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真夜中に来る女

女が、くる

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 九条さんはそんな二人に尋ねる。

「いつも女が来る時、あなたがたはどこにいるんですか」

 八重さんが震える腕を押さえるようにしながら答える。

「最初は、この辺にいました、玄関から一番遠い廊下の端に……ここ最近は二人で居間でくっついて玄関を見にもいかなかったんですけど」

「そうですか、それでは今日も廊下の端にいてもらえますか。不用意に近寄るのはやめてください。そこの居間の扉は開けておいてもらえますか、少しぐらいの光は欲しいので」

 二人は不安げに頷く。私は携帯を見ると、もうあと五分だった。なんとなく姿勢を正し、羽織っていた毛布を取った。

 目の前の玄関のガラス戸を眺める。すりガラスから見える向こうは、漆黒の闇に、それから家の外灯が漏らすぼんやりとした心細い光だった。

 言い知れぬ不安に襲われる。震え出した両手を押さえるように拳を握った。隣にしゃがみ込んだ九条さんは、いつもより私と距離が近いように感じた。私の恐怖心をわかってくれているのかもしれない。

 ちらりと携帯を見る。

 あと、一分。

 小声で九条さんが言った。

「いいですか。様子を見て可能そうなら私が声をかけてみますが、場合によっては今日は様子見のみにします。あなたも物音を立てないようにじっとして」

「は、い」

 返事をしてぐっと前を見た。

 大丈夫、経験は浅いけどそれなりに現場を見てきた。最近は少し私も役立てることもあったし、怖いけど九条さんが隣にいてくれるんだから。

 きっと大丈夫。

 そう心の中で気丈に自分を励ました時だった。



 時が、止まったように感じた。



 それはまるで今自分が全く別世界へ放り込まれたような感覚。見知らぬ場所に真っ逆さまに落ちていくような感覚。

 緊張で鳴っていた心臓が、ピタリと音を立てるのをやめた。人間極度の恐怖と緊張にあうと、ドキドキすらしなくなるのだと初めて知った。

 耳に高いキーンという音が鳴り響く。それは耳鳴りであり、そして警報のように感じた。私の中の私が必死に鳴らしている警報機。

 瞬きすら忘れて凝視していたすりガラスの左端に、何かが映る。

 ゆっくりした速度だった。ナメクジが地面を這うような速さでそれは移動している。ぼんやり浮かび上がるシルエットは異様と言う他何もなかった。

 とんでもなく細い足。私の手首くらいだろうか。その二本の足が、重みに耐えれませんというように小刻みに震えながら歩んでいる。

 対して上半身は毛皮のコートを羽織っているかのような大きな形。その色は真っ赤だった。一応長いロングヘアと思しきものが見えた。

 そんなアンバランスで不気味なシルエットがゆっくりゆっくり玄関のガラスの前を移動する。

 口の端から漏れそうになった息すらしてはならないと思った。ただ1ミリも動くことなく、私たちは目の前の物に注視している。

 女がピタリと足をとめた。そしてまた緩慢な動きで今度はこちらを向く。つい悲鳴をあげたくなった。



「ごめんくださあい」



 その声を聞いた途端、自分の意識が一瞬飛んだのかと錯覚する。それほどの衝撃が私を襲った。

 言葉では言い表せれないとんでもない力に当てられた気がした。どっと全身の毛穴から汗が噴き出る。同時にあまりの恐怖に両目から涙が溢れ出た。

 

「ごめんくださあい」


 
 
 それは高い女の声だった。だが同時にひどくしゃがれている声だ。喉にタンが絡んでいるような不愉快な声。若者にも、老婆にも聞こえる不思議な声だった。すりガラスでは、女の顔までははっきりと見えない。けれど、ひどくパンパンに腫れ上がったような丸い顔をしているのはわかった。真っ赤なワンピース、ロングヘア、まん丸の顔と体、折れそうな足。

 異様。それ以外になんて表現すればよいのか。

 私は耐えきれず、隣にいた九条さんにしがみついた。彼は何も言わなかった。好きな男性に抱きつくシチュエーションがこんな形だなんて。

 女が僅かに首を傾げたのがわかった。そして次に、彼女はガラス戸を強い力で叩く。

 ガシャンガシャンと、容赦ない力で叩かれる戸が悲鳴をあげた。それが割れてしまわないか不安で押しつぶされそうになる。もし、こんなのが中に入ってきたら。


「ごめんくださあい」

 ガシャンガシャン

「ごめんくださあい」

 ガシャンガシャンガシャン

「ごめんくださああああああああああい」


 
 女の叫び声がこだまする。もはや私は自分を保つ自信がなかった。叫び出さなかったのを褒め称えたいと思った。卒倒しないのが不思議なほどだ。

 九条さんにしがみついていた力が無意識に強くなってしまう。もはやガクガクと震える手でなんとか彼の白い服を握りしめていた。九条さんの腕が私の肩に回り、力強く支えてくれることに気がつく。その温もりにほんのわずかだけ安心感を得た。彼に肩を抱かれるだなんて、こんな状況でなければきっと忘れられない
いい思い出になっただろうに。

 女はひたすら声を上げながらガラス戸を叩き続けた。どれほど時間が経ったのはかわからないが、ある時ピタリ、とその音が止んだ。

 彼女はじっと停止する。顔はハッキリ見えないまん丸の輪郭に恐怖を感じる。じっとこちらを見ている視線を感じる気がした。


「いないいないいないいないいないいないいない…………」


 小声でそう繰り返し繰り返し呟いた。そしてようやく方向を変え、元来た方向へまたゆっくりと移動していく。

 静寂が訪れる。

 すりガラスから女の姿が見えなくなってからも、私たちはただ無言で戸を見つめ続けた。不用意に声を出すわけにもいかず、私も沈黙を守る。

 長く時間が経ち、私はようやく隣の九条さんを見上げた。未だ私の肩をしっかり抱いている彼の顔を見てハッとする。

 あの九条さんが額に汗を浮かべていた。そして見たこともない厳しい眼光で扉を見つめ、薄い唇は少し開き驚きを隠せないようだった。

 九条さんが、こんな表情をしている。

 いつだって飄々として慌てるとかたじろぐとかしたことのないあの彼が。それは先程の女がどれほど力を持った霊なのかを示していた。

「あの霊は…………」

 ようやくその唇から声が漏れる。未だ視線をずらすことなく、九条さんはキッパリと断言した。



「私たちの手には負えません」




 
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