生きていた暗殺者

卯砂樹広之

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(二)

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 春の空が、暮れかけている。
 相原の宿泊先へと歩を進める史乃の頭上で、桜の花弁がはらはらと散り始めていた。
 (急がなくちゃ)
 速足で歩こうとするが、どうしても足が前に出ない。
 (やっぱり、駄目だ……)
 半ば、勢いで大事を引き受けてしまった自分に、史乃は後悔を覚え始めていた。
 元来史乃は、他人を説得することが得手ではない。その不幸な生い立ちから、史乃はひたすら自分を抑え、辛抱することで、苦境を乗り切るのを常としてきた。人を刺すような恐ろしい男を説得するなど、殆ど不可能なことに思えた。
 (私には、荷が重過ぎる)
 史乃の眼前に桜の花弁が通り過ぎるが、史乃の眼には入らない。
 立ち止まった史乃の眼前に、板垣の顔が浮かんだ。
 (あの時の微笑、忘れられない……)
 貧しさの余り、街角の牛鍋屋の残飯に手を伸ばそうとした時、背後から肩を叩いたのが、板垣だった。
 板垣はものを言わず、慈愛に満ちた微笑を浮かべ、首を横に振った。 
 自らの頬にとめどなく涙が伝ったのを、史乃は鮮明に憶えている。
 (そう。板垣さんのため……。あの時の板垣さんの微笑に応えるため頑張るんだ)
 懸命に思い直し、史乃は再び歩き始めた。
 暫くゆくと、史乃の前方に、地味な茶色い看板をかけた宿屋が現れた。
 (あれだ)
 「竹や」というその小さな宿に、相原が今日の宿をとっている筈である。相原がいる部屋を宿の者に尋ねると、怪訝そうな表情をしながらも案内してくれた。
 史乃は、以前錦絵新聞で見た相原の姿を思い浮かべていた。
 逆立ったぼうぼうの髪に、顔じゅうに伸びた髭。三白の眼をかっと見開き、大口を開けて板垣を睨みつける図は、恐ろしい鬼のようだったと記憶している。
 史乃は恐ろしさを取り除けるように首を振ると、部屋の戸を叩く。
 「はい」
 意外と明朗な声が返ってきたのに勇気を得て、史乃は戸を開いた。
 「どうぞ」
 見ると、浴衣を着た痩せた男が、背を向けて正座している。夕食をとりながら、傍らに本を置いて読んでいるようだ。
 「あの」
 史乃が声をかけると、男はゆっくりと振り向いた。
 「相原……相原尚文さんでいらっしゃいますね」
 史乃が顔を上げると、丸眼鏡をかけた優しげな男が微笑んでいた。
 「はい。僕が相原ですが」
 (なんだ。全然違うじゃないの)
 錦絵新聞で見た相原とは、似もつかない。
 (このひとなら、取り付きやすいかも)
 史乃はほっと胸をなでおろしながら、語を継いだ。
 「私、自由党でお世話になっている者ですが……」
 史乃は千藤が用意してくれた包みを差し出した。
 「板垣総理が、これをお届けしろと、申しまして……」
 相原はずり落ちてきた眼鏡を直しながら、包みを開けた。
 「はあ。お酒ですか。これは、どうも」
 「あの……・図々しい話ですけど」
 史乃は、精一杯の笑顔を作って言った。
 「少し、お話しさせて頂いてよろしいですか」
 「ええ。構いませんけど」
 相原は傍らに置いてあった本を閉じながら言った。
 「すみません。読書のお邪魔でしたでしょうか」
 「いえ。僕も少し、人恋しかった所で……。お酒、今開けてもいいですか」
 相原の提案に、史乃は頷いた。
 「盃がないですね。持ってこさせましょうか」
 立ち上がりかける史乃を、相原が制した。
 「これで、いいでしょう」
 相原は空いていたお椀の蓋に酒を注ぐと、史乃に差し出した。自分の酒は、無造作にお椀に注いでいる。
