明日のきょうだい

まどぎわ

文字の大きさ
上 下
66 / 68
彼方の晩年

5 12時20分

しおりを挟む
 お前はピアノが弾けるのか?

 古舘が芒月にそう尋ねたのは、それから更に数ヶ月経った頃だった。
 芒月は退院してからは以前と同じように呼ばれていないのに古舘の家に来ていたし、大学構内でも姿を見かけるようになった。だから、質問するタイミングがなかったわけではない。
 その問い掛けは、古舘が始めて秋に興味を持ち、彼の言葉を対等に聞こうとしていることを意味していた。仕事の依頼や報告ではなく、教師から愚かな若造への一方的な議論でもなく。
 芒月が希望した回転寿司チェーン店のテーブルで、古舘は柄にも無く緊張しながらさり気無さを装って芒月に話しかける。
 仕事でも数学でもない無益な世間話を人とするのは何年振り、何十年振りだろうと古舘はふと考えた。

「先生、あれは鍵盤を押せば誰でも音が出せるんですよ」

 芒月は席に備え付けのタブレットでメニューを選びながら視線も上げずにそう言った。
 もういい、と古舘は会話を諦める。
 古舘がそのまま席を立とうとしたのに気付いて、財布を持っていない芒月は慌てて古舘の腕を掴んだ。

「そう拗ねないで。ごめんなさいって」

「こんな安物の寿司なんぞ食中毒を起こしそうだ」

「大丈夫です。俺もここは玉子とラーメン食べる店だと思ってるんで」

 芒月にメニューを差し出されて、古舘は渋々受け取った。
 古舘は仕事の移動途中にチェーン店の喫茶店くらいには入るが、食事の時は席に座るだけで金がかかるような店にしか行かない。家族連れが喧しくて味も三流以下の店に入るのは、芒月にねだられた時だけだ。

「ピアノは、引き取られてから仕込まれました。学校にも行かずに、掃除とピアノだけ」

「それは賢明だな。極めて優秀な養父母だ」

 教師を誑かして学校で問題を起こした芒月をすぐにまた学校に行かせたら同じ事を繰り返すことは目に見えている。古舘だって、馬鹿で死にかけの狂犬を押し付けられたら、散歩に行かせずに家の中で徹底して躾をする。
 芒月の養父母を評した古舘の言葉に嘘はなかった。しかし、芒月が一度も帰省していないことや、現金振り込みの仕送り以外の連絡は取っていないことを知っている。
 躾が行き届いた吠えない犬を作れるかと、犬に懐かれるかどうかは別問題だ。

「それで、どうしてブログミュラーのアヴェマリアなんだ?」

「え?何がですか?」

「……」

 古舘は今度こそメニューを芒月に投げつけて店を出ようかと考えた。
 しかし、この会話をしたのは数ヶ月前で、尚且つ芒月はその間一度死にかけている。忘れているのも無理はないと諦めて、以前の83とアヴェマリアの話を説明した。
 秋は自分が話をした事は思い出せない様子だったが、自分の中でその緊密な関係性はかわらなかったらしく、古舘の問いに納得していた。

「別に可哀想ぶるつもりはないんですけど、俺は引き取られた家で朝から晩まで、なんなら翌朝まで。寝る暇もなくピアノ漬けにさせられたんです。時々の休憩時間は掃除ですよ。酷いと思いませんか?」

「自殺未遂なんかするから、気が狂っていると思われたんだろう。情操教育に音楽や家事は適切だ。お前が悪い」

「先生……誰かを悪者にするのは止めましょう、俺も含めて」

 要領を得ない芒月の話を辛抱強く聞いていると、どうやら外部との接触をなしにピアノしか弾いていなかったせいで、音を数字に変換できるようになったという。
 過激な音楽教育で目覚めたというよりも、幼い頃からぼんやりと見えていたものにカチリとピントが合ったような感覚。
 自転車に乗れるようになるのと同じで、一度出来るようになると出来ないフリをする方が難しくなった、と。
 それは、もしかしたらとんでもない才能ではないか、と古舘は何の変哲もない青年を僅かに見直した。

「後天的な絶対音感と共感覚」

「音階よりもずっと詳細に表せます。シとソで救急車のサイレンになるけど、誰もピアノの音とサイレンを間違えたりしないでしょう。俺は、先生の声もこの店の騒めきも、全部数字に落とし込めます」

 芒月は珍しく誇るように言ったが、それは若者らしい見栄や自己愛ではなく、普通の会話を自分とすることへの戸惑いの表れだと古舘は気付いた。
 芒月が一方的に話しているのを古舘は聞き流すばかりで、こうやって面と向かって自分が興味を持って会話をするのは付き合いが長いのにこれが初めてだ。
 淡々と話すように見えて意外と年相応の話し方をする子だ、と古舘は気付く。

