魚、空泳ぐ町

ルルオカ

文字の大きさ
上 下
33 / 39
黒猫の妾

しおりを挟む






行きは安く、帰りは壮絶だった。

渦巻く水に飲みこまれながらも、黒猫を手放さず、逆流するのに追いやられるまま天に上っていった。

窒息しかけたところで、天を突きぬけ、同時に水面から跳びだして目にしたのは、広大な宇宙ではなく、密閉空間の白い天井。

跳びだしたまま、天井に衝突するかと思ったが、途中でどっと重力がのしかかって床板に叩きつけられた。

丘をころがってから、そう経たず、またもや地に顔から突っこんで倒れ、「厄日だ」とげんなりした矢先に、硝子が割れた音が耳を打った。

咄嗟に身を起こして、できるだけ音のしたほうから距離をとり、振り返ったなら、あの水槽が粉々に砕けていた。
水槽を中心に辺りは水びだしになって、硝子の破片が跳ねたり、ころがっている。

水槽が砕け散ったのを目の当たりにしたなら、瞬間移動したような有様に騒ぐどころでなく、健二はただただ茫然自失となった。

全身びしょ濡れに、水槽から溢れた水溜りに座ったまま、しばらく身じろぎもしなかったものを、部屋の扉が開けられたのには、すぐさま顔を向けた。

もちろん、扉を開けたのは、屋敷に一人で住む黒田だ。
人里離れた、山奥にある屋敷ともなれば、健二の重量ある体が床に叩きつけられる音、厚い硝子に囲われた水槽が破裂するような音は、遠くの部屋にいても耳に届いたのだろう。

真っ先に、考えただろうは泥棒などの侵入者。

本来なら、すべての窓に、鉄の格子がはめられ、勝手口など玄関以外、外に通じる扉がない屋敷に侵入はできない。

ただ、黒田は玄関の扉の施錠を心がけていないから、その心当たりがあってか、また長年、多くの人が謎の死を遂げてきたこの土地にあっては、用心したに越したことないと考えたのだろう。木製のバッドを握っている。

相手が泥棒だろうと、この世のものでなかろうと、この屋敷と深い因縁がある黒田なら、さほど動じないだろうところ、さすがに健二の神出鬼没ぶりには、開いた口が塞がらないようだった。
長い前髪から、丸い目を覗かせつつ、途切れ途切れに呟く。

「いや、今日、くるのは、聞いて、いたけど・・・・」

硝子を割って、水槽の中から跳びだすような訪問の仕方をされるとは、思いもしなかったに違いない。

健二にしろ、無難に玄関の扉から招かれたかったし、途中までは、支障はなかったのだ。

仕事終わりの夕暮れ時、同僚に借りたケースに子猫を入れて、車で屋敷へと向かった。
合鍵で門の鉄格子を開け、屋敷まで敷かれた道を駆けていたところ、しっかりと閉めていたはずのケースの蓋が開いて、子猫が跳びだした。

見知らぬ地に放りだされても、子猫は怯えるどころか、すばしっこく一時も駆け足を留めなかった。

おまけに、日が落ちかけている暗がりに、黒い毛を紛れこませたものだから、中々、捕まえられなかった。
森に入られてしまっては、尚のことお手上げて、見失わないように、ついていくだけで精一杯だったもので。

目を放さずに、ひたすら追いかけていったなら、視界が開けて、目に入ったのが池だった。

「醜子の池だ」と気づく間もなく、助走するように駆けていった子猫が、そのままの勢いで池に跳びこんだ。

思わず、後を追って池に向かおうとした健二は、でも、岸に至る前に踏み留まった。
この池が、普通でないのを知っていたからだ。

普通でないことを証明するように、いつまでも子猫は浮かんでこないし、水中でもがいているにしろ、波紋や泡は見られず、水面は凪いでいた。

子猫は水に溺れてはなく、空を落ちているものと思われた。

そうだとすれば、溺れて死ぬことはないとはいえ、空を泳ぐ魚を、猫が掴むことができるかは、分からなかった。

地上に降りられたとして、あちらに長居はできるのか。
戻ってこられるのか。

あちらの住人を、実際に見たことがある健二とて、池の下に広がる町の勝手など、知る由もなかった。

追いかけたところで、池から空に放りだされて、何もできないまま地上に叩きつけられるかもしれない。
そして、原形をとどめずに息絶えるかもしれないのだ。

岸から池にではなく、超高層ビルの屋上から、宙へと跳びこむようなものだった。
子猫を追うのは、冗談でなく、命がけになる。

それだけ危険なのが分かりつつ、親猫からお婆さんへ、自分から屋敷へと、たらい回しにされ、堪らず逃げだしたのだろう子猫を、放ってはおけなかった。

ほんの好奇心もあったのかもしれないが、未知なる世界の空に落ちるのが、怖くないわけがなかった。
ただ、見失わないためには迷っている暇はなく、先に子猫が跳びこんだように、助走して岸の手前で踏み切って。

