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6 見上げた花火の向こうに
しおりを挟む花火大会の会場に着いたのは、西側の山並みの向こう側に夏の陽が完全に隠れた直後だった。
河原にある多目的広場には夜店のテントが立ち並び、周辺に人だかりが出来ている。あちこちに見物客が大小様々なビニールシートや敷物を広げて陣取り、普段閑散としている河川敷が年にいちどこの日だけの賑わいを見せていた。
車両通行止めになっている堤防道路やそこから河原へと緩く続くのり面も、打ち上げ場所に近い方からずっと見物客が敷いたビニールシートでびっしり埋め尽くされていて、先に進んでも今から座るスペースを確保するのは難しそうな状況だった。
「あまり先に行ってももう場所がなさそうだし、この辺にしておきますか」
思っていたことをそっくりそのまま、宏が言うのに
「そうですね」
頷いて、祐子は宏からクーラーバッグを受け取った。
側面のポケットに折りたたんで収納しておいた敷物を広げて、コンクリートブロックが敷き詰められた堤防斜面のまだあまり人がいない辺りに敷き、宏と並んで座る。
程なくして、茜色に染まる空にぽん、ぽんと、音と共に花火が上がり始めた。
まだ夕焼けの残照が残るうちは、空中で何かが光っていると判る程度で爆ぜた際の煙の方が目立っていたが、急速に闇が辺りに垂れこめてくるにつれて次第に綺麗な光の華の形を呈してきた。
「やっぱり近くで観ると迫力がありますね」
「本当に。あんまり見惚れてたら首痛くなりそう」
見上げていた空から視線を手許に転じて、祐子は宏との間に置いていたクーラーバッグを引き寄せた。
「ビール飲みます?」
と、宏がお?という顔をした。
「ジュースか何かだと思ってたけど、ビールだったんですか」
「氷も入れてるから重かったでしょう?ここまでずっと持たせちゃって、ごめんなさいね」
改めて謝りながら、氷を詰めて二重に密閉したふたつのビニール袋の間に挟んで冷やしておいた缶ビールを二本出して、布巾で水気を拭い
「どうぞ」
一本を宏に差し出した。
「有難うございます……うわ、いい感じに冷えてますね」
「あとこれ、おつまみ。乾き物ばかりですけれど」
別のビニール袋から、上をラップで覆い輪ゴムで止めた紙コップをひとつ出し、ラップを外して宏に渡した。中には柿の種やさきいか、サラミ等が少しずつ入っていた。
「これなら外でもつまみやすいですね。色々少しずつ楽しめるし」
受け取った宏が嬉しそうに笑った。
「祐子さん、こういう工夫とかいつも上手にするから」
真正面から褒められて。
「いえそんな、大した事では……」
はにかみを隠すように俯きながら、祐子は自分の分のつまみが入った紙コップを取り出した。
缶ビールを開けて、ふたりで乾杯して。
辺りを震わせるような轟音と共に頭上で大きく拡がった花火を見上げながら、缶の飲み口に口をつけた。
ごくり、と。
乾いた喉を潤して落ちてゆく炭酸の刺激が、心地良い。
「暑い日にこういう所で飲むビールは格別ですねぇ」
缶を口許から離した宏がふうっ、と息をついて、言った。
祐子はちいさく笑って。
「前に宏さんがそういう事を言ってたから、だったらジュースよりビールがいいかなって思って持ってきたんです」
「私が?前に?って何時だろう?」
「何時だったか忘れましたけど、凄く暑い日にビアガーデンで飲むビールはエアコンが効いた飲み屋で飲むより美味しい、って話してくれて」
「え、ああ!」
思い出したのか、宏も笑う。
「そんな話、そう言えばしましたね。随分前じゃなかったかな」
「二年か三年位前だと思うんですけど」
うろ覚えの記憶を手繰った祐子が
「どこだったかランチを御一緒した時、窓際の席から屋上ビアガーデンが見えてそんな話になったような」
言ったことに、ああそれだ、と宏が頷いた。
「あそこのビアガーデン、若い頃は夏の間よく会社帰りに通ってたんですけど。ななが留守番出来る年頃になるまでなかなか行けなくて」
留守番が出来るようになるまで、どころか。
菜々美が高校を卒業して家を出るまで、会社の忘新年会等の最低限の付き合い以外で宏が飲んで帰宅が遅くなる事はなかった、と。
そういう折に菜々美を預かったり、留守番をしている彼女の様子を宏の帰宅まで気にかけていたりしていた祐子は、知っていた。
元々飲む事が大好きなのに、父の帰りを待つ娘を思い、己を律していたのだと。
「じゃあ、今は行き放題ですか?」
ふふ、と含み笑いを洩らしながら、缶ビールを口許へと運ぶ。
それには応えず
「祐子さん、もしかして結構いける口、ですか?」
逆に問うてきた宏に、いえそんなには、と返して、こく、と飲んで。
「でもこういう暑い日に外で飲むビールって、確かに美味しく感じますね」
笑って、もう一口。
と。
「じゃ、今度はビアガーデン、一緒に行きますか?」
低めの声に、花火の炸裂音が被った。
――今、何て?
