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黒猫の妾
⑨
しおりを挟む行きは安く、帰りは壮絶だった。
渦巻く水に飲みこまれながらも、黒猫を手放さず、逆流するのに追いやられるまま天に上っていった。
窒息しかけたところで、天を突きぬけ、同時に水面から跳びだして目にしたのは、広大な宇宙ではなく、密閉空間の白い天井。
跳びだしたまま、天井に衝突するかと思ったが、途中でどっと重力がのしかかって床板に叩きつけられた。
丘をころがってから、そう経たず、またもや地に顔から突っこんで倒れ、「厄日だ」とげんなりした矢先に、硝子が割れた音が耳を打った。
咄嗟に身を起こして、できるだけ音のしたほうから距離をとり、振り返ったなら、あの水槽が粉々に砕けていた。
水槽を中心に辺りは水びだしになって、硝子の破片が跳ねたり、ころがっている。
水槽が砕け散ったのを目の当たりにしたなら、瞬間移動したような有様に騒ぐどころでなく、健二はただただ茫然自失となった。
全身びしょ濡れに、水槽から溢れた水溜りに座ったまま、しばらく身じろぎもしなかったものを、部屋の扉が開けられたのには、すぐさま顔を向けた。
もちろん、扉を開けたのは、屋敷に一人で住む黒田だ。
人里離れた、山奥にある屋敷ともなれば、健二の重量ある体が床に叩きつけられる音、厚い硝子に囲われた水槽が破裂するような音は、遠くの部屋にいても耳に届いたのだろう。
真っ先に、考えただろうは泥棒などの侵入者。
本来なら、すべての窓に、鉄の格子がはめられ、勝手口など玄関以外、外に通じる扉がない屋敷に侵入はできない。
ただ、黒田は玄関の扉の施錠を心がけていないから、その心当たりがあってか、また長年、多くの人が謎の死を遂げてきたこの土地にあっては、用心したに越したことないと考えたのだろう。木製のバッドを握っている。
相手が泥棒だろうと、この世のものでなかろうと、この屋敷と深い因縁がある黒田なら、さほど動じないだろうところ、さすがに健二の神出鬼没ぶりには、開いた口が塞がらないようだった。
長い前髪から、丸い目を覗かせつつ、途切れ途切れに呟く。
「いや、今日、くるのは、聞いて、いたけど・・・・」
硝子を割って、水槽の中から跳びだすような訪問の仕方をされるとは、思いもしなかったに違いない。
健二にしろ、無難に玄関の扉から招かれたかったし、途中までは、支障はなかったのだ。
仕事終わりの夕暮れ時、同僚に借りたケースに子猫を入れて、車で屋敷へと向かった。
合鍵で門の鉄格子を開け、屋敷まで敷かれた道を駆けていたところ、しっかりと閉めていたはずのケースの蓋が開いて、子猫が跳びだした。
見知らぬ地に放りだされても、子猫は怯えるどころか、すばしっこく一時も駆け足を留めなかった。
おまけに、日が落ちかけている暗がりに、黒い毛を紛れこませたものだから、中々、捕まえられなかった。
森に入られてしまっては、尚のことお手上げて、見失わないように、ついていくだけで精一杯だったもので。
目を放さずに、ひたすら追いかけていったなら、視界が開けて、目に入ったのが池だった。
「醜子の池だ」と気づく間もなく、助走するように駆けていった子猫が、そのままの勢いで池に跳びこんだ。
思わず、後を追って池に向かおうとした健二は、でも、岸に至る前に踏み留まった。
この池が、普通でないのを知っていたからだ。
普通でないことを証明するように、いつまでも子猫は浮かんでこないし、水中でもがいているにしろ、波紋や泡は見られず、水面は凪いでいた。
子猫は水に溺れてはなく、空を落ちているものと思われた。
そうだとすれば、溺れて死ぬことはないとはいえ、空を泳ぐ魚を、猫が掴むことができるかは、分からなかった。
地上に降りられたとして、あちらに長居はできるのか。
戻ってこられるのか。
あちらの住人を、実際に見たことがある健二とて、池の下に広がる町の勝手など、知る由もなかった。
追いかけたところで、池から空に放りだされて、何もできないまま地上に叩きつけられるかもしれない。
そして、原形をとどめずに息絶えるかもしれないのだ。
岸から池にではなく、超高層ビルの屋上から、宙へと跳びこむようなものだった。
子猫を追うのは、冗談でなく、命がけになる。
