孤悲すてふ

宮ノ上りよ

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第一章 名を交わす ~天文十六(一五四七)年・夏

一 真名

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 ――真名まなを、教えてもらった。


 その日、太三郎たさぶろうは終日非番だった。
前日、琴島館ことしまやかたを下がる際に年下のあるじ
甲午丸こうごまるは明日は何ぞ面白い事でもするのかの?』
何気なく問うてきたのに、正念寺しょうねんじの和尚様にお借りした書物を返しに伺う所存にて、と応えた。
それは主が期待したような返答ではなかったようで、何だつまらんの、という呟きの後
『そなたはほんに書を読むのが好きだのう。兄上もだが、ようも他所から借りて来てまで読みたいと思うものよ。好みは人それぞれであろうが私にはとんと解らぬ』
近頃やや低めになったもののまだ幼げが抜けない口調で、そう言った。

 正念寺の良然りょうねん和尚は、太三郎の学問の師である。
太三郎だけではない。琴島家に仕える上級の家柄の子息は皆、幼時から正念寺にて良然の教えを受けていた。
太三郎の主であり乳兄弟でもある琴島家の次子・松寿丸しょうじゅまるも、月に二度程館を訪れる和尚を師と仰いでいる。だが松寿丸は文より武を好み、学問にはあまり身を入れていなかった。
兄の少輔太郎しょうたろう敦良あつよしはいずれ琴島を背負って立つという自覚があるからか幼い頃より様々な事を積極的に学び、あちこちから書を入手したり借用したりしては暇を惜しんで読みふけっていたというのに、弟は次子の気楽さもあってか決められた学問の時以外に書を手に取る事はなかった。

 『若君にも今少し身を入れて頂かねばのう』
先程、師が苦笑いしながらぼやいていた言葉が、太三郎の脳裏をよぎる。

 良然は琴島家の連枝ゆえに、主家の若君に対しても遠慮がない。
と言うより、和尚様は御家の先々を憂いておられるのだ、と。
書を返して寺を辞して帰路を辿る道すがら、太三郎は主家の事情に思いを馳せていた。

 過ぎし応仁の大乱以来、天下麻の如く乱れる中。
穏やかな内海の片隅に浮かぶこの琴島も、内実は予断を許さぬ状況にあった。
当主は未だ三十を少し越したばかりながら、数年前より病がちで床に就く日が多く、ここ二年程は戦の折に嫡男の敦良が父の陣代として出陣している。
つい先頃妻を迎えたばかりの敦良には子がなく、万が一の折は松寿丸が琴島を継ぐ事もなきにしもあらず、だ。
次子とは言え安穏と日を暮らしていられる時世ではないのだと。
折に触れて良然は松寿丸を諭していた。良然だけではない、父からも兄からも今少し学問にも身を入れるよう日々苦言を呈されているのだが。
太三郎の主はどこ吹く風とばかりに、相変わらず武芸を磨く事にのみ力を注いでいた。
それはそれで悪い事ではない、が。

 あれこれと物思いに耽りながら歩いていて、ふと。
気づいた時には、太三郎は普段通り慣れた道を通って川べりまで出てしまっていた。
しまった、と苦笑する。

 ここに掛かっていた橋が大雨で流されてしまったのはつい先日のことだった。
上流に掛かっている橋を通って迂回する面倒に、それでもようやく慣れたと思っていたのだが。
ぼんやりと考え事をしていて、つい足がいつもの道を辿ってしまっていたらしい。

 改めて上流を目指そうか、と踵を返しかけて。
太三郎は、川べりに佇む人影に気がついた。

 一見して上級の家の者と判る、身なりの整った、小柄な女子おなごだった。
年の頃は……自分よりもやや下、だろうか。
上質の塗りの細長い文箱ふばこを抱えて、川面かわもを呆然と眺めている。

 もしや、橋が流された事を知らずにここにやってきたのだろうか。

 「もし、如何した?」
声を掛けた刹那、驚いたように振り向いた顔が、まだあどけない。
「ああ、驚かせて済まぬ。怪しい者ではない」
一応名乗った方がいいだろうか、と太三郎が思うのと
「あの……」
おずおずと、相手が口を開くのとが同時だった。
「向こう岸へ行きたいのですが、ここにあったはずの橋がのうて……」
困惑を露わに、ぼそぼそとちいさな声で彼女は言った。
やはりそうか、と。

 「ここの橋ならばつい先日の大雨で流されてしもうての」
「えっ!」
「皆、ここから半里(二キロメートル)程先の橋を使うておる」
「半里……」

 太三郎の言葉に、相手は呆然と呟いた。
「そうですか……」
声に、悲壮感が漂っていて。
「何ぞ、向こう岸に急ぎの用でもあるのか?」
文箱を抱えている所を見ると、もしや主の使いでどこぞへ赴く途上か、あるいはその帰りか。
太三郎の問いに、その女子ははい、と応えて。