この短い間に起った、波乱づくめの事柄を言語化するには時間がかかった。

とりあえず、自分が濡れそぼって腰を抜かしたような格好でいて、黒田も黒田でバッドを握ったままでいるとあっては、腰を据えて話はできそうになく、場を改めることを提案しようとした。

前のめって切りだそうとした健二は、半端に口を開けて留まった。
一瞬、身を固めてから、「そういえば、魚!」と辺りを見回す。

遅ればせながら、水槽から放りだされた魚を案じたのだが、ガラスの破片に混じって、跳ねるその姿は目につかない。
ジオラマの町の破片の欠片もなかった。

「ああ、大丈夫だよ」と告げられたのに、肩を跳ねて振り仰げば、黒田が口元に手を当てていた。
健二があまりに目を白黒させるものだから、自身の驚きは二の次に、可笑しくなったらしい。

「昔、水槽に手を突っこんだことがあって。
魚をつかもうとしても、手を通り抜けていったから」

「そ、そうなんですか」と慌てたのが空回りして、恥ずかしがる健二を茶化さないで、「もしかしたら」と遠い目をする。

「あのとき、空に巨大な手が現れていたのかも。
『神の審判が下される』『この世の終わりだ』って町の人がパニックになっていたかもしれないと思えば、悪いことをした」

「なんてな」と笑うことなく、バッドを置いて健二の足元にしゃがみこみ、目を合わせたのもつかの間、視線を落とした。
つられて見やったところで、黒の猫耳がついたカチューシャを自分が握っているのに、気づかされた。

黒猫を抱いていたはずが。
と、頭をひねるより、とたんに頭を沸騰させて「いやいや!これは、違うんです!」とカチューシャを持ち上げながら、ぶんぶんと首を横に振る。

どうして弁解したがっているのか、我ながら分からなかったが、別に黒田も聞きだそうとせず、その取り乱しようをしばし、ぼんやり見つめてから、おもむろにカチューシャを手に取った。

硬直した健二は、でも、すんなりとカチューシャを渡し、それが頭に据えられるのを、止めようとしなかった。

やや癖毛で、跳ねて広がっている黒髪のヘアスタイルに、黒の猫耳はしっくりとおさまった。
トレーナーもズボンも黒ずくめだから、尚のこと映えるのだろう。

それにしたって、三十半ばの中年に差しかかった男が、猫耳のカチューシャをつけるなど、お笑い草でしかないはずが、「似合うか?」と不敵な笑みを浮かべられて、健二はつい見惚れてしまった。

健二は昔から、黒い生き物が好きだった。

台所での出現率の高いあれは別にして、テントウムシやチョウなどの虫、ヘビやトカゲの爬虫類、カワウやカラスの鳥、クマやオオカミの動物。中でも猫科のピューマやジャッカルなどの黒い毛並みは、シルクのように艶があり麗しかった。
そして、もちろん黒猫も。

とはいえ、健二の審美眼は、一般的には理解されがたく、黒猫にしろ、あまり好意的に見られていない。

「魔女の使いだ」「横切ると不吉だ」と迷信深いイメージがいまだにあり、近寄りたがらず疎ましがる人は、少なくなかった。

子供のころには、「この悪魔め!」と石を投げる悪餓鬼がいたものだが、すぐさま健二は成敗しつつも、「どうして」と問いつめた。
責めるのではなく、心から不思議に思ってのことだった。

どうして、こうも麗しい黒い獣が悪魔に見えるのかと。
いや、悪魔だとしても、黒々として妖しげだからこそ、あでやかともなれば、かまやしないではないか。

と、声高に訴えつづけ、「勘弁してくれ」と悪餓鬼を泣かせたほど、黒い生き物に目がなかった。

そう、夜の海のような瞳に、生まれてから一度も染めても、パーマもかけていなさそうな黒髪。
全身黒ずくめで暗い印象の、まさに名前もふさわしい黒田にも、一目見たときから心を奪われていたのだ。




しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

隣人、イケメン俳優につき

タタミ
BL
イラストレーターの清永一太はある日、隣部屋の怒鳴り合いに気付く。清永が隣部屋を訪ねると、そこでは人気俳優の杉崎久遠が男に暴行されていて──?

