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序章 直人「必ず助けるから」
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Humpty Dumpty sat on a wall,
Humpty Dumpty had a great fall.
All the king's horses and all the king's men
Couldn't put Humpty together again.
ハンプティが壁に座っていた
ハンプティが落っこちた
王様の馬も家来も駆けつけたのに
ハンプティを元には戻せなかった
──だってハンプティは卵だったのだから。
例えば、人と人との関係性。
一度聞いてしまったら、もう知らなかったころには戻れない。
不可逆だ。
言ってしまったら取り消せない。あれはやっぱり冗談だったと笑ったところで誰が信用するだろうか。
その夜は、別に誰もそんなことを考えていたわけじゃない。ただ、楽しく交流する場を作ろうとしただけで。
元はといえば他愛もない遊びだったのに。
──歯車が動いた。
※ ※ ※
現在進行中の飲み会で、どうやら罰ゲームの内容が決まったらしい。
それは「三十秒間、女子からくすぐられる」という、あまりにもくだらないものだった。
進学塾の講師たちのやることとは思えない。子どもじみている。
「女子から」というところに一応配慮はみられるが。
もし負けたのが女子でも、同性同士なら笑って済ませられるというハラスメント対策なのだろう。
理屈は解る。
男子が女子をくすぐったら大問題だ。社員の大人たちは、そう判断していたと思う。
女子二人が楽しそうに戯れ合う絵面を、大多数が期待していたに違いない。
けれど。
──負けたのは由宇だった。
記憶力勝負のゲームなのに。他校の関係者もいる前で緊張したのだろうか。
男子だから残念、という雰囲気にはならず、逆に盛り上がった。女子のように可愛い顔立ち──そして、大人しくて表情をあまり変えない子。
笑顔を見てみたい。
皆、そう興味を唆られたようだ。一同の好奇の視線を受けて由宇は青くなっている。
──やばいかも。
直人は迷った。
同級生の集まりなら遠慮なく「やめろ」と一喝できるけれど、ここはバイト先だ。
社員が場を取り仕切り、費用も負担している。
力関係が不利だ。
ましてや、本人が拒否するのならともかく、他人が横から口を挟んで。
自分だったら女子からくすぐられるのは構わない。可愛い子なら歓迎なくらいだ。できるなら代わってあげたいけれど。
──どうしよう。
高尾にある保養所。
バイト先の塾が主催した夏期合宿は、つつがなく最終日を迎えた。
消灯時間も過ぎ、生徒たちはそれぞれの部屋で眠っている。
講師と手伝いのバイト学生が大広間で打ち上げをしていたが、雲行きが怪しくなった。
直人は、少しフレームの曲がった眼鏡をずり落ちないよう何度も指先で押さえながら、由宇をじっと見つめて様子を窺う。
由宇は男女合わせて十三人の衆人環視の中、下を向いてじっとしている。
視線が合わない。
目で訴えてくれるのなら今すぐ止めるのに。
場の空気は悪くなるだろうが由宇は大切な──だ。
周囲が囃し立て、社員の一人が由宇を羽交締めにした。
大熊という名前の通り、大柄で毛深いが、面倒見が良く人気のある先生だ。
そこに塾内で一番可愛いと評判の女子が、照れながら近づいていく。
「──ッ」
由宇のくちびるが動く。
けれど冷やかす騒音にかき消されて、その声は聞こえない。
直人は堪らず腰を浮かせた。
脇腹に女子が触れた途端、きゃぁ──と由宇が甲高い悲鳴をあげ、場が凍りつく。
直人が女子との間に割って入るのと、由宇が大熊を振り払おうと必死に暴れたのが同時だった。
視界が揺れる。
眼鏡が由宇の手に当たって吹っ飛んだ。
かしゃん。
至近距離にある由宇の大きな瞳には、涙が溜まっている。
「ごめん──」
か細い声。
由宇は、そのまま踵を返してこの場から逃げ出した。
慌てて後を追いかける。