一瞬、聞き違えたかと思った祐子だったが
「夕方から飲みに行くって、まずいですかね?」
宏に問われて、間違いではないと判って
「いえ大丈夫です!楽しみ!」
笑顔で返した声が、我知らず弾んだ。
少し酔ったかも、と思った。
宏と出掛けるのは大抵週末の昼間だったが、夕方開演のコンサートを聴きに行った後、遅い夕食を共にして帰宅が遅くなるという事も時折あった。
だが、飲みに行った事は今までいちどもない。
こんな風に宏と飲むのは、これが初めての事だった。
気のせいか、さっきから互いにいつもよりも気軽な感じで喋っているように思える。
缶ビール一本位でこんな調子なら、ふたりで飲みに行くのも楽しそうだ、と。
浮き立つ思いとは別に、どこかで何かが引っかかる。
いいんだろうか――と。
何故、そんな風に思うんだろう。
逆に何か、まずいことがあるのか。
自身の心に問いかけてみたものの。
『特に何もない』
きっぱりと返って来る言葉の最後にぶら下がる
『でも』
そして、その後に来るのは
――いいんだろうか。
堂々巡りの相克を心の中で持て余して。
やっぱり酔ったかな、と思いながら。
もはや残照の名残りすらとどめていない漆黒の夜空に、間を置かずに打ち上げられる大小様々の花火を、祐子はぼんやりと眺めていた。
隣の宏も、ビールを時折口に運びながら、黙って空を見上げている。
丸く大きく花開くものに、アニメキャラクターの顔のデフォルメやハートやネコやタコ等を形取った変わり種、ちいさな花が一斉にポポポン!と開く可愛らしいもの、星を巻き散らしたようにパラパラと音を立てて落ちて来るもの、等々。
次から次へと夜空を彩る光の競演に、見惚れていて。
ふと、思い出した。
もう随分と前。
こんな風に打ち上げ会場まで来て。
夜空に上がる花火を、夫と息子と三人で見上げた。
有智は物心つく前から、花火が大好きだった。
毎年夏になると遠くで上がるあちこちの祭りの花火を飽かず眺めては喜んでいた。
いちばん華やかな河川敷の花火大会に行って近くで花火を観たいとせがまれたものの、打ち上げ会場はひどく混雑するのでまだ幼いうちは……と躊躇して、小学生になったら連れて行ってやろうかと有希と話していた。
一年生の夏は有希の仕事の都合で叶わず、二年生になってやっと念願の花火会場に連れて来てやる事が出来た。
『うわぁすごいすごい!きれい!音でっかい!』
有智がはしゃぎながらずっと空を見上げていて
『あんまり上ばっかり見てると首が元に戻らなくなるぞユーチ』
有希が苦笑いしながら窘めて。
『ねえねえお父さんお母さん!来年もさ来年もここで花火みようよ!』
『お父さんがお仕事お休みだったらね。あと、有智がもうちょっとおとなしく出来るんだったら、かな?』
『えええ!なにそれ!』
『確かにユーチははしゃぎ過ぎだからな!』
親子三人で浴衣を着て。
並んで、笑って。
ずっと忘れていた光景が鮮やかに蘇って、夜空に咲き誇る光の花々に、重なる。
そうだった。
浴衣を着たのは、あの時が最後だった。
翌年の夏は、病院の屋上から観た。
立っているのも辛そうだった有希が、それでも皆で観ようと言うのに、車椅子に乗せて屋上に出た。
有智は父の横で、遠い花火を最後まで黙ったまま観ていた。
あれ以来、有智は花火を観に行きたいとは二度と言わなかった。
闇の幕を針で突いたように、ぱぁん!ぱぁん!と空気を破裂させ震わせて。
赤、青、緑と色も彩な大輪の華が、続々と重なって開く。
今まで以上に間断なく打ち上がるのは、クライマックスが近いということか。
「これ、空の上からも見えるのかな」
不意に、隣から聴こえた呟き。
祐子は思わず視線を空から声の主の方へと向けた。
刹那。
バババババ……と連続する音と共に、細かい花火が無数に打ち上がって。
最後のスターマインか、と
宙を見上げたままの宏の言葉を、夜空一杯に拡がり落ちて行く膨大な光のシャワーと共に辺りに響き渡った爆裂音が、掻き消した。
――見えるんだろうか。
空の上からも。
あの空の、向こう側で。
観ていたんだろうか。
ユーキ――。
名残の光が闇に散り溶け消えて行くまでを、見届けながら。
ふっと。
何故、宏が突然そんなことを言ったのかと、祐子は考えた。
――もしかしたら。
私と同じことを、思っていた?
