41 / 92
Section5:守護者
40:槍兵の桑の木人形(マルベリー・ドール) - 4
しおりを挟む
マルベリー・ドールは貼り付いた重い瞼をゆっくりと開けた。辺りは驚くほど静かで、物音一つすらしない。アークが動く気配もなく、どうやら無事に海底プラントに着いたらしい。
少し前まで泣いていたことなど気にも留めず、あれから何時間経過したかを改めて計算する。
確か、アークに搭乗したのが深夜二時過ぎだった。そこから仮死となり、蘇生を終えるまでが約三時間。更に体力を取り戻すために設定された睡眠時間が三時間、合計六時間程度経ったはずだ。……つまり、今は翌日の朝八時ぐらいらしい。
動力センサーが無かった事を思い出してから、体内にある生体センサー用のジャマーを脳波による指令で発動させ、電源の入っていないカプセルを手動で開き、そろそろと這い出た。部屋の中心に視線を向けると、制御コンピューターから海底を思わせるブルーの常夜灯が必要最小限に放たれていた。
くぼんだ中央へ下る階段を下りながら、横たわる人々のカプセルに目を配る。皆表情は一定で、ぱっと見た限りでは生きているのか死んでいるかも解らない。
制御コンピューターに近付いたところで、伸ばしかけた手を一旦止めた。まずは連絡が先なのだ。
長い髪をかきあげ、耳たぶの後ろにある、一見するとただの骨の出っ張りのように見えるボタンを押し、通信をオンにする。その影響でズシリと重い目眩に似た感覚が頭にのしかかり、マルベリー・ドールの身体は少しふらついた。
『マルベリー・ドールか。潜入までは成功したんだな』
鼓膜に直接送られるオーランドの声に、マルベリー・ドールは僅かながら安堵した。
「ええ。大佐の予想通りでした。動力センサーもなく、生体センサーは誤魔化せています。その他、任務の妨げになるセンサーもありませんね」
『ならば良好だ。ブレイデンのツールは持っているか?』
マルベリー・ドールは懐から綺麗に折り畳まれたペーパータブレットを取り出した。
「ええ、勿論。お陰で大事な歯を失わずに済みました」
『よし。では早速取りかかってくれ。通信はこのままで』
「了解です、大佐」
折り畳まれたペーパータブレットは糊付けされていて、少し開かせるだけで元の形状を取り戻そうと自ら動き出した。それを手伝うように、マルベリー・ドールは優しい手つきで二倍、四倍、八倍と開いていく。
全て開くとA4程の大きさになった。あれだけ強く折り畳んであったというのに、皺は残されていない。
床に広げ、腰を下ろして色の濃い部分を横にスライドさせると、透明なシートの表面にふわっと小洒落た筆記文字が浮かび上がり、簡易的なOSの立ち上がりを知らせる。その間、マルベリー・ドールは腰を曲げながら、シャツを引き上げ、尾てい骨の少し上辺りの皮膚に指を差し込んだ。
顔をしかめつつ、糸状の何かを力強く引き出す。これでも神経への刺激を最小限に抑制してはいるのだが、背中から下半身にかけて、強烈な脱力感がビリビリと伝わり、うっかりすると倒れそうになる。
引き出したのは脊髄終糸の替わりとなる細い接続ケーブルだった。先端をタブレットの上部にある端子に貼り付けてツメを曲げて固定し、もう一方のブヨブヨとした感触の膨らんだ先端を制御コンピューターの入力端子に押しつけるようにして差し込む。規格はケーブルに組み込まれた極小のCPUが自動的に判別し、合わせるので、どんなタイプでも問題はない。
タブレットの上でチカチカと目まぐるしく文字が動き始めた。マルベリー・ドールはその数値を見やりながら、オーランドに呼びかける。
「解析開始しました。ケーブルには通信機能もついていますので、解析中の状態も含め、私の身体を中継してそちらへと結果が送られている筈です」
『……うむ。こちらでもモニタリング出来ているよ。よくやった。準備が整ったら外で待機している迎えを寄越そう。そこから脱出出来そうか?』
マルベリー・ドールは首を動かして周囲をぐるりと見渡した。二つある扉には、どちらもロックを示す赤いランプが取っ手の上部で点灯していた。
「……いえ。何とかしてはみますが、転送が終了するまでは動かない方がいいでしょう」
『そうか……。まぁ、ともあれご苦労だった、マルベリー・ドール。帰ったら何か望みを叶えてやらねばならんな』
少女は声を立てずに小さく笑った。
「大佐? 女の子をからかうものじゃありませんよ。私の望みなんて、貴方に叶えられると思いませんが」
オーランドは低い声で唸った。
『そ、そうなのか。困ったな。では、どうすればいいかね?』
「ふふ。もうしばらく考えてみます」
と、その時、小さな電子音が聞こえ、マルベリー・ドールははっと身構えながら反射的にオーランドとの無線を切断した。
音のした方を振り返ると、扉の赤いランプが青に変わっている。
瞬時に背筋が凍りついた。解析はまだ、七十パーセント程度だ。コンピュータに繋いだハッキングツールを今ここで取り外すわけにはいかない。
マルベリー・ドールはひとまず制御コンピューターの、扉から見えない位置に背中を預け、姿を隠した。
ごく静かな音だが、扉が横にスライドし、明らかに普通ではない、大きな堅い靴音と、それに合わせてアーク全体に振動を与える程の重い感触が、床を通して伝わってきた。
――警備員!?
