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彼方の晩年
5 12時20分
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お前はピアノが弾けるのか?
古舘が芒月にそう尋ねたのは、それから更に数ヶ月経った頃だった。
芒月は退院してからは以前と同じように呼ばれていないのに古舘の家に来ていたし、大学構内でも姿を見かけるようになった。だから、質問するタイミングがなかったわけではない。
その問い掛けは、古舘が始めて秋に興味を持ち、彼の言葉を対等に聞こうとしていることを意味していた。仕事の依頼や報告ではなく、教師から愚かな若造への一方的な議論でもなく。
芒月が希望した回転寿司チェーン店のテーブルで、古舘は柄にも無く緊張しながらさり気無さを装って芒月に話しかける。
仕事でも数学でもない無益な世間話を人とするのは何年振り、何十年振りだろうと古舘はふと考えた。
「先生、あれは鍵盤を押せば誰でも音が出せるんですよ」
芒月は席に備え付けのタブレットでメニューを選びながら視線も上げずにそう言った。
もういい、と古舘は会話を諦める。
古舘がそのまま席を立とうとしたのに気付いて、財布を持っていない芒月は慌てて古舘の腕を掴んだ。
「そう拗ねないで。ごめんなさいって」
「こんな安物の寿司なんぞ食中毒を起こしそうだ」
「大丈夫です。俺もここは玉子とラーメン食べる店だと思ってるんで」
芒月にメニューを差し出されて、古舘は渋々受け取った。
古舘は仕事の移動途中にチェーン店の喫茶店くらいには入るが、食事の時は席に座るだけで金がかかるような店にしか行かない。家族連れが喧しくて味も三流以下の店に入るのは、芒月にねだられた時だけだ。
「ピアノは、引き取られてから仕込まれました。学校にも行かずに、掃除とピアノだけ」
「それは賢明だな。極めて優秀な養父母だ」
教師を誑かして学校で問題を起こした芒月をすぐにまた学校に行かせたら同じ事を繰り返すことは目に見えている。古舘だって、馬鹿で死にかけの狂犬を押し付けられたら、散歩に行かせずに家の中で徹底して躾をする。
芒月の養父母を評した古舘の言葉に嘘はなかった。しかし、芒月が一度も帰省していないことや、現金振り込みの仕送り以外の連絡は取っていないことを知っている。
躾が行き届いた吠えない犬を作れるかと、犬に懐かれるかどうかは別問題だ。
「それで、どうしてブログミュラーのアヴェマリアなんだ?」
「え?何がですか?」
「……」
古舘は今度こそメニューを芒月に投げつけて店を出ようかと考えた。
しかし、この会話をしたのは数ヶ月前で、尚且つ芒月はその間一度死にかけている。忘れているのも無理はないと諦めて、以前の83とアヴェマリアの話を説明した。
秋は自分が話をした事は思い出せない様子だったが、自分の中でその緊密な関係性はかわらなかったらしく、古舘の問いに納得していた。
「別に可哀想ぶるつもりはないんですけど、俺は引き取られた家で朝から晩まで、なんなら翌朝まで。寝る暇もなくピアノ漬けにさせられたんです。時々の休憩時間は掃除ですよ。酷いと思いませんか?」
「自殺未遂なんかするから、気が狂っていると思われたんだろう。情操教育に音楽や家事は適切だ。お前が悪い」
「先生……誰かを悪者にするのは止めましょう、俺も含めて」
要領を得ない芒月の話を辛抱強く聞いていると、どうやら外部との接触をなしにピアノしか弾いていなかったせいで、音を数字に変換できるようになったという。
過激な音楽教育で目覚めたというよりも、幼い頃からぼんやりと見えていたものにカチリとピントが合ったような感覚。
自転車に乗れるようになるのと同じで、一度出来るようになると出来ないフリをする方が難しくなった、と。
それは、もしかしたらとんでもない才能ではないか、と古舘は何の変哲もない青年を僅かに見直した。
「後天的な絶対音感と共感覚」
「音階よりもずっと詳細に表せます。シとソで救急車のサイレンになるけど、誰もピアノの音とサイレンを間違えたりしないでしょう。俺は、先生の声もこの店の騒めきも、全部数字に落とし込めます」
芒月は珍しく誇るように言ったが、それは若者らしい見栄や自己愛ではなく、普通の会話を自分とすることへの戸惑いの表れだと古舘は気付いた。
芒月が一方的に話しているのを古舘は聞き流すばかりで、こうやって面と向かって自分が興味を持って会話をするのは付き合いが長いのにこれが初めてだ。
淡々と話すように見えて意外と年相応の話し方をする子だ、と古舘は気付く。
「それは、再現性はあるのか?」
「いえ、俺以外に同じことを言っている人に会ったことないです。探せばいると思うんですけど、多分、数字の出力方法が違うんじゃないですかね」
「無駄な能力だ」
「ですよね。先生はそんな事を気にしていたんですか?」
「いいや、全く気にしていなかった。少し思い出しただけだ」
古舘は不機嫌なまま、タブレットで玉子を注文した。
芒月の能力が深刻な脳の欠陥だと理解したのはしばらく経ってからだった。耳から入った音声は頭の中で全て同列に扱われ、等しく数字に変換される。
芒月にかかれば、車の騒音も川のせせらぎも、人格を否定するような罵倒も愛の告白も、全て平等に傍から見ると意味の無い数字の羅列に変わっていた。
芒月は日常生活を送る上では何の不自由もなく、学生生活を送る上でコミュニケーションは取れていた。しかし、誰の言葉も本当の意味では届かない芒月は、一人だけ違うフィルターを通して世の中を渡っている。