「それは、再現性はあるのか?」

「いえ、俺以外に同じことを言っている人に会ったことないです。探せばいると思うんですけど、多分、数字の出力方法が違うんじゃないですかね」

「無駄な能力だ」

「ですよね。先生はそんな事を気にしていたんですか?」

「いいや、全く気にしていなかった。少し思い出しただけだ」

 古舘は不機嫌なまま、タブレットで玉子を注文した。

 芒月の能力が深刻な脳の欠陥だと理解したのはしばらく経ってからだった。耳から入った音声は頭の中で全て同列に扱われ、等しく数字に変換される。
 芒月にかかれば、車の騒音も川のせせらぎも、人格を否定するような罵倒も愛の告白も、全て平等に傍から見ると意味の無い数字の羅列に変わっていた。
 芒月は日常生活を送る上では何の不自由もなく、学生生活を送る上でコミュニケーションは取れていた。しかし、誰の言葉も本当の意味では届かない芒月は、一人だけ違うフィルターを通して世の中を渡っている。
 彼の生き方はこういう原理で成り立っているのか、と古舘は妙に腑に落ちていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

タイは若いうちに行け

フロイライン
BL
修学旅行でタイを訪れた高校生の酒井翔太は、信じられないような災難に巻き込まれ、絶望の淵に叩き落とされる…

中学生の弟が好きすぎて襲ったつもりが鳴かされる俳優兄

えびフィレオ
BL
・中学生の弟×ブラコン俳優兄 ・R18描写あり 【登場キャラクター】 アーク ・20歳 ・それなりに売れてる俳優 ・赤い髪のイケメン ・淫魔 ・弟が超大好きでそのうち手を出そうと思っている。リバ(やれればどちらでも良い) フォトン ・アークの妹、ノアの姉 ・16歳(高校1年生) ・モデル 金髪ツインテール ノア ・15歳(中学3年生) ・真面目で誰に対しても敬語 ・黒髪美少年

兄2人からどうにかして処女を守りたいけどどうしたものか

たかし
BL
完璧イケメンの兄×2に処女を狙われてるんですけど、回避する方法を誰か知りませんかね?! 親同士の再婚で義兄弟になるとかいうありがちなストーリーのせいで、迫る変態完璧兄貴2人と男前で口の悪い弟のケツ穴攻防戦が今、始まる___________ まぁ、ざっくり言ってコメディです 多分エロも入ります。多分てか絶対。 題名からしてもう頭悪いよね。 ちょっとしてからエロが加速し始めるんじゃないかな(適当) あ、リクエストかなんかあればどうぞ〜 採用するかはなんとも言えません(笑) 最後にカメ更新宣言しときます( ✌︎'ω')✌︎ *追記* めちゃくちゃギャグテイストです。 キャラがふわふわしとるわ。 なんか…その……あの、じわじわ開発されてく感じ。うん。

双子攻略が難解すぎてもうやりたくない

はー
BL
※監禁、調教、ストーカーなどの表現があります。 22歳で死んでしまった俺はどうやら乙女ゲームの世界にストーカーとして転生したらしい。 脱ストーカーして少し遠くから傍観していたはずなのにこの双子は何で絡んでくるんだ!! ストーカーされてた双子×ストーカー辞めたストーカー(転生者)の話 ⭐︎登場人物⭐︎ 元ストーカーくん(転生者)佐藤翔  主人公 一宮桜  攻略対象1 東雲春馬  攻略対象2 早乙女夏樹  攻略対象3 如月雪成(双子兄)  攻略対象4 如月雪 (双子弟)  元ストーカーくんの兄   佐藤明

女装男子は堕ちていく

とりぷるぺけ
BL
女装をファッションとして楽しむ大学生・香月(かづき)。 いつもと変わらない平穏な日々は、ある日を境に崩れていく。 そして香月は少しずつ堕ちて、やがて……。

身体検査が恥ずかしすぎる

Sion ショタもの書きさん
BL
桜の咲く季節。4月となり、陽物男子中学校は盛大な入学式を行った。俺はクラスの振り分けも終わり、このまま何事もなく学校生活が始まるのだと思っていた。 しかし入学式の一週間後、この学校では新入生の身体検査を行う。内容はとてもじゃないけど言うことはできない。俺はその検査で、とんでもない目にあった。 ※注意:エロです

時森家のメイドさん

BL
4人のご主人様と少年メイドみくのえっちな日常。 受け攻め、組み合わせ非固定です。 気が向いたらいろんな組み合わせの話を更新します。 メイドさん:みく 長男:冬彦 次男:春斗 三男:夏巳 四男:秋親

【R-18】♡喘ぎ詰め合わせ♥あほえろ短編集

夜井
BL
完結済みの短編エロのみを公開していきます。 現在公開中の作品(随時更新) 『異世界転生したら、激太触手に犯されて即堕ちしちゃった話♥』 異種姦・産卵・大量中出し・即堕ち・二輪挿し・フェラ/イラマ・ごっくん・乳首責め・結腸責め・尿道責め・トコロテン・小スカ

処理中です...