シェルターで完全に塞がれた巨大な密室に、そんなことが有り得るのだろうか。
だとしたら、シェルターの奥には入居施設があるのかもしれない。
コールドスリープの冷気で、元々冷たく広がっていた部屋の空気が異様なまでに寒く感じられる。
手元にも体内にも武器は無い。相手に必要以上の警戒を与えるのも駄目だ。
振動を与える足音に合わせ、ピタリと貼り付いた背を少しずつ動かす。
出来ればどういう武装をしているか確認したかったが、直視することは則ち、相手に見られるということでもある。真っ正面からは控えるべきだろう。
円筒状の制御コンピューターを軸に、相手の死角となるよう、そろりそろりと素足を運ぶ。
無防備だ。加えて、本来無いはずのものが扉から斜め正面の床に置かれているという、この悪状況。
――気付かれるかしら? それとも、何もせずにやり過ごせる?
判断を誤れば、ハッキングの機会は永遠に失われる。
相手を警戒させるだけでなく、アドレスは書き換えられ、プルステラとの交信は二度と出来なくなるだろう。
だが、その悪い確率を考えても……ほんの数秒でいい。僅かにでも気を逸らすべきだ。
マルベリー・ドールは足音のする方向を頼りに、背後から接近することを考えた。
相手の移動する方角は扉を正面に捉えて右側、つまりタブレットが置かれた方向だ。となれば、その反対、左側から後ろに回り込むしかない。
彼女は制御コンピューター沿いに素早く爪先で走り、半周を移動した。
正面には、まだ青いランプのままの扉と、右手には侵入者の巨大なシルエット。
その姿を見て、あっと息を飲んだ。
――機械人形だ。
暗くて判別し辛いが、肩幅が大きく、二メートルはあるかという体格で、何かの金属で出来たパワードスーツとも言うべき人型であるのは間違いない。しかし、見たところでは人らしきものが中にいるとも思えない。これは遠隔操作かAIによるロボットか、或いは高度な知能を持ったアンドロイドなんだろうか。
マルベリー・ドールは青ランプのドアの前に素早く近付き、直ぐに元の位置へと戻った。一瞬遅れてドアは独りでに開き、その僅かな開閉音に機械人形は振り返った。
それだけで充分だった。機械人形はドアが開いた原因を優先すべきと考えたらしい、呑気な足どりでアークの外へ引き返していった。ドアがぴったり閉まるのを確認してから、その間にハッキングツールに近付き、残りの進捗を確認する。
ようやく八十五パーセント。機械人形がもう一度引き返してきたとしても、あの速度なら充分に間に合うだろう。
……そう思った矢先、予想したよりも早い間隔で足音が引き返してきた。マルベリー・ドールは歯噛みし、ドアを一瞬睨み付けてからハッキングツールとケーブルをまとめて抱えた。……いつでも引き抜けるように。
額から滲み出た汗が頬へと伝う。……九十パーセント。
プレス機が接近するような重い足音と振動に身震いする。先程は通信に集中していたせいか、全く聞こえていなかった。
一度閉まったはずのドアのロックが再度開けられる。……九十三パーセント。
身を屈め、何とか制御コンピューターの出っ張りに身を潜め、背をくっつけて座り込む。
余程同じ方向に歩きたいのか、またしても右側へ移動しようとしてくる。……九十六パーセント。
――ああ……。まだなの?