荷物は部屋に置いてきてしまったけれど、ポケットの携帯さえあれば、目黒の自宅まで由宇を連れ帰れるはずだ。
そうすれば替えの眼鏡もある。
直人は、脳内ではどんな知識も即座に引き出せるのに、現実の物の整理となるとまるで駄目だった。
眼鏡は度々踏んで壊すし、行方不明になることもある。コンタクトの管理なんて一生無理だ。
裸眼では足許が歪んで、直人は少しだけ自分の管理能力を恨んだ。
──思ったより外が昏い。
正面玄関を出ると、夏の匂いや暑さが一気に押し寄せ、頭上からは蝉の声が響いた。
じっとりした湿度。
麓とはいえ、山の中だ。都心の夜とは違う。
闇が深い。
霞んだ視界の中、目の端に由宇を見つけて、直人は安堵の息をついた。
「ごめんな。もっと早く止めたら良かった」
由宇は真っ赤な顔を両手で覆って、大粒の涙をぽろぽろ零していた。引き攣れたような異常な泣き方で過呼吸に近い。
保養所から自宅は距離があるが、今の由宇を電車に乗せるわけにはいかない。
急いでタクシーを呼んだ。
到着を待つ間、泣き続ける由宇の背中をあやしていると、ふと、以前にもこんなことがあったと記憶の蓋が開いた。
──あれは桜の季節。
※ ※ ※
中学受験が終わった春。
直人は、親に勧められダンス教室に通うことになった。
──そこに由宇がいた。
人見知りな子だった。目が合うと逃げてしまう。いつでもスタジオ経営者の甥姪の陰に隠れている。
類と唯。
由宇は、その兄妹の大きな翼の下で雛のように護られていた。
二人は、由宇より一回りほども歳上だ。
直人がスタジオに通いはじめる少し前に、兄のほうの類にストーカー騒ぎがあったという。
相手は直人も知る有名な歌手で、結局彼女はスタジオを出禁になった。
なのに由宇は、いつまでも彼女を怖がっていたように思う。
受付スタッフに、今日は来ていないか、大丈夫かと確認している姿を何度も見た。
由宇の家庭は、父親は単身赴任で、母親は不倫。頼れる大人は類だけだったから、彼の身に何かあったらと不安で堪らなかったのだろう。
兄妹は、纏わりつく由宇をよく可愛がって世話をやいていた。
洋服の御下がりをあげたり、癖毛の証明書を取るために中学校まで出向いたこともある。
直人はそんな由宇と兄妹の様子をただ眺めていただけだったが──。
高三の春。
忘れもしない。
類にスタジオの隅へと呼ばれた。
「由宇に勉強教えてやってくんないかな。もちろん小遣いはやるからさ」
面食らった。
受験生にライバルの面倒をみてくれなんて無茶苦茶だ。
けれど。
直人は、自分が期待されていると思うとうれしかった。
両親からは「順位を落とさないように」と釘を刺されたばかりだ。
対して類は「余裕あんだろ。由宇のことも頼むわ」と悪戯っぽく笑う。
結局二つ返事で引き受けた。報酬も良かったし、由宇のことも気になっていたからだ。
面白くなってきた。
上機嫌で更衣室に戻ると、由宇がロッカーの脇で身を縮めて待っていた。
既に類から「直人に勉強をみてもらえ」と言い渡されているのだろう。由宇は逃げずに直人をじっと見つめている。
二人でぎこちない会話をしながらビルを出た。
その瞬間。
「きゃぁッ──」
唐突に由宇が抱きついてきた。
何事か。
前方を見やると、ビル前の桜の大木の下に、見覚えのある髪の長い女が立っていた。
出禁の。
歌手の鷺沢茉理。
類のストーカーだ。
彼女は直人を見た。
そして、シンメトリーにくちびるを吊り上げて笑った。
由宇は震えて必死にしがみついてくる。直人は、その背中をあやしながら考えた。
まだ類はスタジオの中にいるはずだ。早く知らせないと。この女をなるべく刺激しないように、そっと。
ゆっくり相手を窺う。
直人に向かって茉理が話しかけた。
「知ってる? 私──なのよ」
強いビル風が桜を散らす。
茉理は、どこか挑発的な笑みを浮かべた。
直人は眉を顰めた。
「知ってる」
「由宇は──よ」
茉理は薄く笑うと足早に去っていった。
直人は、落ちた花びらの上に立ち尽くした。由宇は泣きじゃくっていて、二人の会話が耳に届いている様子はない。
──聞かなくて良い。
受験に必要のない情報だ。
