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第1章
5 銀色の少年
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「着いたぞ。《ベレーザ》が根城にしている国境の街、グレイムだ」
まばゆい日差しをさえぎるように手をかざして、コマラパが言った。
五日間、追い続けたすえにたどり着いた、エルレーン公国南の国境の黒い森と、国境の向こう側、グーリア神聖帝国側にある街グレイムを囲む石壁が、間近に迫る。
まじない師にして狩人の長コマラパは、村長の役目も兼ねている。
いくつになるのか誰も聞かないが、相当な年を重ねているのは間違いない。噂では若い頃には他の土地で出世もしたが大森林で暮らしたいといって帰ってきたそうだ。
外見は五十、六十歳と思えるほど若く見えるが、実年齢は誰も知らない。
現役の戦士にも引けを取らない、屈強で大柄。
白髪で、豊かな顎髭も白く、肌は浅黒く日焼けしている。
眼光の鋭さ身体から発する気迫は、他の者を圧倒して余りあるほどだ。
「攫われた者たちを取り返すぞ!」
コマラパの言葉に皆がうなずく。
手に手に弓矢と山刀を携えている。
キールが背負っているのは、父親の形見、《牙》(スアール)だ。
長さは八十センチ程の、ゆるやかな反りを持った片刃の剣。
キールは父から狩人としての訓練のほかに、クーナ族にはない、この剣での戦い方も教えられて育った。
コマラパが皆を見渡して言う。
「しかし、いかにお前たちが強者でも、この手勢で今、正面から攻め込んでは、勝てぬ。グーリア人は夜、動くのを嫌う。夜にまぎれて街に入り込むのが良かろう」
夜と聞いてキールは空を仰ぎ、目を細めた。
青白く若き太陽神アズナワクは、天空の頂きから動こうとしないように思えた。
「時を待て。そして一気に攻め入る!」
*
夜空に小さな赤い月が昇る。
漆黒の空にはりついた不吉な赤い片目だ。《魔眼》と呼ばれる月だった。
古くから、《魔眼》のもとで魔物たちが力を得るという。
キールは《魔眼》をにらむ。
まるで暗く濁った血の珠のようだ。
この月の光には、闇を払う程の明るさもない。数時間後に昇ってくるもう一つの月、《真月(イル・リリヤ)》の明るく白い輝きとは、まったく違う。
だが今は、暗い方が都合が良かった。
街を囲む壁に、コマラパが綱を投げかける。
綱の先端に取り付けられた金具が、大人の身長の三倍はあろうかという高い壁のてっぺんにかかり、しっかりと食い込む。
最初にキールが、次いでタヤサルが、アラワクが、するすると壁を昇っていく。
十分後には、全員が壁の内側に降り立っていた。
夜の街は静まりかえっていた。
さほど大きな街ではない。市場と商人の宿が半分を占め、残りの半分に《ベレーザ》が大きな天幕を幾つも張って住んでいた。
狩人たちは壁の内側に沿って走った。
突然、行く手に立ちふさがったものがある。
灯火の下に立っていた、その足もとには影が無かった。
闇と同じ色をした人影だ。
キールは無言で飛び出した。
背負った《牙》を抜き放つ。
鋼の刃が灯火を照り返して、薄闇に光の弧を描く。
ガシン!
振り降ろした《牙》に、硬いものがぶつかった。
目の前に顔があった。
黒衣に包まれた青白い老人の顔だ。
その右目のあるべき場所には、にぶい光を宿した半透明の石がはめこまれていた。
黒衣の老人が顔を歪めて笑う。
寒気がした。本能が危険を告げる。
キールは身を屈めながら、老人の腹に蹴りを入れた。
手応えがない。
黒衣だけが、蹴りを受けて中身がないかのようにパサリと揺れた。
『シエンテ』
黒衣の老人が唱えた呪文が、そのまま弾丸となって顔面に飛んでくる。
身をよじって避けると、それはキールの腕をかすめて背後の地面に落ち、敷石を煮えたぎる泥に変えた。かすった腕がやけるように痛む。
コマラパが両の手を組み聖言を唱える。
手の平にまばゆい光が集まっていく。
黒衣の老人の蒼く血の気のない顔に、冷笑が浮かぶ。
ぺっ、と唾を吐き捨てる。
唾の落ちた地面から黒い塊が現れ、みるみる見上げるように高くもりあがっていく。黒い塊の中に二つの赤い目が開いた。そこに、闇よりも黒い巨大な獣が現れた。
「天地の大神イツァに願う、天の火を以って暗き神威を退けん!」
コマラパの聖言が響く。
空に雲が集い、稲妻が走る。
天と地を結ぶ火の柱だ。
黒衣の老人が闇の塊を投げる。それは瞬時に膨れ上がり、稲妻を呑んで消えた。
『蛮人のまじないなど通用せぬ!』
吐き捨てた言葉は、キールの知らないものだったが、すさまじい敵意だけは、はっきりとわかった。《牙》を握り直し、キールは飛び出す。巨大な闇の獣が迫ってくる。
「いかん! とまれ、キール!!」
コマラパが叫ぶ。
その声は、今やキールの耳には届かない。
はげしい憎悪が身体をつき動かし、うなり声を上げ、キールは《牙》を振りおろす。
黒い怪物はその刃をひらりとかわし、巨体をうねらせ目の前の獲物に襲いかかった。
鋼鉄の爪がキールの肩を引き裂く。
「逃げろ! キール!」
クイブロが、タヤサルが、アラワクが、我を忘れて駆け出した瞬間。
《サング!》
よくとおる澄んだ声がよどみを切り裂いて、響いた。
ドン!!
大気が振動する。
見知らぬ声は、さらに言葉を唱えた。
《ク・セウ・ノパ・グルオンシュカ……》
肩を血で染めたキールが、何が起こったのかわからないように、目をしばたかせる。
キールを狙った怪物の牙が、目前にある。
だがそいつは動かなかった。いや、動けなかったのだ。澄んだ声の唱える呪文が、怪物を完全におさえつけていた。
「あれは?」
キールは目を凝らす。
広場に立つ低い塔の上に、輝くような銀の髪の人物がいた。
声の主だ。
その人影は、ゆっくりと右手を上げた。
指先から、しだいに金色の炎が燃え上がり、ゆらぎはじめた。
「グウルルル……」
怪物は苦しげに、低くうめいた。金色の炎が大きく燃え上がる。
《バース……》
炎につつまれた人物が、静かに唱える。
《レ・ヴン!》
短い呪文が放たれたのと同時に炎の塊が爆発し、再び大きな光の矢に形を変え、一直線に飛んだ。確実に、キールを襲った怪物を狙って。
光の矢が怪物をのみこんで、一瞬のうちに大きくふくれあがる。
『お…おお、皇帝陛下にお伝えせねば……』
黒衣の老人の悲鳴にも似た叫びは、押し寄せる熱風と光芒の中に消えていった。
※
地面も、巨大な天幕も石積みの家も壁も、何もかも消し飛んだ。
あとには巨大な穴が残っているだけだ。
穴のふちに、一人の小柄な人物が立っていた。
銀色の髪をしている。暗い《魔眼》の月の光しかないというのに、自ら光り輝いているような銀髪は、神秘的でさえあった。
その人物が、キールを見た。
何という冷たい瞳か。
誰も、何も信じてはいないかのように。
そしてその時キールはようやく、その人物が、自分よりも年下の少年らしいことに気づいた。
しかしキールを見る少年の顔には何の感情も動かず、少年は背をむけて、歩きだした。
ごうごうと燃えさかる炎に向き合って。
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