不審な偶然は二度も起こらない。
次にドアを開くようなことがあれば、さすがに疑いを持つだろう。
九十八パーセント。
機械人形は直ぐそこにいる。次に一歩近付いたら……。
足下に伝わる振動。それを合図に反射的にケーブルを引き抜く。
伸縮性のあるケーブルは勢い良く叩いた鞭のようにしなり、マルベリー・ドールの手元へ返ってきた。片手で素早く残りを掴み、制御コンピューターの陰に再び隠れる。
腕の中に隠れたタブレットの文字を確認する。
――九十九パーセント。
さあっと頭から血の気が引いた。
失敗したのだ。例え残り一パーセントでも。
マルベリー・ドールの目に思わず涙が浮かんだ。だが、そんな気分に浸る場合でもなく、ぎゅっと唇を噛みしめ、手で涙を払った。
せめて、見つかるような真似だけはしたくない。これ以上、迷惑をかけるわけにもいかないのだ。
機械人形は中央の通路を一周するつもりらしい。
先程までマルベリー・ドールが居たところまで移動したタイミングで、彼女は素早く階段を駆け上り、出来るだけ静かに自分のカプセルを開き、中へと転がり込んだ。
ひんやりとした感触に思わず声が出そうになるが、我慢して蓋の取っ手を引いて手動で閉じる。
やがて、機械人形は元の入り口から帰っていった。
それを確認した後で、マルベリー・ドールは通信を再びオンにするや、いきなりオーランドに泣きついた。
「ごめんなさい……! 私……しくじりました……!」
オーランドはしばらく黙って聴いていたが、やがて、『いや』と一言断った。
『キミは良くやってくれた。必要なデータは収集済みだよ』
あまりにも意外な言葉に、マルベリー・ドールはきょとんとした顔で、
「……え?」
と小さく声を上げた。
オーランドは少し笑いながら話を続けた。
『後の一パーセントはブレイデンの方で補完出来るそうだ。キミはやり遂げたんだよ、マルベリー・ドール』
頬が緩み、肺に詰まった空気が一度に吐き出された。恐れから解放されるというのは、こういうことなのだ。
彼女は恐れを持たないわけではなかった。ただ、知らなかっただけなのだ。
その事実に内心、嬉しくなる。――まだ、人間らしさが幾分かある、ということに。
『キミは意外に小心者だな』
そんなふうに笑うオーランドに、マルベリー・ドールは口を尖らせた。
「ばっ、馬鹿にしないで頂けます!? こちらは命懸けなんですよ!?」
『ふふ……そうだな。すまなかった。……ところで、先程通信が切れたのは、キミが言っていた失敗と関係があるのかね?』
マルベリー・ドールは真顔に戻り、状況を説明した。
「ええ。二メートルはある機械の……重機と呼べるアンドロイドか何かが巡回していました。今は去りましたが、経路はまだ不明です」
オーランドはそこで横にいるらしいブレイデンと何かを会話した。
『……すまない。こちらからも何か調べられたらいいのだが、直ぐには提供出来そうにない。もう少しかかりそうだ』
マルベリー・ドールはペーパータブレットを元の小さな形に折り畳もうと躍起になりながら尋ねた。
「私は、しばらくここに居た方がいいですか?」
『ああ。状況が状況だからな。出来ればそうしてくれ。早く帰りたい気持ちは判るが、マップが無ければ難しいだろう?』
小さく折り畳み、ケーブルを巻き付けて固定したところで、誇らしげに指先でつまんで弄び、「ええ」と答える。
そこで、彼女はふと、ある事を思い出し、こう尋ねた。
「……そう言えば、『今日』届く予定のアークはありますか?」
『今日? しかし、今日は既に……』
そう言いかけたところで、オーランドは口を噤んだ。
マルベリー・ドールは手応えを感じて得意気に口の端を上げ、こう言った。
「イギリスより西なんて、まだまだありますよね、大佐」
――グリニッジ天文台での現在時刻は、西暦二二〇三年十一月一日 午前八時三十三分。
ハロウィンはまだ、終わらない。
少し前まで泣いていたことなど気にも留めず、あれから何時間経過したかを改めて計算する。
確か、アークに搭乗したのが深夜二時過ぎだった。そこから仮死となり、蘇生を終えるまでが約三時間。更に体力を取り戻すために設定された睡眠時間が三時間、合計六時間程度経ったはずだ。……つまり、今は翌日の朝八時ぐらいらしい。
動力センサーが無かった事を思い出してから、体内にある生体センサー用のジャマーを脳波による指令で発動させ、電源の入っていないカプセルを手動で開き、そろそろと這い出た。部屋の中心に視線を向けると、制御コンピューターから海底を思わせるブルーの常夜灯が必要最小限に放たれていた。
