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第15話 勇者、過去と対峙する

〜4〜

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 翌日、俺が庭の木陰で魔術書を読んでいると、テラスから飛び降りたコルダがこちらに駆けて来た。
 水遊びでもしていたのかコルダの服はびしょびしょに濡れている。俺の傍らで刺繍をしていたティータが「あらあら」とコルダの服に手を伸ばして布を絞った。

「勇者様ー!お庭にお池作ってなのだ」

「あら?水浴びでもするの?」

「あのね、この子にお家が必要なのだ」

 コルダが俺の目の前に巨大なタコを突き付けて来た。ぬめぬめした触手が魔術書の上に伸びて来る。キッチンの流しで一晩生き抜いたタコを、コルダはペットとして飼うつもりらしい。
 ニーアとリリーナは昨日からキッチンに近付こうともしないから、絶対に反対するはずだ。
 しかし、焼こうか煮ようか、どうやって食おうか考えている俺にまで触手を伸ばして来るこの海洋生物が少し哀れに思えて来た。
 俺が魔法を使えば、この庭に海水を引いてちょっとした池を作る事など朝飯前だ。

「ねー名前付けてなのだー」

「そうね……あ、モーリっていうのはどうかしら?」

「えー!もっと強そうなのがいいー!」

「えぇと、それならねぇ……」

 コルダが些細なわがままを言って、ティータが少し困った笑顔を向ける。俺は話に参加しようかと思ったが、この嘘のように穏やかな空気を壊してしまう気がして、魔術書に視線を落としたままでいた。
 こんな生活を続けられたら、イナムだとか前世のこととか、残業代が出ない今の労働環境とか、そういう事を全て忘れて生きていけそうな気がする。
 しかし、ニーアはそれを許す気は無いようだ。
 俺がお菓子を取りにテラスに行くと、部屋の中から様子を窺っていたニーアがスッと近付いて来た。
 ニーアは俺がティータに余計な事をしないように、昨日から事務所に泊まって俺を見張っている。

「勇者様、正直、ニーアはまだティータさんを疑ってるんです」

「そうか」

「なので、あの人と一度話をしてもいいですか?」

 そんな事はもう少し後でもいいだろう。俺はそう言おうとしたが、ニーアは俺が想像していたよりもずっと真剣な顔をしていた。

「ニーアが魔法剣士になるって決めた時、母はニーアが決めた事だからって、反対しませんでした。危ないし野蛮だって言われる仕事だけど、辞めていいなんて絶対に言いませんでした」

 俺の親のことなど勇者の仕事にも市の仕事にも関係無い。
 しかし、上司の勇者に反対するのは、魔法剣士のニーアにとって相応の覚悟が必要なはずだ。
 これ以上、ニーアを我慢させておくのも悪い気がして、好きにしてくれと頷いた。


+++++


 ティータと一緒に応接室に入ったニーアは、扉の鍵を閉めてしまった。
 扉の前で聞き耳を立てていようか迷ったが、2人で話したいと言ったニーアを裏切る事になってしまう。
 何とか堪えて2階の自室で大人しくしていようと向かうと、何故か空き部屋にリリーナとコルダが揃っていて、じっく床を見つめていた。
 一体何をしているのかと後ろから覗いてみると、そこは応接室の真上だ。リリーナが魔術で床を透かせて盗み見している。
 いつも扉の外で盗み聞きしながらボードゲームをして遊んでいたのに、悪知恵をつけたものだ。
 俺もコルダとリリーナの間に入って、ニーアとティータのつむじと応接室のテーブルを見下ろした。
 ティータの正面に座ったニーアが静かに話し出すと、リリーナの魔術だけあって床を透かすだけではなく声までちゃんと聞こえて来る。

「私は市の魔法剣士で、勇者様のプライベートに口を出す立場ではないのですが、仕事に支障が出ないように今一度確認させていただきます……ティータさんは、勇者様の御母様なんですね?」

「ええ……私も、今頃になって調子の良い事を言っていると思いますが……本当に、あの時は育ててあげられなくて……っ」

「責めたりはしません。本当に御母様だというのなら、これから勇者様の事を知っていけばいいと思います」

 泣き声を上げて顔を覆ったティータに、ニーアは意外にも優しい声をかける。
 そして、分厚いファイルを捲って書類を1枚取り出してテーブルに置いた。

「これが、勇者様の養成校での成績です」

 目を凝らして書類を見ると、確かに俺の成績表だ。俺はもう捨ててしまって手元に無いが、市に情報が伝わっていたらしい。
 俺の優秀な軌跡を知りたい気持ちはわかるが、一応個人情報だ。そんなに見ないでくれとリリーナとコルダに言おうとしたが、2人は俺の成績には全く興味が無いらしく、全然見ていなかった。