直人も受付スタッフに伝え終えると脳裏の奥に押し込めた。
翌日、類は二人のために快適な自習室を手配してくれた。
さっそく由宇を試すと、驚くほど記憶力が良い。さらに海外経験があるらしく、英語に関してはアドバンテージがある。
少し教えただけで、ぐんぐんと伸びていく。意外にも負けず嫌いで根気もあった。
「これ、俺と同じランク狙えるかもしれないですよ」
経過を報告すると「結構、気ぃ強いだろ」と類はにやりと笑った。受験なんて競争なのだから気が強いに越したことはない。
──毎日一緒にいると性格もみえてくる。
人見知りというより内弁慶なのだ。仲良くなると急に甘えてくるようになった。
それは海外生活の影響か。それとも孤独だった家庭環境の反動なのか。
ちょうど由宇が打ち解けてきたころ──五月だったろうか。
再度、類に呼ばれた。
「悪いけど、頼める?」
その口調に、以前受験のことを頼まれたときの軽さはない。
唯の精神疾患が悪化し、かなり痩せてしまった。未遂で済んだが大量に薬を飲んだ。
受験を控えている由宇を動揺させたくない。
転職したばかりで忙しいと口裏を合わせる相談。
「由宇に病気のことは言わないどいて」
口に出したら取り消せない。
知らなかったころには戻れない。報酬は倍になった。
類と同じくらい唯にもべったりだったのだから黙っておきたい気持ちはよく解る。
──はじめて褒めてくれた人だから。
由宇に「唯さんをお気に入りだね」と話を振ったら真顔でそう応えた。
放置子同然で育った由宇にとって、ようやく見つけた自分を認めてくれる相手だ。簡単に手放せるものではないだろう。
由宇が類の顔を見れば、絶対に唯に会わせろとせがむに決まっている。
そうなると類も距離を取らざるを得ない。
──受験が終わるまでのはずだったのに。
結局、この夏まで事実は隠されたままだ。
そろそろ支えを失っている由宇の心が限界かもしれない。
※ ※ ※
タクシーの中で、由宇は暫くしゃくりあげて泣いていたが疲れたのだろう。今は眠っている。
手を繋いだまま。
そして。
直人は逡巡していた。
類に先ほどの罰ゲームのことを報告するかどうか。
バイト先の経営者もスタジオと同じだ。
つまり類の伯父が運営している。
バイトを泣いて抜け出して──その理由を類に話したら、由宇が苛められたようで、経営者一族への告げ口だと思われやしないだろうか。
そんな大袈裟なことなのか。たかが罰ゲームなのに。社員たちだって悪気があったわけではないはずだ。
あげく互いに気まずくなってバイトに行きづらくならないか。
時給も優遇してもらっている。ここをやめるのは、学費を自分で賄っている由宇には痛手だろう。
やめるほどのことではないようにも感じる。
もし、負けたのが別の子だったなら大した問題にはならなかったろう。
「眼鏡、ごめん──」
いつの間にか起きていた由宇が俯いたまま言った。
指先から震えが伝わってくる。
「大丈夫。元々曲がってたし。俺のほうこそ、もっと早く止めれば良かったのに──ごめん」
由宇の手が離れ、代わりに腰のあたりに抱きつかれた。上半身だけが横に引っ張られてよじれる。
別に直人に対しては普段から距離が近い。男同士としては過剰なくらいだ。
怖かったのは何だろう。
相手か。
接触する感覚か。
それとも周りの視線か。
「ちょっとだけ同じところ触ってみても良い? 嫌だったらすぐ離すから」
「うん」
指先を脇腹に近づける。
そのとき由宇の躰が強張るのが解った。怯えさせないよう、そっと指を置く。
「──んっ、ゃ」
「うわ、ごめん。もう離す!」
甘ったるいる声に一瞬心臓が跳ねた。女子の嬌声かと思うほどだ。
あの場で悲鳴で済んだのは幸いだった。こんなの聞かれたら揶われるか、妙な空気になりそうだ。
無意識的にはそれを避けたくて恐れたのだろう。
意外だ。
普段はあれだけ自分からべたべた触ってくるのに、触られるのはこんなに苦手なのか。
実家の猫みたいだ。甘えて膝に乗ってくるくせに、手を伸ばすとぴょんと逃げる、あの感じ。
由宇も自分の反応に驚いたようで、下を向いて真っ赤になって固まっている。