くぼんだ中央へ下る階段を下りながら、横たわる人々のカプセルに目を配る。皆表情は一定で、ぱっと見た限りでは生きているのか死んでいるかも解らない。
制御コンピューターに近付いたところで、伸ばしかけた手を一旦止めた。まずは連絡が先なのだ。
長い髪をかきあげ、耳たぶの後ろにある、一見するとただの骨の出っ張りのように見えるボタンを押し、通信をオンにする。その影響でズシリと重い目眩に似た感覚が頭にのしかかり、マルベリー・ドールの身体は少しふらついた。
『マルベリー・ドールか。潜入までは成功したんだな』
鼓膜に直接送られるオーランドの声に、マルベリー・ドールは僅かながら安堵した。
「ええ。大佐の予想通りでした。動力センサーもなく、生体センサーは誤魔化せています。その他、任務の妨げになるセンサーもありませんね」
『ならば良好だ。ブレイデンのツールは持っているか?』
マルベリー・ドールは懐から綺麗に折り畳まれたペーパータブレットを取り出した。
「ええ、勿論。お陰で大事な歯を失わずに済みました」
『よし。では早速取りかかってくれ。通信はこのままで』
「了解です、大佐」
折り畳まれたペーパータブレットは糊付けされていて、少し開かせるだけで元の形状を取り戻そうと自ら動き出した。それを手伝うように、マルベリー・ドールは優しい手つきで二倍、四倍、八倍と開いていく。
全て開くとA4程の大きさになった。あれだけ強く折り畳んであったというのに、皺は残されていない。
床に広げ、腰を下ろして色の濃い部分を横にスライドさせると、透明なシートの表面にふわっと小洒落た筆記文字が浮かび上がり、簡易的なOSの立ち上がりを知らせる。その間、マルベリー・ドールは腰を曲げながら、シャツを引き上げ、尾てい骨の少し上辺りの皮膚に指を差し込んだ。
顔をしかめつつ、糸状の何かを力強く引き出す。これでも神経への刺激を最小限に抑制してはいるのだが、背中から下半身にかけて、強烈な脱力感がビリビリと伝わり、うっかりすると倒れそうになる。
引き出したのは脊髄終糸の替わりとなる細い接続ケーブルだった。先端をタブレットの上部にある端子に貼り付けてツメを曲げて固定し、もう一方のブヨブヨとした感触の膨らんだ先端を制御コンピューターの入力端子に押しつけるようにして差し込む。規格はケーブルに組み込まれた極小のCPUが自動的に判別し、合わせるので、どんなタイプでも問題はない。
タブレットの上でチカチカと目まぐるしく文字が動き始めた。マルベリー・ドールはその数値を見やりながら、オーランドに呼びかける。
「解析開始しました。ケーブルには通信機能もついていますので、解析中の状態も含め、私の身体を中継してそちらへと結果が送られている筈です」
『……うむ。こちらでもモニタリング出来ているよ。よくやった。準備が整ったら外で待機している迎えを寄越そう。そこから脱出出来そうか?』
マルベリー・ドールは首を動かして周囲をぐるりと見渡した。二つある扉には、どちらもロックを示す赤いランプが取っ手の上部で点灯していた。
「……いえ。何とかしてはみますが、転送が終了するまでは動かない方がいいでしょう」
『そうか……。まぁ、ともあれご苦労だった、マルベリー・ドール。帰ったら何か望みを叶えてやらねばならんな』
少女は声を立てずに小さく笑った。
「大佐? 女の子をからかうものじゃありませんよ。私の望みなんて、貴方に叶えられると思いませんが」
オーランドは低い声で唸った。
『そ、そうなのか。困ったな。では、どうすればいいかね?』
「ふふ。もうしばらく考えてみます」
と、その時、小さな電子音が聞こえ、マルベリー・ドールははっと身構えながら反射的にオーランドとの無線を切断した。
音のした方を振り返ると、扉の赤いランプが青に変わっている。
瞬時に背筋が凍りついた。解析はまだ、七十パーセント程度だ。コンピュータに繋いだハッキングツールを今ここで取り外すわけにはいかない。
マルベリー・ドールはひとまず制御コンピューターの、扉から見えない位置に背中を預け、姿を隠した。
ごく静かな音だが、扉が横にスライドし、明らかに普通ではない、大きな堅い靴音と、それに合わせてアーク全体に振動を与える程の重い感触が、床を通して伝わってきた。
――警備員!?