 「相原さん、面白い方ですね」
 史乃が笑った。
 「そうですか」
 相原も楽しそうに笑っている。
 「こう言っちゃあ失礼かも知れないですけど、あなたが人を刺した人なんて、何だか信じられません」
 お椀の蓋に口をつけながら史乃が言うと、相原は俯いた。
 「……」
 「ごめんなさい。思い出したくなかったでしょうか」
 史乃がとりなすように語を継ぐと、相原は首を小さく振った。
 「いえ。いいんです。あれは間違いなく、僕の過去なんですから」
 相原はぐっと、酒をあおった。
 「元々殺す気はなかったんです。板垣さんの心胆を寒からしめれば、十分という積りで……。でもあの時は、無我夢中でした」
 眼鏡を上げながら、相原は続けた。
 「演説会場から出てきた板垣さんを、物陰から襲って……一瞬、暖かい液体が匕口から僕の手に伝わって来たような気がして……気がついたら幾人もの男に取り押さえられ、僕は地面に叩きつけられていた」
 史乃は身を乗り出して言った。
 「で、板垣さんに言われたんですか。『板垣死すとも自由は死せず』って」
 相原は首を捻った。
 「いえ。よく分りませんでした。何しろ無我夢中でしたから。後で僕も錦絵新聞を見て、こんなこと、言われたのかな、と思った位で」
 史乃が笑うと、相原も釣られて笑った。
 「ごめんなさい。でも、現実ってこんなものなのですね」
 史乃は口を押さえながら、
 (いけない)
 と思った。
 相原と話していると、何だか楽しい。自分の隠れた明るさを引き出してくれるようですらある。
 (こんなひと、出会ったことがなかった)
 という思いすら、史乃の中に芽生え始めている。
 が、史乃には千藤から言われた重大な使命がある。相原と話に来たのではない。
 (ここで、頑張らなくては、何のために来たんだか……)
 史乃は酒を呑み干すと、わざと声を低くして言った。
 「それで……」
 瞼を半開きにして、暗い表情を作ってみせる。
 「黒幕が、いたのでしょう」
 「えっ……」
 眼鏡の奥の眼が一瞬、見開かれたのを、史乃は見逃さなかった。
 「黒幕がいたんでしょう。あなたに板垣さんを刺せと命じた……。私、知ってるんですよ」
 千藤に言われた通りの演技である。内心、冷や汗を流しながら、史乃は続けた。
 「もしあの事件の黒幕が明らかになれば、一大醜聞となり……政府と自由党との間は粉々になる……お分かりですね?」
 相原は黙って、眼鏡を押し上げた。
 「あなたが板垣さんを刺した頃とは違って、それは政府も自由党も望まぬこと。つまり、あなたは今、政府と自由党、ひいては日本国の未来を左右しかねない秘密を握っているのです」
 相原はやおら酒をあおり、史乃を睨みつけた。
 「あんた、何者なんだ」
 史乃は不敵な笑みを作った。
 「私は、史乃といいます。自由党本部に潜り込んでいる、政府の密偵」
 勿論、大嘘である。
 「政府の密偵? で、僕に何が言いたい」
 史乃はわざとらしく、微笑んで見せた。
 「私と、組みませんか」
 「組む?」
 「ええ。その黒幕の秘密をばらすぞと、自由党と政府の両方を脅迫するのです。恐らく一生、楽して暮らせるお金が手に入りますよ」
 「そんな、馬鹿なこと……」
 相原は眉間に皺を寄せた。
 「馬鹿なことじゃありません。あなたは所詮、前科者。どうせろくな仕事など、ないのでしょう」
 「それはまあ、そうだが……」
 「明日板垣さんに会う時に、黒幕の存在など絶対に言わないことです。もし言えば、折角大儲けできる機会を、失うことになりますよ」
 「そうか……」
 相原は腕組みをし、考え始めた。
 史乃はその様子を見ながら、些か胸をなでおろした。
 (これで、言うべきことは言った)