 「主の至急の使いにて、この先の大野おおの兵部ひょうぶ様の御邸宅に伺う途上なのですが」

 何と、行先は我が家であったか、と。
目を丸くした太三郎は、改めてしげしげと目の前の女子を見やった。

 「そうか。ならば、急いだ方が良いの」

 即座に袴の裾をたくし上げて、結んで。
「御無礼つかまつる」
小柄な相手を、横ざまに抱え上げる。
きゃ……とちいさな声を上げた彼女に
「しかとつかまっておれよ。使いの文箱も落とさぬようにの」
太三郎がそう言うと、彼女は両手でぎゅっと文箱を抱えて、身体の重みを太三郎の胸許に預けてきた。

 彼女の足から草履が脱げ落ちたが、それには構わず。
草履をその場に揃えて脱ぐと、太三郎は目の前の浅い流れに足を踏み入れていった。

 この女子、おそらくは御館おやかた奥向おくむきの姫君様より母上へのお使いであろう、と。
身なりの良さと文箱の上質さと行先から、太三郎は察していた。

 『姫君様』と皆が呼ぶ琴島館奥向の主は、少輔太郎敦良の正室・澪乃みおの
都よりはるばる嫁いできて未だ日が浅い。
澪乃の居住用に充てられた一角は、未だ元服前で奥向で起き伏ししている松寿丸の居室からは離れていて、時折奥向の主の許へ参ずる太三郎がその姿を見た事は未だない。
だが、『姫君様』の周囲に関する噂はいくつか洩れ聞いていた。
都から同道した姫君様付の侍女達を取り仕切っている、由紀江ゆきえという若い侍女頭は見目かたちが大層麗しいが何事につけて大層厳しい女子だそうで、姫君様が住まわれている辺りでは常に誰かを叱責する声が絶えないのだとか。
特に一番小柄な侍女が毎日のように叱られている、と、何かの折に太三郎は主から聞かされた。

 もしやこの女子のことでは、と。
思った刹那、手が動いていた。
帰館が遅れたらまたしても叱責をくらうであろう。急いで向こう岸に渡してやらねばと。

 幸い川の水かさは少なくなっていて、膝より上までは上がらず、捲った袴を僅かに濡らした程度でどうにか岸に辿り着いた。
大きめの平たい石の上に、彼女を立たせるようにそっと降ろして。
「草履を取って来るゆえ、しばしそこで動かず待っておれ」
言い置いて太三郎は再び川に入り、向こう岸に置いて来た二足の草履を手にして、戻った。
彼女の足許に草履を並べて揃えると
「勿体のうございます」
言いながら、彼女は襟元から手巾を取り出した。
「あの、これで、おみ足を……」
差し出されるのに
「私は良いから」
軽く首を振って断って、太三郎は括り上げていた袴の両裾を下ろした。
河原の石の上を何度も踏んで足裏の水気を拭って
「大切な使いの途上であろう?草履を履く前にしかと足を拭うのだぞ」
諭すようにそう言うと
「申し訳ありませぬ」
身を縮めるようにして頭を下げて、彼女は文箱を胸に抱えながら手巾で足の裏を拭き始めた。
たしなみとしてそちらを見ないように視線を逸らしたものの、万が一彼女がよろけた際は支えられるようにと間合いを測りながら、太三郎は己が草履に足を入れた。
幸いよろける事も文箱を取り落としそうになる事もなく、草履を履いた彼女が
「まことに、有難うございました」
深々と頭を下げて礼を申し述べるのに
「いや、大した事ではないゆえ、礼には及ばぬ」
手を振って。

 「御館奥向からの御使いとお見受け致す」
推測を、確信を持ちながら太三郎は口にした。
「姫君様より我が家への御使者とあらば御無礼があってはならぬゆえ」

 ゆっくりと、頭を上げた彼女が
「あの……失礼ですが、貴方様は」
問うてきた。

 怪しい者ではない、と。
こちらの身分を一応明かしておくつもりで口にした言葉であったが。
この後に及んで、はた、と太三郎は考えてしまった。
何と名乗れば良いのだろう、と。

 この正月で十四になった太三郎は、本来ならばとうに元服している年頃だ。
だが、未だ元服前で生活拠点を奥向に置いているひとつ年下の主・松寿丸に、近習として仕える都合上
『そなたの元服は若君御元服までは控え置く』
父にそう言い渡されていた。成人男子は原則、奥向には出入り出来ないからだ。
そのため太三郎は琴島館では
『甲午丸』
と、未だ幼名で呼ばれている。
だが母が、既に大人の風貌に近づきつつある我が子が前髪立ちのまま、身にそぐわぬ幼名で呼ばれているのが
『あまりに不憫ゆえ何卒』
と父に乞い願った末、父から元服後の名乗りのみ先に授けられた。
『太三郎』
はその際にいみなと共にもらった名だ。
内々の事ゆえ公然と名乗る事は未だ憚られるが、遅まきながらようやく元服に一歩近づいた気がして、太三郎は満足していた。