シェルターで完全に塞がれた巨大な密室に、そんなことが有り得るのだろうか。
だとしたら、シェルターの奥には入居施設があるのかもしれない。
コールドスリープの冷気で、元々冷たく広がっていた部屋の空気が異様なまでに寒く感じられる。
手元にも体内にも武器は無い。相手に必要以上の警戒を与えるのも駄目だ。
振動を与える足音に合わせ、ピタリと貼り付いた背を少しずつ動かす。
出来ればどういう武装をしているか確認したかったが、直視することは則ち、相手に見られるということでもある。真っ正面からは控えるべきだろう。
円筒状の制御コンピューターを軸に、相手の死角となるよう、そろりそろりと素足を運ぶ。
無防備だ。加えて、本来無いはずのものが扉から斜め正面の床に置かれているという、この悪状況。
――気付かれるかしら? それとも、何もせずにやり過ごせる?
判断を誤れば、ハッキングの機会は永遠に失われる。
相手を警戒させるだけでなく、アドレスは書き換えられ、プルステラとの交信は二度と出来なくなるだろう。
だが、その悪い確率を考えても……ほんの数秒でいい。僅かにでも気を逸らすべきだ。
マルベリー・ドールは足音のする方向を頼りに、背後から接近することを考えた。
相手の移動する方角は扉を正面に捉えて右側、つまりタブレットが置かれた方向だ。となれば、その反対、左側から後ろに回り込むしかない。
彼女は制御コンピューター沿いに素早く爪先で走り、半周を移動した。
正面には、まだ青いランプのままの扉と、右手には侵入者の巨大なシルエット。
その姿を見て、あっと息を飲んだ。
――機械人形だ。
暗くて判別し辛いが、肩幅が大きく、二メートルはあるかという体格で、何かの金属で出来たパワードスーツとも言うべき人型であるのは間違いない。しかし、見たところでは人らしきものが中にいるとも思えない。これは遠隔操作かAIによるロボットか、或いは高度な知能を持ったアンドロイドなんだろうか。
マルベリー・ドールは青ランプのドアの前に素早く近付き、直ぐに元の位置へと戻った。一瞬遅れてドアは独りでに開き、その僅かな開閉音に機械人形は振り返った。
それだけで充分だった。機械人形はドアが開いた原因を優先すべきと考えたらしい、呑気な足どりでアークの外へ引き返していった。ドアがぴったり閉まるのを確認してから、その間にハッキングツールに近付き、残りの進捗を確認する。
ようやく八十五パーセント。機械人形がもう一度引き返してきたとしても、あの速度なら充分に間に合うだろう。
……そう思った矢先、予想したよりも早い間隔で足音が引き返してきた。マルベリー・ドールは歯噛みし、ドアを一瞬睨み付けてからハッキングツールとケーブルをまとめて抱えた。……いつでも引き抜けるように。
額から滲み出た汗が頬へと伝う。……九十パーセント。
プレス機が接近するような重い足音と振動に身震いする。先程は通信に集中していたせいか、全く聞こえていなかった。
一度閉まったはずのドアのロックが再度開けられる。……九十三パーセント。
身を屈め、何とか制御コンピューターの出っ張りに身を潜め、背をくっつけて座り込む。
余程同じ方向に歩きたいのか、またしても右側へ移動しようとしてくる。……九十六パーセント。
――ああ……。まだなの?