それだけ危険なのが分かりつつ、親猫からお婆さんへ、自分から屋敷へと、たらい回しにされ、堪らず逃げだしたのだろう子猫を、放ってはおけなかった。
ほんの好奇心もあったのかもしれないが、未知なる世界の空に落ちるのが、怖くないわけがなかった。
ただ、見失わないためには迷っている暇はなく、先に子猫が跳びこんだように、助走して岸の手前で踏み切って。
この短い間に起った、波乱づくめの事柄を言語化するには時間がかかった。
とりあえず、自分が濡れそぼって腰を抜かしたような格好でいて、黒田も黒田でバッドを握ったままでいるとあっては、腰を据えて話はできそうになく、場を改めることを提案しようとした。
前のめって切りだそうとした健二は、半端に口を開けて留まった。
一瞬、身を固めてから、「そういえば、魚!」と辺りを見回す。
遅ればせながら、水槽から放りだされた魚を案じたのだが、ガラスの破片に混じって、跳ねるその姿は目につかない。
ジオラマの町の破片の欠片もなかった。
「ああ、大丈夫だよ」と告げられたのに、肩を跳ねて振り仰げば、黒田が口元に手を当てていた。
健二があまりに目を白黒させるものだから、自身の驚きは二の次に、可笑しくなったらしい。
「昔、水槽に手を突っこんだことがあって。
魚をつかもうとしても、手を通り抜けていったから」
「そ、そうなんですか」と慌てたのが空回りして、恥ずかしがる健二を茶化さないで、「もしかしたら」と遠い目をする。
「あのとき、空に巨大な手が現れていたのかも。
『神の審判が下される』『この世の終わりだ』って町の人がパニックになっていたかもしれないと思えば、悪いことをした」
「なんてな」と笑うことなく、バッドを置いて健二の足元にしゃがみこみ、目を合わせたのもつかの間、視線を落とした。
つられて見やったところで、黒の猫耳がついたカチューシャを自分が握っているのに、気づかされた。
黒猫を抱いていたはずが。
と、頭をひねるより、とたんに頭を沸騰させて「いやいや!これは、違うんです!」とカチューシャを持ち上げながら、ぶんぶんと首を横に振る。
どうして弁解したがっているのか、我ながら分からなかったが、別に黒田も聞きだそうとせず、その取り乱しようをしばし、ぼんやり見つめてから、おもむろにカチューシャを手に取った。
硬直した健二は、でも、すんなりとカチューシャを渡し、それが頭に据えられるのを、止めようとしなかった。
やや癖毛で、跳ねて広がっている黒髪のヘアスタイルに、黒の猫耳はしっくりとおさまった。
トレーナーもズボンも黒ずくめだから、尚のこと映えるのだろう。
それにしたって、三十半ばの中年に差しかかった男が、猫耳のカチューシャをつけるなど、お笑い草でしかないはずが、「似合うか?」と不敵な笑みを浮かべられて、健二はつい見惚れてしまった。
健二は昔から、黒い生き物が好きだった。
台所での出現率の高いあれは別にして、テントウムシやチョウなどの虫、ヘビやトカゲの爬虫類、カワウやカラスの鳥、クマやオオカミの動物。中でも猫科のピューマやジャッカルなどの黒い毛並みは、シルクのように艶があり麗しかった。
そして、もちろん黒猫も。
とはいえ、健二の審美眼は、一般的には理解されがたく、黒猫にしろ、あまり好意的に見られていない。
「魔女の使いだ」「横切ると不吉だ」と迷信深いイメージがいまだにあり、近寄りたがらず疎ましがる人は、少なくなかった。
子供のころには、「この悪魔め!」と石を投げる悪餓鬼がいたものだが、すぐさま健二は成敗しつつも、「どうして」と問いつめた。
責めるのではなく、心から不思議に思ってのことだった。
どうして、こうも麗しい黒い獣が悪魔に見えるのかと。
いや、悪魔だとしても、黒々として妖しげだからこそ、あでやかともなれば、かまやしないではないか。
と、声高に訴えつづけ、「勘弁してくれ」と悪餓鬼を泣かせたほど、黒い生き物に目がなかった。
そう、夜の海のような瞳に、生まれてから一度も染めても、パーマもかけていなさそうな黒髪。
全身黒ずくめで暗い印象の、まさに名前もふさわしい黒田にも、一目見たときから心を奪われていたのだ。
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