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消えた友人
弐
しおりを挟む漸く見付かったトラブルメーカーな友人は、怪我をした様子もなく地面に大胆に大の字を書いて眠っていた。ここまで張っていた気が一気に抜けてしまった。そのくらい、暢気な寝姿だった。
「佐竹っ、しっかりしろって!」
こっちの気も知らないで! ──駆け寄りつつ、理不尽な怒りが湧き上がる。ヨダレの跡が見える頬を軽く叩く。揺する。鼻をつまんでみる。瞼を裏返す。……駄目だ、起きない。こんな生易しいやり方では寝汚い友人には通用しないらしい。──ならば、致し方ない。
「いい加減起きろ、このアホぉ!!」
「──ッなんだぁ!?」
足を──あくまでも、足を、ほんのちょっと、僅かに、触るくらいの気持ちで──蹴り上げた。後ろで時政さんが「うわーぉ……バイオレンス」とか呟いた気がしたけどきっと気のせいなので気にしないことにした。
「おはよーさん。噂の佐竹クン。ご機嫌麗しゅう?」
「あぇ? ぼんじゅーる? おにーさん、だれ……あれ、おれ、なんで────」
寝起きで混乱しているのだろう、相変わらず発言が意味不明な佐竹だ。初対面である時政さんまで佐竹を前にするとやれやれ顔を隠せずにいた。現場の空気は佐竹の存在ひとつでどこまでもやわんだ。まさにこれこそが佐竹が周囲に愛される理由だと僕も胸を撫で下ろしていた。
──だが、笑っていられるのもここまでだ。
佐竹が、泣いた。
「さ、佐竹──?」
「ごめ──ごめんなさい──おれ──ごめんなさいっ──!」
「落ち着けって、なんだよ、急に──」
「──女の子だよ! 川で溺れちゃった女の子! あの子が追いかけてきたんだ、ペタペタって──俺、あの時そこにいて──溺れてるの見てて──でも、助けられなくて……っ! い、いっしょう、けんめいっ、手、伸ばしたけどっ──届かなくてっ、俺、おれっ──怒ってるんだ、やっぱり……いっぱい、謝ったけど、やっぱり、恨んでるんだ……! どうしよう……どうやって謝ればいいがなあ! おえ、ばかだからわがんねぇよ……っ、倉橋、教えてぐれよぉっ」
「佐竹……」
はじめて見る姿だった。深く深くまで傷ついた友人の、心の奥底までさらけ出された姿だった。僕の肩を握り締めながらポロポロと涙する佐竹は、もしかすると見たことも話したこともない命さんよりもずっと弱々しい子供に思えた。
「あー、はいはい。佐竹クン、落ち着いてー。よーしよーし、深呼吸しようなー」
「う、え、おにーさん、だからだれ……ひ、ひっ、ふーっ、ひっひっふーっ」
……佐竹、それはラマーズ法だよ。こんな場所でなにを産む気だおまえは。
「呼吸できてえらいなー、佐竹クンは」
時政さんが子供にするようにくしゃくしゃと佐竹の頭を撫でる。それにどことなくムッとする。なんだ……そういうの、誰にでもするんじゃないか。
…………ん? あれ。僕、今なんでムッとしたんだ。
「あのな、佐竹。君にある女の子から伝言を預かってるんだが、聞いてくれるか?」
命さんにそうしたように、再び時政さんは膝を折った。思う──今、時政さんの目には〝どの〟子供が映っているのだろう。彼の隠れた瞳には、世界がどんな風に見えるのだろう。
束の間の静寂。しゃくり上げる佐竹と時政さんの目が──おそらく、合った。時政さんは確かな口調で代弁した。
「こーんなにちっちゃくて、花柄のレインコートを着たツインテールの女の子──わかるだろ? その子がな────『ありがとう』、だってさ」
佐竹の明るい色の瞳が開いていく。黒い上下の睫毛が離れると同時に、眼孔に溜まっていた涙液がまたもほろりほろりと落ちる。それをぬぐうことすら──佐竹も僕も忘れていた。時政さんだけが──もしかすると命さんも一緒に──佐竹の涙を指で掬った。
嗚呼。解らないけれど、判ってしまった。
時政さんはきっと────〝相応の覚悟〟と〝相応の知識〟と、そして〝相応の代償〟のすべてを払った人だ。
「ほん──と、に──?」
「ああ。だから────もういいんだ」
最後に、時政さんがもう一度佐竹の柔らかな茶染めの髪を一撫ですると。
「──うっ、う、ああ……っうわああああっ、ふ──ううっ、ぅああああああああああんッ!!」
佐竹は最初から持ち合わせていたのかすら怪しい恥だの外聞だのを、何もかもかなぐり捨てて泣いた。泣き喚いた。大声で泣き叫んだ。隣にいた僕にしがみついて、涙どころか鼻水もヨダレも全部僕の服に擦り付けて、痛いくらいに締め付けて、叩きつけて、吐き出して。こわいことも、苦しいことも、つらいことも、忘れられないことも──全部全部をようやく口にした。声にした。
今だけは、バカだけど誰よりも優しい友人を抱き締め返していようと思った。
◆◆◆
「──佐竹さ、」
「ん、」