「まぁ……さすがデュラン!学校でもとても優秀だったのね」

「そうです。勇者様は入学前に必要な知識は全部入っていたようですから、2年で卒業できたんですよ。すごく優秀な方なんです」

 俺がいない所でニーアが俺を褒めていて、何だか背筋が痒くなって来た気がする。リリーナとコルダにそれを悟られないように表情を硬くしていると、ニーアはファイルを捲って次の書類をテーブルに乗せた。

「そして、これが、勇者様の給与明細です」

 それを聞いたコルダとリリーナは、先程とは打って変わって興味津々に身を乗り出して床を見つめていた。
 個人情報だ、と身を挺して2人から隠そうとしたがコルダの怪力で退かされてしまう。

「いいじゃない。どうせ沢山貰ってんでしょ」

「コルダも少し興味あるのだー」

 ティータが書類に並んだ数字をじっと見つめて、しばらく応接室が静かになる。

「…………手取りは、意外と少ないんですね」

 ティータがあからさまに落胆した声でそう言った。
 勇者は高給取りではあるが、怪我や死亡の時の為に保険金のために給料から引かれる金額が多い。それに、俺はまだ1年目の新人。普通に給料が支払われていても、人1人がギリギリ遊んで暮らせるくらいの年収だ。

「御母様に関係があるのは、ここの金額、保証金です。勇者様には御家族がいないので御自分の給料から引かれていますが、通常は御家族から徴収されるお金です」

「家族が?あら……そんなお金があるんですね……」

 保証金は、任期中に勇者が誠心誠意仕事をすることを保証するために勇者の家族が支払うお金だ。
 無事に任期が終われば戻って来るお金だから、勇者は家族に保証金分は仕送りをするのが慣習になっていた。勇者が国を裏切った時に家族を人質に取れるように、縁が切れないようにしているわけだ。
 しかし、俺は家族がいないから、自分の給料からそのまま引かれている。

「保証金は、勇者の勤務態度に合わせて金額が変わります。大抵は、給料の数%程度ですが……」

 俺はコルダとリリーナを透けた床から離そうとしたが、どれだけ興味があるのか全力で逆らっていて、ぴくりとも動かない。
 勤務態度が真面目な勇者は、逃げ出したりサボったりせずに任期を勤め上げるから、徴収される保証金は給料の1%程度。不真面目な勇者は、その罰の意味もあってパーセンテージが上がって行く。
 俺は首席卒業の優秀な勇者だが、真面目な勇者ではないことは確かだ。

「勇者様は、60%です」

 ニーアが言い終わると同時に、リリーナの手が伸びてきて俺の胸倉を掴み上げた。同時にコルダが俺の腕を掴んで肩が外れるんじゃないかという力で引っ張ってくる。

「だからあたしの給料が低いの?!」

「妙に低賃金だからおかしいと思ってたのだ!」

 こうなる事が分かっていたから、俺はこの2人に給料の話をしたくなかった。
 俺は金銭的に貧しくても人間らしく生きたい。
 人は、働くために生まれたのではない。精神的に満ち足りた生活も、穏やかで潤沢な時間も、金では買えないものだ。
 人生の優先順位を間違えてはいけない。

「ごちゃごちゃ言ってんじゃないわよ。あんたの人生観にあたしの給料を巻き込まないで!」

「そもそも、給料60%カットでハウスキーパー雇おうなんてよく言えたのだ!!」

 コルダは仕事らしい仕事を何もしていないし、毎晩2時間程度しか働いていないリリーナには充分過ぎるほどの給料だ。一般的に勇者の下で働いている人間よりも2人の給料が低いのは、単純に労働時間が少ないから。
 俺が論理的な反論をしても、「開き直るな!」と2人が襲い掛かって来る。

 俺達が騒いでいるのに気付いて、応接室のニーアが天井を見上げる。
 しかし、ティータは、俺の給与明細を見たまま固まって黙ったままだった。
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