優しい言葉が響く。はっとして顔を上げた。声と同じように、優しい微笑みをした女性がそこに立っていた。

 それに反応するように、飛鳥ちゃんの泣き声がピタリと止む。顔を上げた彼女は、涙で頬を濡らしたまま目の前の女性に答えた。

———  どうしていいか分からないの
   ここで待ってないとお母さんに叱られる
   でも待たなくていいよって言われたの

 女性はゆっくりしゃがみ込んだ。飛鳥ちゃんの頬を両手で包み、何度か頷く。


———お母さんに叱られるの?

———叩かれる ご飯もらえなくなる

———痛いね お腹も空いちゃうね

———お腹空いた 寂しいし寒い


 悲痛な声に、女性は何度も頷いてみせる。たったそれだけの動作が、ひどく安心感を植え付けた。ふと、私の母の顔を思い出した。

 私のお母さんとは年齢だって顔立ちだって似ていないのに、なぜこんなにも連想させるんだろう。


———泣いてちゃ可愛い顔が台無しだよ

———だって、寂しい

———  寂しいね
   私、あなたぐらいの子供がいたの
   今はもう大きいけど
   本当はもう一人 子供欲しかったんだ

———そうなの?

———うん、妹か弟が欲しいって、散々言われてたの


 飛鳥ちゃんの涙と鼻血を、躊躇いなく手のひら拭いた。そして、少しアンバランスなショートカットの髪を何度も撫でる。


———うちの子に、なる?


 飛鳥ちゃんの涙が止まる。驚いたように、瞬きすらせず目の前の女性を見た。


———今からたくさん遊ぼう、美味しいご飯を食べて、温かい布団で寝よう
   今までの辛い出来事を全部忘れるぐらい、私と楽しもう

———今から?

———そうだよ、新しい家族は嫌かな? 元々のお家がいい?


 飛鳥ちゃんは強く首を振った。その拍子に涙が周りに滴り落ちる。ホッとしたように女性は笑った。


———私がいっしょに行ってあげる、って言ったら、来る?

———いっしょに?

——— いっしょなら、怖くないでしょ?
   もし怖い目に遭ったら、私が必ず守ってあげる
   絶対に、守ってあげる
   

 飛鳥ちゃんが目をまん丸にしていた。驚きで固まっている小さな彼女を、ゆっくりと抱きしめる。愛おしそうに、その人は笑った。


———  いっしょに行こう 
   怖くないよ 大丈夫
   もうあなたを傷つける大人はいない
   こんなに怖がらせてごめんね
 


 自分を抱きしめる体温に、飛鳥ちゃんは泣いた。さっきとは違う、嬉しそうな泣き声だった。そして腕の中で、何度も頷く。

 それを見た女性は笑って飛鳥ちゃんから離れた。細く小さな手を取ると、しっかり握る。

 飛鳥ちゃんは初めて、白い歯を出して笑った。欠けた前歯が痛々しくも、愛しかった。






 はっとすると、いつもの階段に座っていた。いつのかにか寒さは戻り、冷え切った指先の痛みが現実だと教えてくれた。

 目の前に伊藤さんの後ろ姿がある。その足元には壊れて散らばった非常灯。さらに奥に、九条さんが立っていた。

 彼の隣には、大人と子供が並んで手を繋いでいる後ろ姿があった。一人は髪の長い女性、もう一人はショートカットの少女。

 九条さんは優しい目で二人を見ている。

「……明穂さん!!」

 耐えきれず叫んだ。
   
 明穂さんがこちらを振り返る。情けなくも涙でぐちゃぐちゃになった私の顔を見て、笑った。任せてね、って言ってるようだった。

 隣にいる飛鳥ちゃんは、穏やかな顔をして明穂さんを見上げている。それは子が母を見るような目で。

 九条さんが明穂さんに頭をさげた。

 子を愛し探していた明穂さんと、親の恐怖に囚われた飛鳥ちゃんがここで出会ったのは、ただの偶然だ。

 でもその偶然はこの世で一番素敵だと思った。

 愛に飢えていた飛鳥ちゃんを、愛で包んで連れて行ってくれるなら。これ以上ない最高の供養だ。飛鳥ちゃんもきっと眠れるに違いない。

「ありがとう……」

 救ってくれてありがとう。

 二人は何か会話しているように見えた。よく見る幸せな母娘。そのまま歩き出した明穂さんたちは、出口の扉に吸い込まれるようにすうっと消えて行った。

 温かな空気だけを残して。






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