背中に腕を回して抱きよせた。
「人前で怖い思いさせて、ごめん。今度から何かあれば必ず助けるから大丈夫だよ」
思い出させてしまったのか、みるみる瞳に涙が溜まってくる。ぽろっと一粒が車の灯に反射しながらシートに落ちた。
──もし、またこの子に何かあれば絶対に守ろう。
直人はそう自分に誓った。
由宇はひとしきり泣いたあと「類に会いたい」と、ぽつりと言った。
「ずっと避けられてる気がする。俺、類に何かしたのかな」
由宇を、何にも悪くないよ、と慰めてあげたい。
けれど本当の理由は隠さなくてはならないので難しい。
──言わないどいて。
倍の報酬は、口止め料であり世話料だ。
直人が黙ってしまったので、由宇は再び口を開いた。
「俺、類に嫌われたのかな。唯は転職して忙しいみたいだけれど。類も何かあったのかな」
もう今回は自分一人でフォローは無理だ。直人は心の中で白旗を揚げた。類とだけでも会えないかと、携帯で助け舟を乞う。
罰ゲームの件は、本人が直接会って言うかどうかを判断すれば良い。
由宇に「会えるって」と伝えると、ぱっと泣き止んだ。その素直な反応は赤ん坊のようで微笑ましい。
──良かった。
タクシーが吉祥寺にあるスタジオのビル前に止まる。
桜の大木は、今は葉ばかりが繁っている。それに背を預けるように類が立っていた。
由宇は一目散に走っていって飛びつく。
直人は邪魔をしないように手だけを振って二人と別れた。
「目黒の駒場方面にお願いします」
直人の声に、運転手がタクシーを出発させる。
ダンス教室はこのビルから来月移転するという。
シンボルともいえる大きな桜の木を、最後だと思って眺めた。
その太い幹の陰に、髪の長い女が一瞬見えた気がしたが、すぐに窓の景色とともに後方に流れて消えた。
駅前では、移転先の商業施設が巨大な鏡のように闇を反射している。
結局、秋には、この場所で由宇と唯がばったり再会してしまう。
──言わないどいて。
口に出したら取り消せない。
割れた卵は戻らない。
そこでやっと直人は板挟みから解放されることになる。
了
※ ※ ※
引用元
曲名:Humpty Dumpty
作詞:不明
出版:1797年
Humpty Dumpty had a great fall.
All the king's horses and all the king's men
Couldn't put Humpty together again.
ハンプティが壁に座っていた
ハンプティが落っこちた
王様の馬も家来も駆けつけたのに
ハンプティを元には戻せなかった
──だってハンプティは卵だったのだから。
例えば、人と人との関係性。
一度聞いてしまったら、もう知らなかったころには戻れない。
不可逆だ。
言ってしまったら取り消せない。あれはやっぱり冗談だったと笑ったところで誰が信用するだろうか。
その夜は、別に誰もそんなことを考えていたわけじゃない。ただ、楽しく交流する場を作ろうとしただけで。
元はといえば他愛もない遊びだったのに。
──歯車が動いた。
※ ※ ※
現在進行中の飲み会で、どうやら罰ゲームの内容が決まったらしい。
それは「三十秒間、女子からくすぐられる」という、あまりにもくだらないものだった。
進学塾の講師たちのやることとは思えない。子どもじみている。
「女子から」というところに一応配慮はみられるが。
もし負けたのが女子でも、同性同士なら笑って済ませられるというハラスメント対策なのだろう。
理屈は解る。
男子が女子をくすぐったら大問題だ。社員の大人たちは、そう判断していたと思う。
女子二人が楽しそうに戯れ合う絵面を、大多数が期待していたに違いない。
けれど。
──負けたのは由宇だった。
記憶力勝負のゲームなのに。他校の関係者もいる前で緊張したのだろうか。
男子だから残念、という雰囲気にはならず、逆に盛り上がった。女子のように可愛い顔立ち──そして、大人しくて表情をあまり変えない子。
笑顔を見てみたい。
皆、そう興味を唆られたようだ。一同の好奇の視線を受けて由宇は青くなっている。
──やばいかも。
直人は迷った。
