魚、空泳ぐ町

ルルオカ

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魚、空泳ぐ町

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家庭でも学校でも会社でも、目立った問題やトラブルを抱えていたわけでない人が失踪する。

なんてことが、時々、町では起こるけど、これまで失踪してきた人について、ナギもスイもよく知らなかった。
名前を聞いたり、顔を何となく覚えているくらい。

ただ、今回の失踪者は二人と縁がある人物だった。

ホームレスのリヤだ。

ナギとスイが生まれる前からホームレスだったらしく、一見、そう思えないほど、身なりもふるまいも、紳士な好々爺だった。

付近の住人と揉めたり、衛生面で迷惑をかけることもなかったから、町の人に大目に見られて、長年、この地域に住みついていた。
住んでいるのもまた、新しい橋ができてから、ほとんど利用者がなくなった古い橋の下だ。

暗がりで段ボールの住居は目につきにくく、そもそも人通りが少ないところとあって、苦情はでなかったのだろう。

町の人には会釈しても、それ以上関わろうとしない。
ましてや子供に不用意に近づいたりもしなかった。

子供に親切にするのも、このご時世では面倒になると、心得ていたリヤと、子供の二人との縁ができたきっかけは、鍵だった。

スイはいつも紐を通した鍵を、ネックレスのようにかけていた。
スイの家の鍵だ。

家には母親がいるけど、スイの外出中に昼寝をするのが日課で、かけがえない睡眠時間を削られないよう、鍵を閉めておく。

二人で帰宅しても、まだ寝ていることが多く、チャイムで起こすのが気兼ねだと、ナギが提案して、以来、鍵を持ち歩くようになったのだ。

母親への気遣いのため、持ちだしたとはいえ、スイは鍵を慈しみ、「僕がやる!」と開錠するのも気に入っていた。
だから、失くしたともなれば大騒ぎだ。
鍵を落としたことに気づいたスイは、赤ちゃんのように泣き喚き散らした。

泳ぐ魚を空に見いだすなど、スイは半ば空想の世界で生きているとはいえ、現物への拘りはすさまじく、手元からなくなると、発狂をする。
こうなっては、扱いに慣れているナギもお手上げだ。

何より、大人に聞きつけられ、大事になるのを避けたかったとはいえ、手をつなぐスイは、サイレンのように泣きつづける。
焦るあまり、つられてナギも泣きそうになった、そのとき。

「これが鍵じゃないかい?」と背後から声をかけられた。

振り返れば、リヤが鍵を差しだしていて、とたんにスイが掴みとろうとする。
その指が当たらないよう手を引っこめたなら、笑いかけて去っていった。

あっという間のことで、ナギはお礼を告げられず、スイに至っては鍵を抱きしめたまま、見向きもしなかった。
が、翌日になって、いつものように散歩していたら、突然、走りだして、橋の下のリヤの掘っ立て小屋に向かった。

なんとか、小屋の前でナギはその腕を掴んだものの、「リヤおじちゃん」「リヤおじちゃん」とスイはしつこく呼んだ。

小屋の隙間からは、揺れる影が見えるも、返事がなければ、出入り口のシートがめくりあがりもしない。

リヤが子供に近寄らないよう、気をつけているのをナギは知っていたけど、気に入った人や物に、見境なくまっしぐらになる、スイの厄介な性質も、嫌なほど知っていた。

しかたなく「すみません、顔だけでも見せてくれませんか。そしたら気が済むと思うんで」小屋に呼びかけた。

すこしして、リヤが眉尻を下げて笑いながら、ビニールのカーテンから顔を覗かせると、満面の笑みで笑い返したスイは、といって、話しかけず、それ以上、近寄りもしなかった。
うんうんと肯いて、元きた道を戻っていき、ナギもリヤに頭を下げて、すぐに、その後につづいた。

人の心境を察したり、場の空気を読めないスイとはいえ、相手が心から困り果て、迷惑がるようなことはしなかった。
「そしたら気が済むと思うんで」と断ったナギは、そのことも、よく分かっていたのだ。