とろけてなくなる

瀬楽英津子
BL
ヤクザの車を傷を付けた櫻井雅(さくらいみやび)十八歳は、多額の借金を背負わされ、ゲイ風俗で働かされることになってしまった。 連れて行かれたのは教育係の逢坂英二(おうさかえいじ)の自宅マンション。 雅はそこで、逢坂英二(おうさかえいじ)に性技を教わることになるが、逢坂英二(おうさかえいじ)は、ガサツで乱暴な男だった。  無骨なヤクザ×ドライな少年。  歳の差。

いっぱい命じて〜無自覚SubはヤンキーDomに甘えたい〜

きよひ
BL
無愛想な高一Domヤンキー×Subの自覚がない高三サッカー部員 Normalの諏訪大輝は近頃、謎の体調不良に悩まされていた。 そんな折に出会った金髪の一年生、甘井呂翔。 初めて会った瞬間から甘井呂に惹かれるものがあった諏訪は、Domである彼がPlayする様子を覗き見てしまう。 甘井呂に優しく支配されるSubに自分を重ねて胸を熱くしたことに戸惑う諏訪だが……。 第二性に振り回されながらも、互いだけを求め合うようになる青春の物語。 ※現代ベースのDom/Subユニバースの世界観(独自解釈・オリジナル要素あり) ※不良の喧嘩描写、イジメ描写有り 初日は5話更新、翌日からは2話ずつ更新の予定です。

ゆるふわメスお兄さんを寝ている間に俺のチンポに完全屈服させる話

さくた
BL
攻め:浩介(こうすけ) 奏音とは大学の先輩後輩関係 受け:奏音(かなと) 同性と付き合うのは浩介が初めて いつも以上に孕むだのなんだの言いまくってるし攻めのセリフにも♡がつく

おもらしした女装怪盗は変態伯爵に犯され、助けてくれた刑事に慰められる

カルキ酸
BL
カミンズ伯爵の財宝を盗むため、メイドに変装し館に侵入した怪盗は、トイレの途中で警察に見つかってしまう。何とか逃げ書斎に逃げ入るも、我慢出来ずにおしっこを漏らしてしまう。その姿を、伯爵に見られてしまい・・・?

高校生の僕は、大学生のお兄さんに捕まって責められる

天災
BL
 高校生の僕は、大学生のお兄さんに捕まって責められる。

隠れSubは大好きなDomに跪きたい

みー
BL
⚠️Dom/Subユニバース 一部オリジナル表現があります。 ハイランクDom×ハイランクSub

その溺愛は伝わりづらい!気弱なスパダリ御曹司にノンケの僕は落とされました

海野幻創
BL
人好きのする端正な顔立ちを持ち、文武両道でなんでも無難にこなせることのできた生田雅紀(いくたまさき)は、小さい頃から多くの友人に囲まれていた。 しかし他人との付き合いは広く浅くの最小限に留めるタイプで、女性とも身体だけの付き合いしかしてこなかった。 偶然出会った久世透(くぜとおる)は、嫉妬を覚えるほどのスタイルと美貌をもち、引け目を感じるほどの高学歴で、議員の孫であり大企業役員の息子だった。 御曹司であることにふさわしく、スマートに大金を使ってみせるところがありながら、生田の前では捨てられた子犬のようにおどおどして気弱な様子を見せ、そのギャップを生田は面白がっていたのだが……。 これまで他人と深くは関わってこなかったはずなのに、会うたびに違う一面を見せる久世は、いつしか生田にとって離れがたい存在となっていく。 【7/27完結しました。読んでいただいてありがとうございました。】 【続編も8/17完結しました。】 「その溺愛は行き場を彷徨う……気弱なスパダリ御曹司は政略結婚を回避したい」 https://www.alphapolis.co.jp/novel/962473946/911896785 ↑この続編は、R18の過激描写がありますので、苦手な方はご注意ください。

処理中です...