同級生の集まりなら遠慮なく「やめろ」と一喝できるけれど、ここはバイト先だ。
社員が場を取り仕切り、費用も負担している。
力関係が不利だ。
ましてや、本人が拒否するのならともかく、他人が横から口を挟んで。
自分だったら女子からくすぐられるのは構わない。可愛い子なら歓迎なくらいだ。できるなら代わってあげたいけれど。
──どうしよう。
高尾にある保養所。
バイト先の塾が主催した夏期合宿は、つつがなく最終日を迎えた。
消灯時間も過ぎ、生徒たちはそれぞれの部屋で眠っている。
講師と手伝いのバイト学生が大広間で打ち上げをしていたが、雲行きが怪しくなった。
直人は、少しフレームの曲がった眼鏡をずり落ちないよう何度も指先で押さえながら、由宇をじっと見つめて様子を窺う。
由宇は男女合わせて十三人の衆人環視の中、下を向いてじっとしている。
視線が合わない。
目で訴えてくれるのなら今すぐ止めるのに。
場の空気は悪くなるだろうが由宇は大切な──だ。
周囲が囃し立て、社員の一人が由宇を羽交締めにした。
大熊という名前の通り、大柄で毛深いが、面倒見が良く人気のある先生だ。
そこに塾内で一番可愛いと評判の女子が、照れながら近づいていく。
「──ッ」
由宇のくちびるが動く。
けれど冷やかす騒音にかき消されて、その声は聞こえない。
直人は堪らず腰を浮かせた。
脇腹に女子が触れた途端、きゃぁ──と由宇が甲高い悲鳴をあげ、場が凍りつく。
直人が女子との間に割って入るのと、由宇が大熊を振り払おうと必死に暴れたのが同時だった。
視界が揺れる。
眼鏡が由宇の手に当たって吹っ飛んだ。
かしゃん。
至近距離にある由宇の大きな瞳には、涙が溜まっている。
「ごめん──」
か細い声。
由宇は、そのまま踵を返してこの場から逃げ出した。
慌てて後を追いかける。
荷物は部屋に置いてきてしまったけれど、ポケットの携帯さえあれば、目黒の自宅まで由宇を連れ帰れるはずだ。
そうすれば替えの眼鏡もある。
直人は、脳内ではどんな知識も即座に引き出せるのに、現実の物の整理となるとまるで駄目だった。
眼鏡は度々踏んで壊すし、行方不明になることもある。コンタクトの管理なんて一生無理だ。
裸眼では足許が歪んで、直人は少しだけ自分の管理能力を恨んだ。
──思ったより外が昏い。
正面玄関を出ると、夏の匂いや暑さが一気に押し寄せ、頭上からは蝉の声が響いた。
じっとりした湿度。
麓とはいえ、山の中だ。都心の夜とは違う。
闇が深い。
霞んだ視界の中、目の端に由宇を見つけて、直人は安堵の息をついた。
「ごめんな。もっと早く止めたら良かった」
由宇は真っ赤な顔を両手で覆って、大粒の涙をぽろぽろ零していた。引き攣れたような異常な泣き方で過呼吸に近い。
保養所から自宅は距離があるが、今の由宇を電車に乗せるわけにはいかない。
急いでタクシーを呼んだ。
到着を待つ間、泣き続ける由宇の背中をあやしていると、ふと、以前にもこんなことがあったと記憶の蓋が開いた。
──あれは桜の季節。
※ ※ ※
中学受験が終わった春。
直人は、親に勧められダンス教室に通うことになった。
──そこに由宇がいた。
人見知りな子だった。目が合うと逃げてしまう。いつでもスタジオ経営者の甥姪の陰に隠れている。
類と唯。
由宇は、その兄妹の大きな翼の下で雛のように護られていた。
二人は、由宇より一回りほども歳上だ。
直人がスタジオに通いはじめる少し前に、兄のほうの類にストーカー騒ぎがあったという。
相手は直人も知る有名な歌手で、結局彼女はスタジオを出禁になった。
なのに由宇は、いつまでも彼女を怖がっていたように思う。
受付スタッフに、今日は来ていないか、大丈夫かと確認している姿を何度も見た。
由宇の家庭は、父親は単身赴任で、母親は不倫。頼れる大人は類だけだったから、彼の身に何かあったらと不安で堪らなかったのだろう。
兄妹は、纏わりつく由宇をよく可愛がって世話をやいていた。
洋服の御下がりをあげたり、癖毛の証明書を取るために中学校まで出向いたこともある。
直人はそんな由宇と兄妹の様子をただ眺めていただけだったが──。
高三の春。