それからというもの、リヤの顔を、一目見にいくのが日課になった。

はじめは困惑していたリヤは、単に挨拶にくるだけで、他意があるわけでないと、分かってくれたようで、嫌な顔をすることなく、日課に付き合ってくれた。

リヤの人間性はさておき、正直、ホームレスという肩書を持つ相手に会いにいくのは、双方にリスクがあると、ナギは考えていた。

自分たちがよくでも、人に見られたら、スイの母親に知られたら、面倒になるのは目に見えている。
と分かっていても、挨拶通いを、やめさせようとはしなかった。

リヤは、顔を覗かせ挨拶に応えるだけで、話しかけてこないし、笑わせるような芸をしなければ、お菓子やおもちゃをくれるわけでもない。

そこが良かった。
スイを見て見ぬふりをしないで、といって、憐れむでもない。

そうした、どちらのタイプに当てはまらない大人は、スイにとっても、ナギにとっても、かけがえのない存在だった。

スイの日課は、ナギが大学生になってもつづけられた。

そう、失踪したとされる二日前にも、スイとナギは、リヤの顔を見にいっていた。
だから、どうしても気になったし、放っておけなかった。

失踪したと知ったら、何をしでかすか分からないので、もちろんスイには伏せていた。

その上で、スイとの外出時以外に、一人でナギは山の喫茶店を訪ねた。
常連でにぎわう昼下がり時を狙ってだ。

案の定、喫茶店で常連たちは、リヤの失踪について盛んに言葉を交わしていた。
「え、本当ですか?」と驚いたふりをして、その話に交じり、情報を引きだした。

常連の一人が証言したところ「失踪直前のリヤに会ったかもしれない」と。

喫茶店に向かう道中でのことだった。
背後から足音が迫ってきたのに振り返る間もなく、リヤが駆けていったという。

誰かから逃げているかのように、がむしゃらに走って「助けなくちゃ助けなくちゃ」とぶつぶつと呟いていたとのこと。
そして、喫茶店のある山のほうへと、背中は向かっていた。

その証言に対して、皆の反応は鈍く、「ああ、そりゃあ」と言葉を濁した。

「自殺かもしれない」と口にしたいところ、さすがに不謹慎だと思ったのだろう。

どうして、慌てて山に向かったら、自殺と見られるのか。

山の傍に、曰くありげな沼があるからだ。
喫茶店の急斜面側の真下には、森が広がっていた。

手つかずの森は荒れていて、夜も日中も暗いままと、なんとも陰気だから「小樹海」なんて呼ばれている。
その小樹海の真ん中に位置するのが沼だった。

「樹海」から連想される死のイメージは、小樹海の沼についてしまったらしい。

喫茶店付近の崖っぷちのようなところから、坂をころがってか、跳んでか、沼まで落下する人が絶えないとの、噂が立っていた。

沼は透明度ゼロで濁りきっているとあって、跳びこんだり、身を浸したことがある人はいないはずだ。
のに、「蟻地獄のように、はまったら、抜けだせない」とも囁かれている。

実態は分からないながらに、町の人はすっかり、沼を自殺スポットと見なし、また「たまに失踪する人々が、沼の底で眠っているのでは」と憶測を深める人も少なくない。

憶測が万が一、当たっていたとしたら、リヤが助かる見込みはなかったけど、翌日、ナギはスイの手を引き、沼に赴いてみた。

まだ、リヤの失踪について伏せたままでいた。
なので「リヤを探しに」と告げずに、十年ぶりくらいに沼地に連れていったのだけど、スイは不審がらず、遠出にはしゃいでいた。

「泡、泡、泡」「水の泡、渦巻き」と空想に耽るスイの手を引きつつ、辺りに目を走らせるも、沼地には死体がなければ、リヤの持ち物が落ちてもいなかった。

結局、手がかりは見つからなかったながらに、池の岸辺沿いを一周して、すこしは気が済み、帰ろうとしたところ。
きた道から、にぎやかしい声が聞こえてきた。

すこしもせずに見えてきたのは、若い男女の集団で、あちらもナギとスイに気づいて、先頭にいる男が手をかざし、皆の足を止めさせた。

金髪のその男がサングラスを外すと、「ナミ!」とスイが叫んで、走りだそうとした。
咄嗟にナギが腕を掴んだとはいえ、馬のように鼻息歩く一歩一歩踏みしめるのに、引きずられる。

行く行かせまいと二人がせめぎ合うのを、男はしばし眺めてから、集団に声をかけ、笑いを誘い、踵を返した。
途中で見よがしに唾を吐いてみせて。

男の無礼さに、ナギは頭にきたものの、スイは「ナミー!」「ナミー!」と恋焦がれるように叫び、手を伸ばしつづけた。
あまりの喧しさ、しつこさに、さすがのナギも苛立って、強く踏みこんだのを見計らって、腕を放してやった。

不自由な片足では尚のこと、勢いあまっては踏みとどまることができずに、倒れたスイは、泥地に顔を突っこんだ。

それでも「ナミ」「ナミ」と泥だらけになって這っていくのを、ナギは止めようとせず、遠い目で見つめていた。




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