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第1章
その35 魔女よ静かに眠れ
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「何を言ってるんだ? カルナック」
「わたしは闇の魔女カオリ。もうじきカルナックの魂の底に戻る。クイブロから見れば消えるのと同じよ。けれど、もしもあなたがわたしを選んで、望んでくれたら。ずっと、とどまって居られるの。クイブロ、あなたのそばに」
「それは。おれも、おまえのこと好きだけど。……そしたら、最初に出会ったカルナックは、どうなるんだ。もう会えないのか?」
「クイブロ、おかしなことを聞くのね。『わたしも』カルナックなのよ。『あの子』もカルナックだけど。別の人間だというわけじゃないわ」
「でも」
クイブロは、腑に落ちない気持ちを、どうにもできずにいた。
目の前のカオリは、きれいな女の子で、自分がセラニスに殺されそうなところを助けてくれた。あのカルナックと同じ匂いがする、同一人物、同じ魂だと言う。
けれど。
最初に出会ったカルナックは?
自分がどんなに可愛いかなんて何も知らずにいた。
世間知らずで、鳥の魔物から助けたクイブロに無防備に懐いて。
ウサギ(ビスカチャ)に触ってみたいと言って。
クイブロが勘違いして狩ってしまったのを、生き返らせて。ユキと名付けて可愛がっていた。柔らかい毛に包まれた生き物を、大好きで。
『だいすき。ほんとはまだよくわからないけど。きっとクイブロのこと、だいすき』
そう言われたことを思い出すと、胸が熱くなる。
どうしたらいい?
目の前に居る『闇の魔女カオリ』と名乗った少女も、カルナックだというのだ。
もう完全にクイブロの理解を超えていた。
「ねえ、答えて。いつまでもは待てないわ。わたしと、あの子と。どちらかを選んで」
闇の魔女カオリは、クイブロに選択を突きつけた。
今のカオリか、最初に出会ったカルナックか、どちらかしか選べないなら。
どちらに、そばにいて欲しいのか、と。
「そ、そんなこと。どっちもカルナックだなんて。どっちがいいなんて急に言われても。そんなの、選べるわけが……うえっ?」
クイブロは突然、情けない声をあげた。
というのは、コマラパの腕をすり抜けた『闇の魔女カオリ』が、クイブロの手を握って、纏っている漆黒のローブの上から、胸の膨らみへと導き、触らせたからである。
カオリの素肌とクイブロの手の間は、精霊の森で造られた、薄い一枚の長衣の布地で隔てられているだけだ。
精霊の織りなした薄布は、森の精気で生じたもので、物質としての布ではない。
柔らかな肌に直接、触れているかのような錯覚に陥る。
「か、かか、カルナック!? なにをするんだ。おれたちは、まだ髪も解いてないのに、こんなことしては、いけな…」
婚礼をあげても、きちんと編み上げたお下げ髪を『解く』までは、親密な関係を結んだとは見なされない。村の大人たちからは、若い者ゆえの仮の祝言だと思われる。
婚約したというのと同じような意味である。
「いいから触って。お願い……んっ……」
艶っぽいあえぎを耳元で聞かされてクイブロは耳まで真っ赤になった。
最初に出会ったときには、一目で好きになって、自分からカルナックの足の裏に触ったり髪の匂いを嗅いだりしていたくせに、いざとなると、まったく意気地がない。
「だ、だめだから! おまえ、こういうことはっ、おれたちは、ま、まだ……うわぁ」
しかし言葉は逃げ腰だが、指は勝手に、柔らかな膨らみの心地よい感触を求めて動いてしまうのだった。
「なんて、いやらしい触り方をするの。ねえ。わたしなら、あのカルナックより、あなたに、気持ちいいことをしてあげられるのよ。婚礼の夜の伴侶らしいことを、もっと……」
「も、もももっと、って」
「わたしを好きにして、いいのよ」
息を乱し、あえぎながら、闇の魔女カオリは、更にクイブロをあおり、選択を迫る。
