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第七章 アイリス六歳

その9 閑話4 精霊の思し召し、という性別 

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         9(閑話4)

 背中の半ばまで伸ばした黒髪と、黒い目をした少女は、フィリクス公子から名前を尋ねられ、いったん言いかけた言葉を飲み込んだ。
 一呼吸おいて、ルイーゼロッタと名乗った。
 少女が、本来はエリゼール王国第六番王女エリーゼ姫であることを《影の呪術師》は知っているが、そのことには触れない。
 グーリア神聖帝国の領土拡大戦争のために滅ぼされてから三年が過ぎている国だ。

「ついておいで」

 長身の《影の呪術師》に手を取られて歩む。少女の歩幅に合わせてゆっくりと進んでいるのがわかる。
 後ろから侍女が一人、静かに付き従っていた。

 少女はときおり青年を見上げる。漆黒のローブを纏った青年は、人間というより精霊だと言うほうが納得できるような神々しい美貌だった。腰まで届く長い黒髪を、下のほうだけ緩く三つ編みにしている。

 黒髪と黒い目という色合いにおいては、二人は兄妹のように似ていた。

「先ほどフィリクス公嗣から聞いたと思うが、ここは離宮だ。エルレーン大公が住む公邸とは完全に切り離されている。この離宮は大公の家族用で何人かは実際に住んでいるけれど、顔を合わせる心配はしなくていい」

「ありがとうございます」
 亡国とはいえ、一国の王女にしてはずいぶんと腰が低い。
 やはり、王女として王宮暮らしをしていたわけではない、という情報は合っていたようだと《影の呪術師》は改めて思う。
 エリーゼ王女。
 六番目の王女には違いないのだが、生まれでた時に母を亡くした彼女は、生母の後ろ盾がなく、王家の籍から抜かれ養女に出されていた。先はそれなりの豊かな商人の家で、乳母や乳姉妹もいたようだ。

 境遇に大きな変化があったのはグーリア帝国の侵攻による。
 あらゆる戦線で敗走し続けたエリゼール王国は、領土をはぎ取られていき、ついに全面降伏して支配を受け入れることになった。

 だが『休戦の条件として王女を帝国に嫁がせよ』という要求に、嫡子である王女たちを渡すわけにはいかないとして急遽、末の王女としてエリーゼを復権させ表舞台に担ぎ出したというのだから勝手な話だ。

 もっとも権力争いのためにあれこれと画策をしたエリーゼ王国の大臣たちや王侯貴族、彼女一人を犠牲にして生き延びる選択を決めた国民たちも、もはや誰一人として残っては居ない。
 王国自体すら地図から消えてしまった。

 欺こうとしたことでグーリア神聖帝国、神祖皇帝ガルデルの逆鱗に触れたのだ。
 壊滅的な破壊兵器が使用され、領土は焦土と化した。

 生贄にも等しい身でグーリア帝国へ向かう途上だったエリーゼ王女と随従たちだけが生き残った。彼らは踵を返して向かう先をレギオン王国へと変更した。エリゼール王家とレギオン王家とは姻戚関係にあったのである。
 だがレギオンは、実利のほうを重んじた。

 エリーゼをグーリアへ渡そうと画策し、邪魔になる者たちを殺した。
 ただ、レギオン王家の中でエリゼール出身だった第三妃が、地下に隠された転移魔法陣の存在を教えてくれたのだった。

 それらの事実を、今のルイーゼロッタは、認識することができない。受け入れることができないのだ。
 混乱した記憶の断片が散らばり、何かの拍子にフラッシュバックする、非常に不安定な状態だった。

 まるでエリーゼ王国全ての死者から呪詛を引き継がされたかのように。

          ※

 おぼつかない足取り。
 痩せて筋肉がほぼついていない肢体。髪にも肌にも艶も張りもない。
 かなり衰弱しているのは間違いない。

 彼女を発見したのは大陸北部、『始まりの巡礼の地』でのことだった。
 行き先も指定せずに転移魔法陣を起動させたために、登録されている行き先のうちで最初の地点、古代の王国アステルシアに転移したのだ。この土地は現在、精霊の祝福により外部とは切り離されており、許された者しか入ることはできない。
 精霊の愛し子であり《世界の大いなる意思》と、魂に深い繋がりを持っている《影の呪術師ブルッホ・デ・ソンブラ》でなければエリーゼを見つけ出すことはできなかっただろう。

 天井の低い回廊を歩む。
 細い階段をのぼっていくと、突き当たりに小さな扉が見えた。

「君の部屋だよ」

 案内された小部屋の扉を開けて少女は「……わあ」小さな、感嘆の声を上げた。
 感情をあらわにすることを恐れているのか。ずいぶんと控えめだった。

「どうかな。気に入らなければ別の部屋を用意させよう」

「いいえ! いいえ、気に入らないなんて……逆です」
 感極まったように少女は言って、おそるおそる足を踏み入れた。

「なんて、きれい。かわいいお部屋!」

「喜んでくれて私も嬉しいよ」
 長身の《呪術師》は背をかがめて扉をくぐり、室内に入る。

「大公の子供たちが幼い頃に使う部屋だ。部屋の中にあるものは全て君の自由にしていい。くつろいでくれ」

 低い天井、小さな家具。たんす、テーブル、椅子。天蓋付きのベッド。
 奥に設えられた暖炉には薪がくべてあり、パチパチとはぜ、炎を上げていた。
 身も心も凍えていた少女を、温かく迎え入れるかのように。

「これから君の世話をする専属の小間使い、ネリーだ」

 暖炉の脇に佇んでいた中年女性が進み出る。
 焦げ茶色の髪に白髪が交じっている。瞳は明るい灰色だ。

「ネリーでございます。よろしくお願い致します、お嬢さま」

「姫さまとは言わないことになっているからね」
 唇に指を当てて《呪術師》が笑みを浮かべる。

「こちらこそ、よろしくお願いします、ネリー」

「お嬢さま、ネリーは召使いでございます。お気遣いなさらず、なんなりとお申し付けくださまし。まずはお召し替えを。お湯もご用意できておりますよ」

 暖炉の前に、清潔なリネンや着替え、湯を満たした桶が置いてある。
 さっそくネリーは支度にかかった。

「えっ」
 さすがにルイーゼロッタは戸惑いを覚えた。
 やつれているとはいえ十四歳である。
 今から着替えをしようというのに《呪術師》は出て行くそぶりも見せないのだ。

「私はここにいる。君の護衛として」

「で、でも! 《呪術師》さまは…あの…」
 戸惑う少女に、ネリーは微笑む。
「この方なら気にすることはございませんよ、お嬢さま。《呪術師》さま以上に頼りになる護衛などいらっしゃいません」

「でもっ! ご、護衛とか、それ以前に……」
 救出される前のルイーゼロッタならば意識するゆとりもなかっただろう。だが現在の彼女はようやく人間らしい生活を与えられたことで、恥ずかしいという感情を取り戻していたのだ。

「……君は『精霊の思し召し』を知らなかったか」

 青年は、あらためて気づいたというように、ぽんと手を打った。
 それまでの落ち着いた雰囲気からは意外に思えるような子供っぽい仕草だった。

 ルイーゼロッタの中で《呪術師》の印象が変わる。

「あの?」
 とまどい焦るルイーゼロッタ。
 ネリーは笑顔で、湯浴みの支度を進める。

 そして《呪術師》は、今度こそはっきりと、笑った。

「私に嫁のきてがない理由の一つだ。私は『精霊の思し召し』という珍しい体質……というのかな。まあ早い話、男でも女でもないのだ」

「……え?」

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