彼の生き方はこういう原理で成り立っているのか、と古舘は妙に腑に落ちていた。
古舘が芒月にそう尋ねたのは、それから更に数ヶ月経った頃だった。
芒月は退院してからは以前と同じように呼ばれていないのに古舘の家に来ていたし、大学構内でも姿を見かけるようになった。だから、質問するタイミングがなかったわけではない。
その問い掛けは、古舘が始めて秋に興味を持ち、彼の言葉を対等に聞こうとしていることを意味していた。仕事の依頼や報告ではなく、教師から愚かな若造への一方的な議論でもなく。
芒月が希望した回転寿司チェーン店のテーブルで、古舘は柄にも無く緊張しながらさり気無さを装って芒月に話しかける。
仕事でも数学でもない無益な世間話を人とするのは何年振り、何十年振りだろうと古舘はふと考えた。
「先生、あれは鍵盤を押せば誰でも音が出せるんですよ」
芒月は席に備え付けのタブレットでメニューを選びながら視線も上げずにそう言った。
もういい、と古舘は会話を諦める。
古舘がそのまま席を立とうとしたのに気付いて、財布を持っていない芒月は慌てて古舘の腕を掴んだ。
「そう拗ねないで。ごめんなさいって」
「こんな安物の寿司なんぞ食中毒を起こしそうだ」
「大丈夫です。俺もここは玉子とラーメン食べる店だと思ってるんで」
芒月にメニューを差し出されて、古舘は渋々受け取った。
古舘は仕事の移動途中にチェーン店の喫茶店くらいには入るが、食事の時は席に座るだけで金がかかるような店にしか行かない。家族連れが喧しくて味も三流以下の店に入るのは、芒月にねだられた時だけだ。
「ピアノは、引き取られてから仕込まれました。学校にも行かずに、掃除とピアノだけ」
「それは賢明だな。極めて優秀な養父母だ」
教師を誑かして学校で問題を起こした芒月をすぐにまた学校に行かせたら同じ事を繰り返すことは目に見えている。古舘だって、馬鹿で死にかけの狂犬を押し付けられたら、散歩に行かせずに家の中で徹底して躾をする。
芒月の養父母を評した古舘の言葉に嘘はなかった。しかし、芒月が一度も帰省していないことや、現金振り込みの仕送り以外の連絡は取っていないことを知っている。
躾が行き届いた吠えない犬を作れるかと、犬に懐かれるかどうかは別問題だ。
「それで、どうしてブログミュラーのアヴェマリアなんだ?」
「え?何がですか?」
「……」
古舘は今度こそメニューを芒月に投げつけて店を出ようかと考えた。
しかし、この会話をしたのは数ヶ月前で、尚且つ芒月はその間一度死にかけている。忘れているのも無理はないと諦めて、以前の83とアヴェマリアの話を説明した。
秋は自分が話をした事は思い出せない様子だったが、自分の中でその緊密な関係性はかわらなかったらしく、古舘の問いに納得していた。
「別に可哀想ぶるつもりはないんですけど、俺は引き取られた家で朝から晩まで、なんなら翌朝まで。寝る暇もなくピアノ漬けにさせられたんです。時々の休憩時間は掃除ですよ。酷いと思いませんか?」
「自殺未遂なんかするから、気が狂っていると思われたんだろう。情操教育に音楽や家事は適切だ。お前が悪い」
「先生……誰かを悪者にするのは止めましょう、俺も含めて」
要領を得ない芒月の話を辛抱強く聞いていると、どうやら外部との接触をなしにピアノしか弾いていなかったせいで、音を数字に変換できるようになったという。
過激な音楽教育で目覚めたというよりも、幼い頃からぼんやりと見えていたものにカチリとピントが合ったような感覚。
自転車に乗れるようになるのと同じで、一度出来るようになると出来ないフリをする方が難しくなった、と。
それは、もしかしたらとんでもない才能ではないか、と古舘は何の変哲もない青年を僅かに見直した。
「後天的な絶対音感と共感覚」
「音階よりもずっと詳細に表せます。シとソで救急車のサイレンになるけど、誰もピアノの音とサイレンを間違えたりしないでしょう。俺は、先生の声もこの店の騒めきも、全部数字に落とし込めます」
芒月は珍しく誇るように言ったが、それは若者らしい見栄や自己愛ではなく、普通の会話を自分とすることへの戸惑いの表れだと古舘は気付いた。
芒月が一方的に話しているのを古舘は聞き流すばかりで、こうやって面と向かって自分が興味を持って会話をするのは付き合いが長いのにこれが初めてだ。
淡々と話すように見えて意外と年相応の話し方をする子だ、と古舘は気付く。
「それは、再現性はあるのか?」
「いえ、俺以外に同じことを言っている人に会ったことないです。探せばいると思うんですけど、多分、数字の出力方法が違うんじゃないですかね」
「無駄な能力だ」
「ですよね。先生はそんな事を気にしていたんですか?」
「いいや、全く気にしていなかった。少し思い出しただけだ」
古舘は不機嫌なまま、タブレットで玉子を注文した。
芒月の能力が深刻な脳の欠陥だと理解したのはしばらく経ってからだった。耳から入った音声は頭の中で全て同列に扱われ、等しく数字に変換される。
芒月にかかれば、車の騒音も川のせせらぎも、人格を否定するような罵倒も愛の告白も、全て平等に傍から見ると意味の無い数字の羅列に変わっていた。
芒月は日常生活を送る上では何の不自由もなく、学生生活を送る上でコミュニケーションは取れていた。しかし、誰の言葉も本当の意味では届かない芒月は、一人だけ違うフィルターを通して世の中を渡っている。
彼の生き方はこういう原理で成り立っているのか、と古舘は妙に腑に落ちていた。
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