すっかり声も枯れた友人の背を叩く。時政さんはなにも言わず僕等に背を向けてくれている。
「とりあえず、もうやめなよ。自暴自棄みたいなの。松原とか、宮橋とか……後藤さんも、みんな心配してたよ。みんな、お前がおかしいってちゃんとわかってたんだよ」
「……ん」
最早相槌すら朧気な佐竹にそれでも根気よく伝える。だって、こんなにも想われていることを本人だけが知らないなんて──そんなのは、ずるいじゃないか。
「みんな────佐竹が好きだから、心配したんだ」
現在の佐竹は非常に満ち足りていた。優しくて面白くて楽しい友人達。生徒に寄り添ってくれる教師。子供の為にどこまでも心を砕いてくれる両親。何不自由ない生活。
──足りるということは、満ちているということは、すなわち怪物を佐竹の心に棲まわせてしまうということだ。怪物の名を────佐竹は『恐怖』と呼んだ。贖罪と恐怖は少年の心を齧って食い千切って穴だらけにした。
退屈になれば頭に空白が生まれてしまう。考える時間を得てしまう。──あの子のことを、考えてしまう。
だから佐竹は刺激を求めた。自分で自分を振り回した。
もう、それはいらないでしょ、おにいちゃん────佐竹に誰かが優しく微笑んだ。
「俺さあ」
間抜けに伸びた声で、ぼんやりと佐竹は語った。
「ほんとは違う学校、受検する予定だったんだ」
「……うん。佐竹と同じ中学校だった人から聞いた」
「でもさ──無理じゃん? 勉強どころじゃねーの。頭、離れねぇんだもん。あの子がさ。あの子の────死ぬところが」
「…………うん」
「だから、諦めて。滑り止めのここに来て──────良かった」
佐竹の体温が離れる。誰かさんの涙だか何だかによって湿った胸元に空気が触れる。ヒヤッとして──けれど、そんなことを気にする余裕なんてないくらい、泣き尽くした佐竹の笑顔は晴れやかだった。
「倉橋と友達になれて、よかった」
ひどい顔だ。鼻は真っ赤だし、まだ鼻水が油断すればずるりと落ちるようだし、目はもっと真っ赤で腫れていて、せっかくの男前が台無しで────それでも、僕が知る中で一番佐竹らしい笑い方だと思った。
「今さらなこと言うなよ」
「ッて!」
パチンッと佐竹の額を親指と中指で弾く。デコピン──やっとこのお調子者にお見舞いしてやれた。
さて、ほくそ笑みながらの僕の細やかな仕返しに大袈裟に頭を揺らした佐竹は、なんとそのまま仰向けに崩れ落ちてしまった。
「佐竹!?」
一体何事だと大慌てで立ち上がる。僕の手が届く前に、佐竹のことは控えていた時政さんが受け止めてくれた。
二人で佐竹の顔を覗き込む。時政さんの腕の中で突如軟体動物に変身した友人は、健やかに──────眠っていた。
「…………」
「……泣き疲れて寝る、てまんまガキだな」
「……アホの佐竹ですから」
時政さんから懐中電灯を手渡される。両手を自由にした時政さんは、そのまま軽々と佐竹を背負った。ジャージがゆったりとしているものだからなんとなく細身のイメージでいたけれど、存外に時政さんは力持ちらしかった。僕では自分より身長の高い男子高校生をおんぶするなんてのは不可能だったので、この場に大人がいて良かったと心底思った。
「──さ、次はお前だな」
あ。またも時政さんが何もない場所へと声をかけるのに息を呑む。
命さん──ここにいるんだ。
「ちゃんと佐竹に礼も言えたし、心残りはもうねぇだろ? ────さあ、逝け」
ザァッと。自然で不可解な風が舞い上がる。睫毛を掠めた砂に、ここはあくまでも外で、そして林の中であったこと思い出して本能的に目を閉じた。瞬間。
ありがとう
「あ────」
「──聴こえたか?」
「──はい」
────ばいばい、命ちゃん。
大きく息を吸い込む。無意味に夜空を人工の光で照らしてみる。
遥か向こうの星まで、このライトが届くことは決して無い。だから、もしかすると今──空へ向かっているかもしれない彼女に向けて。光の、手向けを。
──どうか、勇気を。
「時政さん」
「ん?」
「相談が、あるんですが」
「……言ってみろ」
「──バイト募集、まだ、してますよね?」
「……一応な」
「面接、してもらえますか?」
振り返った男は、はじめて出逢ったその日のように──妖しく笑った。
「────文句なしの採用に決まってんだろうが」
目まで覆ってしまうもじゃもじゃの頭で、時代を間違えた分厚い四角縁眼鏡で、高校時代のものらしきジャージで、幽霊が視えるなんて言っちゃう変な大人で──何もかもが嘘くさい探偵に向かって、一歩を踏みしめる。
「時刻探偵事務所へようこそ。倉橋忠行君」
「これからよろしくお願いします────時政さん!」
不肖、倉橋忠行────無事にバイト先、決まりましたっ!
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