忘れもしない。
類にスタジオの隅へと呼ばれた。
「由宇に勉強教えてやってくんないかな。もちろん小遣いはやるからさ」
面食らった。
受験生にライバルの面倒をみてくれなんて無茶苦茶だ。
けれど。
直人は、自分が期待されていると思うとうれしかった。
両親からは「順位を落とさないように」と釘を刺されたばかりだ。
対して類は「余裕あんだろ。由宇のことも頼むわ」と悪戯っぽく笑う。
結局二つ返事で引き受けた。報酬も良かったし、由宇のことも気になっていたからだ。
面白くなってきた。
上機嫌で更衣室に戻ると、由宇がロッカーの脇で身を縮めて待っていた。
既に類から「直人に勉強をみてもらえ」と言い渡されているのだろう。由宇は逃げずに直人をじっと見つめている。
二人でぎこちない会話をしながらビルを出た。
その瞬間。
「きゃぁッ──」
唐突に由宇が抱きついてきた。
何事か。
前方を見やると、ビル前の桜の大木の下に、見覚えのある髪の長い女が立っていた。
出禁の。
歌手の鷺沢茉理。
類のストーカーだ。
彼女は直人を見た。
そして、シンメトリーにくちびるを吊り上げて笑った。
由宇は震えて必死にしがみついてくる。直人は、その背中をあやしながら考えた。
まだ類はスタジオの中にいるはずだ。早く知らせないと。この女をなるべく刺激しないように、そっと。
ゆっくり相手を窺う。
直人に向かって茉理が話しかけた。
「知ってる? 私──なのよ」
強いビル風が桜を散らす。
茉理は、どこか挑発的な笑みを浮かべた。
直人は眉を顰めた。
「知ってる」
「由宇は──よ」
茉理は薄く笑うと足早に去っていった。
直人は、落ちた花びらの上に立ち尽くした。由宇は泣きじゃくっていて、二人の会話が耳に届いている様子はない。
──聞かなくて良い。
受験に必要のない情報だ。
直人も受付スタッフに伝え終えると脳裏の奥に押し込めた。
翌日、類は二人のために快適な自習室を手配してくれた。
さっそく由宇を試すと、驚くほど記憶力が良い。さらに海外経験があるらしく、英語に関してはアドバンテージがある。
少し教えただけで、ぐんぐんと伸びていく。意外にも負けず嫌いで根気もあった。
「これ、俺と同じランク狙えるかもしれないですよ」
経過を報告すると「結構、気ぃ強いだろ」と類はにやりと笑った。受験なんて競争なのだから気が強いに越したことはない。
──毎日一緒にいると性格もみえてくる。
人見知りというより内弁慶なのだ。仲良くなると急に甘えてくるようになった。
それは海外生活の影響か。それとも孤独だった家庭環境の反動なのか。
ちょうど由宇が打ち解けてきたころ──五月だったろうか。
再度、類に呼ばれた。
「悪いけど、頼める?」
その口調に、以前受験のことを頼まれたときの軽さはない。
唯の精神疾患が悪化し、かなり痩せてしまった。未遂で済んだが大量に薬を飲んだ。
受験を控えている由宇を動揺させたくない。
転職したばかりで忙しいと口裏を合わせる相談。
「由宇に病気のことは言わないどいて」
口に出したら取り消せない。
知らなかったころには戻れない。報酬は倍になった。
類と同じくらい唯にもべったりだったのだから黙っておきたい気持ちはよく解る。
──はじめて褒めてくれた人だから。
由宇に「唯さんをお気に入りだね」と話を振ったら真顔でそう応えた。
放置子同然で育った由宇にとって、ようやく見つけた自分を認めてくれる相手だ。簡単に手放せるものではないだろう。
由宇が類の顔を見れば、絶対に唯に会わせろとせがむに決まっている。
そうなると類も距離を取らざるを得ない。
──受験が終わるまでのはずだったのに。
結局、この夏まで事実は隠されたままだ。
そろそろ支えを失っている由宇の心が限界かもしれない。
※ ※ ※
タクシーの中で、由宇は暫くしゃくりあげて泣いていたが疲れたのだろう。今は眠っている。
手を繋いだまま。
そして。
直人は逡巡していた。
類に先ほどの罰ゲームのことを報告するかどうか。
バイト先の経営者もスタジオと同じだ。
つまり類の伯父が運営している。
バイトを泣いて抜け出して──その理由を類に話したら、由宇が苛められたようで、経営者一族への告げ口だと思われやしないだろうか。
そんな大袈裟なことなのか。たかが罰ゲームなのに。社員たちだって悪気があったわけではないはずだ。
あげく互いに気まずくなってバイトに行きづらくならないか。
時給も優遇してもらっている。ここをやめるのは、学費を自分で賄っている由宇には痛手だろう。
やめるほどのことではないようにも感じる。
もし、負けたのが別の子だったなら大した問題にはならなかったろう。
「眼鏡、ごめん──」
いつの間にか起きていた由宇が俯いたまま言った。
指先から震えが伝わってくる。
「大丈夫。元々曲がってたし。俺のほうこそ、もっと早く止めれば良かったのに──ごめん」
由宇の手が離れ、代わりに腰のあたりに抱きつかれた。上半身だけが横に引っ張られてよじれる。
別に直人に対しては普段から距離が近い。男同士としては過剰なくらいだ。
怖かったのは何だろう。
相手か。
接触する感覚か。
それとも周りの視線か。
「ちょっとだけ同じところ触ってみても良い? 嫌だったらすぐ離すから」
「うん」
指先を脇腹に近づける。
そのとき由宇の躰が強張るのが解った。怯えさせないよう、そっと指を置く。
「──んっ、ゃ」
「うわ、ごめん。もう離す!」
甘ったるいる声に一瞬心臓が跳ねた。女子の嬌声かと思うほどだ。
あの場で悲鳴で済んだのは幸いだった。こんなの聞かれたら揶われるか、妙な空気になりそうだ。
無意識的にはそれを避けたくて恐れたのだろう。
意外だ。
普段はあれだけ自分からべたべた触ってくるのに、触られるのはこんなに苦手なのか。
実家の猫みたいだ。甘えて膝に乗ってくるくせに、手を伸ばすとぴょんと逃げる、あの感じ。
由宇も自分の反応に驚いたようで、下を向いて真っ赤になって固まっている。
背中に腕を回して抱きよせた。
「人前で怖い思いさせて、ごめん。今度から何かあれば必ず助けるから大丈夫だよ」
思い出させてしまったのか、みるみる瞳に涙が溜まってくる。ぽろっと一粒が車の灯に反射しながらシートに落ちた。
──もし、またこの子に何かあれば絶対に守ろう。
直人はそう自分に誓った。
由宇はひとしきり泣いたあと「類に会いたい」と、ぽつりと言った。
「ずっと避けられてる気がする。俺、類に何かしたのかな」
由宇を、何にも悪くないよ、と慰めてあげたい。
けれど本当の理由は隠さなくてはならないので難しい。
──言わないどいて。
倍の報酬は、口止め料であり世話料だ。
直人が黙ってしまったので、由宇は再び口を開いた。
「俺、類に嫌われたのかな。唯は転職して忙しいみたいだけれど。類も何かあったのかな」
もう今回は自分一人でフォローは無理だ。直人は心の中で白旗を揚げた。類とだけでも会えないかと、携帯で助け舟を乞う。
罰ゲームの件は、本人が直接会って言うかどうかを判断すれば良い。
由宇に「会えるって」と伝えると、ぱっと泣き止んだ。その素直な反応は赤ん坊のようで微笑ましい。
──良かった。
タクシーが吉祥寺にあるスタジオのビル前に止まる。
桜の大木は、今は葉ばかりが繁っている。それに背を預けるように類が立っていた。
由宇は一目散に走っていって飛びつく。
直人は邪魔をしないように手だけを振って二人と別れた。
「目黒の駒場方面にお願いします」
直人の声に、運転手がタクシーを出発させる。
ダンス教室はこのビルから来月移転するという。
シンボルともいえる大きな桜の木を、最後だと思って眺めた。
その太い幹の陰に、髪の長い女が一瞬見えた気がしたが、すぐに窓の景色とともに後方に流れて消えた。
駅前では、移転先の商業施設が巨大な鏡のように闇を反射している。
結局、秋には、この場所で由宇と唯がばったり再会してしまう。
──言わないどいて。
口に出したら取り消せない。
割れた卵は戻らない。
そこでやっと直人は板挟みから解放されることになる。
了
※ ※ ※
引用元
曲名:Humpty Dumpty
作詞:不明
出版:1797年
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