もう随分と前に、花火よりも高く空に上っていった、最愛のひとのことを――。
「祐子さん?」
呼ばれて、祐子は我に返った。
「早い所撤収しないと、混みますよ」
「え、あ、そうですね」
敷物から腰を上げながらの宏の指摘に、慌てて立ち上がる。
空き缶や空になった紙コップをまとめてクーラーバッグに詰め込み、敷物を手早く畳んで側面のポケットにしまうと、何を言う間もなく宏がバッグをさっと手に取った。
「急ぎましょう」
そのまま歩き出すのに
「済みません、有難うございます」
と言いながら、後について祐子も歩いた。
花火終了と同時に一斉に引き上げ始めた大勢の見物客で、堤防道路から臨時のバス乗り場へ向かう道は酷く混雑していた。
うっかりしていると人混みに流されてはぐれてしまいそうだ、と祐子が思っていると
「はぐれるから気をつけて」
声と共に、左手を宏の右手に軽く掴まれた。
周りから押されて、左腕と宏の右腕が密着する。
そのまま人の流れに流されるように歩いている、ように思えたが。
「方向、違ってませんか?」
何となく来た時とは違う方に進んでいる気がして祐子が問うと
「ここでこれだけ混んでるようだとあっちの臨時のバス乗り場はかなり待たされますから。こっちから裏道に出て普通のバス停から乗った方が早く帰れます。この時間ならまだ本数もあるし」
前方を見据えたまま、宏が言った。
「ちょっと距離ありますけど、歩けますか?」
下駄履きを気遣ってくれたのか、そう訊かれて
「大丈夫です」
と返す。
随分と慣れている、と思って。
「前にも来た事、あるんですか?」
と。
「……家内と、付き合っていた頃に何度か」
ほんの僅かの間を置いて
ぼそりと返って来た、応え。
――やっぱり。
『これ、空の上からも見えるのかな』
ついさっきの、独り言を思い返しながら。
「ななちゃんとは?」
敢えてそれ以上は踏み込まず、別の方向に祐子は話を向けた。
すると、宏がぷぷっとちいさく噴き出すのが判った。
「ななは花火、大っ嫌いなんですよ、昔っから」
「え?そうなんですか?」
幼い頃の有智のはしゃぎっぷりを記憶している祐子には、菜々美が花火を嫌っていたというのが意外な気がした。
そこは男の子と女の子の違いなんだろうかと思っていると、宏がくっくっ……と笑いながら
「ふたつかみっつ位の頃だったかな。おんぶしてどこかの神社のお祭りに連れて行こうとしたら、花火の音がだんだん近くなるのが怖かったらしくて私の背中をどんどん叩いて大泣きして帰る帰る!って暴れて」
仕方なく引き返したのだと、楽し気に語ってくれた。
「ああ、あんまり大きい音だとびっくりして怖がっちゃうかもしれませんね、ちいさい頃って」
祐子が同意を示すと
「有智君は怖がりませんでしたか?」
宏に、そう問われて。
「ユーチは花火が大好きで大好きで。それこそふたつかみっつ位の頃から近くで観てみたいってずっとおねだりされて」
「えっそうなんだ!やっぱり男の子だからかな?」
「こんな風に混むの判ってたから、大きくなったら連れて行ってあげるって約束して。小学校二年の頃に一回だけ連れて来たんですけど、もう大はしゃぎで大変でした」
と。
「……二年、ですか」
そう言って。
それっきり、宏は黙った。
ほんの少し、左手を握る力が、強くなった気がした。
多分。
察したんだろう、このひとは。
きゅっ、と。
大きくて温かい掌を、こちらからも握り返して。
人混みの中。
しっかりと手を繋いで。
祐子は宏と並んで、歩いた。
――私……このひとが、好きだ――。
ほんの一瞬。
頭の天辺で、そのひとことが花火のように弾けて。
そして、消えた。
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