「選んで。わたしを望んで。そうすればずっと、このままの、女の子の私のままで、あなたの側に居られるの」
囁きながら、クイブロを抱きしめる。
「おれは……」
魔女カオリに翻弄されて、クイブロは次第にまともに考えられなくなっていく。
その状況を見かねて、コマラパは大声で叫んだ。
「何をしているんだ! 香織、やめなさい、はしたない」
駆け寄ろうとするのを、止めた者がいる。
「待って」
「今はこのままカオリの思うとおりにさせてください」
精霊の兄妹、レフィス・トールとラト・ナ・ルアだった。
「なぜあなた方が止める? 香織はどうかしている。あのような破廉恥なまねをする子ではないのに!」
「コマラパ。さっきも言ったわ。あと一つ、試練が残っているの」
ラト・ナ・ルアは、苦しげに答えた。
「そして、それは、セラニス・アレム・ダルが降臨するということでは、ない。先ほどの事件は、偶発的なものだ。根本的な問題では無い」
レフィス・トールもまた、苦渋を舐めたような表情をしていた。
「カルナックは、魂の中にいくつかの心がせめぎ合っている。同じ魂なのに全く別の意識を持ってしまっているの。このままでは溶け合うことはできずに分裂して、魂も消えてしまうのよ」
「そうすれば、カルナック自身も消えてしまう。あの肉体は、いったんは実の父親の手で殺され、死んでいるのだから」
「だが、見過ごせるものか! わたしは、また香織を失ってしまうのか!?」
そして、あの幼いカルナックを、と。
コマラパは口には出さずに思っていた。
なんということだろう。
これはクイブロ一人の問題では無い。
コマラパにとっても、香織も、カルナックも、どちらも、かけがえのない、失いたくない子どもだった。
※
「……だめだ」
ふいに、クイブロは声をあげ、カオリの魅惑的な誘惑を、やんわりと押し返した。
「どうして? わたしのこと、いやなの。きらいなの? わたしが、闇の魔女だから? セラニス・アレム・ダルと同類だから? それとも……ガルデルに」
「ちがう! おれは、あんたのことも大好きだよ。でも、最初に出会ったカルナックのことも、すごく大切なんだ! もう会えないのか?」
「ええ、わたしを選ぶなら。あの子にはもう二度と会えない」
「会いたい。どうしてだか、あいつが、泣いてるような気がするんだ」
「そう……わかったわ」
不思議なことに、満足げにカオリは頷いて、立ち上がった。
「よかった。わたしを選ぶと言ったら、殺そうと思った」
再び、恐ろしく物騒なことを、さらりと言う。
「あなたが、わたしの思ったとおりの誠実な人で、よかったわ」
「おれを、試したのか?」
呆然とするクイブロに、カオリは屈み込んで、囁いた。
「だって、あなたが大きくなったときに、伴侶の契りを結びたいのは、このわたしじゃないでしょう?」
クイブロは何も答えられなかったが、耳まで真っ赤になった。
「でも忘れないで。あなたの魂は、わたしのものなのよ。あなたはわたしのそばを、未来永劫に、離れられないの。たとえあなたが、今世でも、また、わたしより先に死んでしまったとしても」
魔女カオリの姿は、幻のように消え失た。
彼女がいた場所には。
元通り、七歳くらいの外見をしたカルナックが、うずくまっていた。
「……クイブロ。おれで、いいの?」
潤んだ目で、見上げる。
「おまえが、いい」
「……変態。ばか」
カルナックは、ぽろぽろと涙をこぼした。
「お、おまえ! どうしたんだ」
「セラニスが言ってた。クイブロは身体が目当てだって。ガルデルと同じだって」
「そんなわけないだろ!」
「うん。……うん、そうだよね。身体だったら、カオリのほうがずっと大人だし胸もあったし。ちゃんと契りを、できるもの」
「そこは忘れていいから!」
「おまえは、ほんとに、ばかだ」
また、カルナックは呟いて。
泣いた。
魂の底に眠ることを選んだ、魔女カオリのために。
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