 奥向の侍女に対してならば、奥向で呼ばれている幼名で名乗るべきなのだろう、が。
何故だろう。
それを口にするのを、太三郎はひどくためらった。

 迷ったのはほんの僅かの間。
さっと、居住まいを正して。

 「申し遅れた。私は大野兵部丞ひょうぶのじょう長盛ながもりが嫡男、太三郎貞盛さだもりと申す者」
「……えっ!」

 相手が、顔色を変えた。
「も、申し訳ありませぬっ!とんだ御無礼をつかまつりました!」
ひどく狼狽した態で
「わたくしは姫君様にお仕えするみのと申します」
名乗りながら頭を下げたはずみに、文箱を取り落としそうになった。
危ない、と思わず手を出しかけたものの
「申し訳ございませぬっ!奥向では……」
何やら早口で叫びながら、彼女は間一髪の所で文箱を抑え、抱え直していた。
ほ、と安堵して手を引っ込めながら。
すっかり慌て切った表情とはうらはらの落ち着いた対応に、感心しながらも笑みを誘われて。
「そなた、面白いの?」

 微笑ましさからついそう言った刹那、それが相手にとっては決して褒め言葉には聞こえぬであろう事に気づいて。
しまった、と思うのと、目の前で彼女がしょんぼりと項垂れるのとが同時だった。

 「まことに重ね重ね、不調法にて、申し訳ございませぬ……」
消え入りそうな声でぼそぼそと言うのに
「あ、いや、私の方こそ不躾な事を申して済まなんだ」
慌てて詫びて。

 「今のはその、大したものだと思うて、申したのだ」
「え……?」
「かなり慌てておったのに、文箱を落とさず抱え直す仕草が妙に落ち着いておったゆえ」
「……」
「流石は姫君様お付きの侍女殿、咄嗟の折も進退をあやまたぬ、との」

 彼女の主に対する敬意も込めて、太三郎が言ったことに
「……過分なお言葉、恐縮でございます」
そっと顔を上げた彼女は、嬉しそうに微笑んでいた。


 彼女の行先が自邸だったので、太三郎は同道を申し出たのだが
「いえ、それはあまりに畏れ多うございまするゆえ、何卒お先にお立ち下さいますよう」
身を縮めるようにして固辞された。
ここで無理を言っても却って恐縮されるだけであろう、と
「相判った。では」
「まことに、有難うございました」
挨拶を交わして、先に歩き出したものの。
このまま帰邸したら結局は彼女と鉢合わせになり、母の前で再度今の礼やら詫びやらを繰り返させる事になると、太三郎には容易に想像がついた。

 ――今いちど、話が出来るのならば。

 そう思いながらも、これ以上彼女を困らせるにしのびないと。
角を曲がって彼女から見えなくなった所で、太三郎は敢えて自邸とは外れた方向へと足を向けた。
回り道をするか、誰ぞ朋輩の邸へしばし立ち寄るか。

 当てどもなく歩きながら。
今しがたの邂逅を、思い返す。

 共にいたほんの僅かな間にくるくると変わった表情が、可笑しくて。
何よりも、笑顔が愛らしくて。

 『わたくしは姫君様にお仕えするみのと申します』

 ――みの殿、か。

 どのような字を充てるのだろう、と。
考えてふと、あることに気付いた。

 奥向の姫君様――澪乃姫に付いて都から下って来た侍女達は皆、漢字で三字名の出仕名(奥勤め用の名)を持っている、と。
主の松寿丸から聞いた事を、思い出して。

 『みの』に漢字を充てる場合、三字というのは有り得ない。
ならばそれは、真名、ということか。

 女子が真名を名乗る事など、まず滅多にない。
奥向の侍女という身分を明かした上で名乗るならば、出仕名を名乗るのが普通であろう。
では、何故。

 余程慌てていたのか。
それとも。
太三郎が正式な名乗りを口にした事に対して、真名で応えてくれたのか。

 そう言えば。
『申し訳ございませぬっ!』
名乗った後に何故か謝罪を口にして、何やら続けていたようだったが。
あまりの早口と彼女が落としそうになった文箱に気を取られたため、聞き落としてしまった。
確か
『奥向では』
と言っていたような気がするが、何だったのだろう。

 ――奥向、か。

 奥勤めならば、いずれまた顔を合わせる折もあるだろうか――。

 何故だろう。
我知らず、口許が綻ぶ。

 未だ前髪立ちのまま奥向に出入りしている身を常々もどかしく思っていたのはどこへやら、心浮き立つ思いで歩を進める、太三郎であった。 
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