不審な偶然は二度も起こらない。
次にドアを開くようなことがあれば、さすがに疑いを持つだろう。
九十八パーセント。
機械人形は直ぐそこにいる。次に一歩近付いたら……。
足下に伝わる振動。それを合図に反射的にケーブルを引き抜く。
伸縮性のあるケーブルは勢い良く叩いた鞭のようにしなり、マルベリー・ドールの手元へ返ってきた。片手で素早く残りを掴み、制御コンピューターの陰に再び隠れる。
腕の中に隠れたタブレットの文字を確認する。
――九十九パーセント。
さあっと頭から血の気が引いた。
失敗したのだ。例え残り一パーセントでも。
マルベリー・ドールの目に思わず涙が浮かんだ。だが、そんな気分に浸る場合でもなく、ぎゅっと唇を噛みしめ、手で涙を払った。
せめて、見つかるような真似だけはしたくない。これ以上、迷惑をかけるわけにもいかないのだ。
機械人形は中央の通路を一周するつもりらしい。
先程までマルベリー・ドールが居たところまで移動したタイミングで、彼女は素早く階段を駆け上り、出来るだけ静かに自分のカプセルを開き、中へと転がり込んだ。
ひんやりとした感触に思わず声が出そうになるが、我慢して蓋の取っ手を引いて手動で閉じる。
やがて、機械人形は元の入り口から帰っていった。
それを確認した後で、マルベリー・ドールは通信を再びオンにするや、いきなりオーランドに泣きついた。
「ごめんなさい……! 私……しくじりました……!」
オーランドはしばらく黙って聴いていたが、やがて、『いや』と一言断った。
『キミは良くやってくれた。必要なデータは収集済みだよ』
あまりにも意外な言葉に、マルベリー・ドールはきょとんとした顔で、
「……え?」
と小さく声を上げた。
オーランドは少し笑いながら話を続けた。
『後の一パーセントはブレイデンの方で補完出来るそうだ。キミはやり遂げたんだよ、マルベリー・ドール』
頬が緩み、肺に詰まった空気が一度に吐き出された。恐れから解放されるというのは、こういうことなのだ。
彼女は恐れを持たないわけではなかった。ただ、知らなかっただけなのだ。
その事実に内心、嬉しくなる。――まだ、人間らしさが幾分かある、ということに。
『キミは意外に小心者だな』
そんなふうに笑うオーランドに、マルベリー・ドールは口を尖らせた。
「ばっ、馬鹿にしないで頂けます!? こちらは命懸けなんですよ!?」
『ふふ……そうだな。すまなかった。……ところで、先程通信が切れたのは、キミが言っていた失敗と関係があるのかね?』
マルベリー・ドールは真顔に戻り、状況を説明した。
「ええ。二メートルはある機械の……重機と呼べるアンドロイドか何かが巡回していました。今は去りましたが、経路はまだ不明です」
オーランドはそこで横にいるらしいブレイデンと何かを会話した。
『……すまない。こちらからも何か調べられたらいいのだが、直ぐには提供出来そうにない。もう少しかかりそうだ』
マルベリー・ドールはペーパータブレットを元の小さな形に折り畳もうと躍起になりながら尋ねた。
「私は、しばらくここに居た方がいいですか?」
『ああ。状況が状況だからな。出来ればそうしてくれ。早く帰りたい気持ちは判るが、マップが無ければ難しいだろう?』
小さく折り畳み、ケーブルを巻き付けて固定したところで、誇らしげに指先でつまんで弄び、「ええ」と答える。
そこで、彼女はふと、ある事を思い出し、こう尋ねた。
「……そう言えば、『今日』届く予定のアークはありますか?」
『今日? しかし、今日は既に……』
そう言いかけたところで、オーランドは口を噤んだ。
マルベリー・ドールは手応えを感じて得意気に口の端を上げ、こう言った。
「イギリスより西なんて、まだまだありますよね、大佐」
――グリニッジ天文台での現在時刻は、西暦二二〇三年十一月一日 午前八時三十三分。
ハロウィンはまだ、終わらない。
0
お気に入りに追加
20
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
13歳女子は男友達のためヌードモデルになる
矢木羽研
青春
写真が趣味の男の子への「プレゼント」として、自らを被写体にする女の子の決意。「脱ぐ」までの過程の描写に力を入れました。裸体描写を含むのでR15にしましたが、性的な接触はありません。
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
幼なじみとセックスごっこを始めて、10年がたった。
スタジオ.T
青春
幼なじみの鞠川春姫(まりかわはるひめ)は、学校内でも屈指の美少女だ。
そんな春姫と俺は、毎週水曜日にセックスごっこをする約束をしている。
ゆるいイチャラブ、そしてエッチなラブストーリー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる