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黒猫の妾
⑥
しおりを挟む「黒猫の妾」を読了したなら、なんとなく尻のすわりが悪くなり、丘にきて、そう経っていないものを、坂を下りていった。
今日も今日とて、なだらかな曲線を描く草原のどこにも、人も鳥も見当たらなかったが、三分の一くらい下りたところで、なにかが背中に当たった。
風船を、背中に当てられたかのような具合だったが、それは頭に跳びうつったらしく、さすがに前のめってしまう。よろけるのを踏んばって、顔を上げれば、鬱蒼と生えた草の合間から、黒い塊が覗けた。
目を凝らすも、黒い塊はあっという間に去っていき、すぐに見失った。
なんだったのだろうと、首をひねる間もなく、今度は「うわあああああ!」と絶叫が背後から聞こえてきた。
振り返りかけた、その目の前を、男が叫びながら、でんぐり返しで通りすぎていく。
五歩くらい先で「ぎゃあ!」と情けない声をあげたなら、草地に突っ伏して倒れた。
呆気にとられつつ、あらためて、背後を見やる。
つい先に、丘の天辺から眺めたときは、見通しのいい草原に人影はなかった。
俺が下りてくる間に天辺まで登り、ころがってきたなら、人ならぬ俊足ぶりだ。
喫茶店の向こう側は崖のような斜面で、まさか、スーツで、そこをロッククライミングしてきたとも思えない。
俺が、人影を見落としたのかもしれないが、それにしても、空から落ちてきたように、見えたもので。
まさかと、思いつつ、前を向けば、男はまだ突っ伏したまま、声を上げず身動きもしていなかった。
天高らかに、叫びを轟かせていたほど、意気盛んだったのだから、重症を負ったり、気を失っているわけではないだろう。
なにか嫌なことでも、あったのか。
打ちひしがれたように、ぐったりとしている。
ころがっていたさまが滑稽だったからに、変人に違いなくても、危ない人物ではなさそうに思え、「あんた大丈夫か」と歩み寄って、声をかける。
すこし間があって「・・・はい」と応じ、肘をついて上体を起した。
が、まだ体に力が入らないのか、地面に肘をついたまま頭を垂れているのに、「ほら」と手を差しのべる。
覚束つかなさそうな男を見かねて、反射的にしたことだ。
男が振りむいたときに、「あ」と手を引っこめようとしたものを、その前に握りこまれた。
ほんの躊躇も見せず、握ってきたのに、目を丸くしながらも、腕を力ませて、男を引っ張り上げる。
立ち上がった男は、俺より上背があり、肩幅が広く、がっしりとした体格をしていた。
柔道や空手などを嗜んでいるのか、凛々しく風格がある立ち姿をして、サラリーマンとはまた違った趣で、スーツが板についている。
もちろん、見知らぬ男であるとはいえ、どこか、この町の人でないように思えた。
「あんた、俺を知らないのか」
「あり」と男が謝意を述べかけたのを遮って、つい問うてしまう。
というのも、俺の手を握ったままでいるからだ。
この町の人なら、俺が差しのべた手を前して、一瞬でも、迷わずにはいられないし、手を取ったとして、すぐに放そうとするはず。
父親が男とカケオチをして、もう十五年経ち、その間、俺は女遊びに明け暮れたこともあり、昔ほど町の人に、白い目を向けられることはなくなった。
それでも、父親から受ける印象は、拭いきれないようで、同性はとくに距離を取りたがる。
反射のようなものとなれば、町の人は、避ける所作を隠しきれない。
「え、あ、ごめん。
記憶力は悪くないほうだと思うんだけど、どこかで会ったかな」
困り顔の男の物言いや表情には、他意がなさそうで、すっとぼけているようにも見えなかった。
町の人でないのなら、下手に印象づけないでおきたかったが、「あんた、知らないのか」と口を滑らせた手前、そうもいかない。
せめて、苗字は伏せて「ナミだ」と応じる。
「え」と目を見開いた男は、名前に聞き覚えがあるらしいながら、やはり、反応がずれている。
町の人に限らず、俺の素性を知った奴は、芝居がかって「かわいそうに」と哀れむか、ぶっちゃけて「お前、どんな思いで生きてんの?」と蔑んでくるか、たいてい、どちらかの態度を示す。
今のところ、パターンにない反応をする男に「俺を知っているようだな」と探りをいれると、大きく瞬きをして「ああ、知り合いから聞いたんだ」とこれまた、思いがけず微笑ましそうに、俺を見やった。
「いろいろと大変のようだね」
哀れみではない、労いだった。
決して、奇をてらった物言いではないとはいえ、そうやって、当たり障りなく接しられるほうが、俺には非日常的だったから、却って、どういう顔をしていいのか、分からなくなる。
硬直しきった俺を見て、「あ、ご、ごめん」と逞しい肩を縮めるのも、また、意外だ。
「知ったような口を利いて。
いや、君の事情、どうのこうのというより、俺の知り合・・・・恋人が、似たような事情を抱えているもんだから」
「知り合い」を「恋人」と訂正して、顔を赤らめ、もじもじする男。
「変な奴」と肩の力が抜けたなら、警戒したり予防線を張ったりするのが億劫になり、頭を掻いて、立ち上がり「あんたの恋人の話を、聞かせてよ」と顎をしゃくった。
丘をまた登ろうという合図にしろ、その頼みにしろ、唐突なものだったが、小娘のように頬を染めながらも、「どうして」と問い返さずに、男は肯いてくれた。
そして、喫茶店のある天辺につくまで、己は刑事だと明かし、丘をころげるに至った経緯を語った。
「警察の市民相談センターに、常連のお婆さんが、猫の里親を探していて困っているって、泣きついてきてね。
もし、今日、里親が見つからなかったら、保健所にもっていくって脅すもんだから、しかたなく、俺が預かったんだ。
といって、俺が住むアパートは、ペットだめだし、警察署の人たちも、なんだかんだ、飼えないっていうし。
それで、恋人に相談したら、うちで飼ってもいいっていうんで、連れていこうとした。
その途中で、猫が逃げでしてしまって」
刑事と聞いたときは、ナギの失踪について、捜査しにきたのかと思ったが、容疑者ではなく、猫を追っかけてきたらしい。
おそらく、さっき、俺の背中と頭を跳ねていった正体が、それだろう。
「失踪者が相次ぐ町にあって、平和なもんだな」と今更とはいえ、皮肉がりつつ、「追いかけなくてもいいのか」とは聞かなかった。
婆さんのはったりを真に受けた、お人好し刑事にしろ、ネコまっしぐらに丘を下りていこうとしないで、悠長にも、俺についてきている。
「どうせ、手に余っていたから、逃げてくれてラッキー」と思っているとも思えない。
男の口ぶりからして、恋人は子猫を待ちわびているようだし。
猫を追いかけない男の思惑は知れず、ただ、「追いかけなくていいのか」と聞いて「そうだった!」と去られては元も子もないので、丘につくまで、あえて口をつぐんだままでいた。
喫茶店の傍につくと、急斜面のほうを眺めながら、佇む俺の隣に、男は三角座りをして、恋人の込み入った事情について、聞かせてくれた。
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