 史乃が千藤に命じられた使命とは、これらの大嘘を相原に信じ込ませ、黒幕の名を明らかにさせないことだったのだ。
 相原はひとしきり考え込むと、史乃に向き直った。
 「分った。史乃さん、あんたと組もう。黒幕の存在は言わない」
 (よかった。騙されてくれた)
 史乃が会心の笑みを浮かべると、相原は真顔で言った。
 「で、儲けはあんたと半々でいいな」
 「えっ。ええ……」
 正直な所、史乃はそんなことなど、考えてもみなかった。
 「それ、じゃあ……」
 相原は座したまま、顔を後ろに向けた。
 置いてあった荷物の中身を、がさごそと探り始める。
 やがて、長細い白いものが、相原の手の中に現れた。
 「これが何であるか、判るかな」
 相原は手にしたものを、史乃の眼前に翳しながら言った。
 薄暗い室内である。
 それが蝋燭であることは一目で分かったが、相原が問うているのは蝋燭に刻まれている文字のことらしいと、史乃は察した。
 「じ……自由の神?」
 読みながら史乃は、首を捻りながら相原を見た。
 相原は頷いた。
 「そう。自由の神だ」
 言い終わるや相原は、やはり荷物の中から取り出したマッチで火を灯した。
 火が灯ると、部屋の中にほの明るい光の輪が広がった。
 炎の下では、溶け始めた蝋が小さな窪地を蝋燭の先端に作り始めている。
 史乃の嗅覚を、蝋の溶ける不快な臭いが覆い始めた。
 「僕が収監されていた集治監で行われていた儀式でね。自由民権派の仲間うちで決して相手を裏切らないという誓い合う時は、こうしたものだ」
 相原はじっと灯心を見つめると、手にしていた蝋燭をやおら傾けた。
 煮えたぎった蝋の液が、相原の手の甲に落ちる。
 「きゃっ」
 史乃は思わず、顔を手で覆った。
 「うう……」
 相原の苦しげな呻き声が、室内に広がる。
 顔をしかめたまま、相原は蝋の落ちた手を史乃の前に突き出した。
 熱した蝋が落ちた所は皮膚が焼け、真赤に変色している。
 「これで僕は、証しを立てた。あんたを裏切らない、とね」
 相原は正面から、史乃を見据えた。
 丸い眼鏡の二つのレンズに蝋燭の炎が映り、その奥で相原の瞳が燃えている。
 「今度は、あんたの番だ」
 史乃は後じさった。
 後じさる史乃の眼前に、相原は無言で蝋燭を突きつける。
 (や……やめ……て)
 史乃は心の中で叫ぶが、声にすることができない。
 出来るものなら、こんな儀式をやめさせ、この場を逃れたい。
 (でも……)
 史乃の心の中で、迷いが生じ始めていた。
 (私の使命は、相原さんを説得すること。ここで言う通りにしなかったら)
 (そう、全ておしまいだ。……へたをすればこの日本国の行く末に、大きな影響をもたらすかも知れん……)
 千藤が史乃に告げた言葉が、史乃の中で反響する。
 (でも、いやだ……絶対に……)
 史乃の脳裏にあの事件のことが蘇り、嫌悪すべき不快感が、史乃の喉元に込み上げてきた。
 (いやだ。どうしても……)
 史乃が無意識に振り上げた手が、相原の持つ蝋燭に当たった。
 弾みで、煮えたぎった蝋の滴が史乃の首筋を襲った。
 「うっ」
 史乃は首筋を懸命に押さえながら、前のめりに倒れた。
 胃の中にあったものを、一気に吐き出す。
 次第に意識が、遠のいてゆく。
 「だ、大丈夫かい」
 相原の慌てた声を遠い木霊のように聞きながら、史乃はあの事件の記憶の中に彷徨っていた。
 井上馨の屋敷で、十五の歳を迎えた正月のある夜。
 その日は、特別な客人があった。
 英国公使が、井上の屋敷を訪れていたのである。
 特別な客に緊張した史乃は、あろうことか公使の前で躓き、手にしていたワインで公使の着衣をずぶ濡れにしてしまった。
 公使は笑って許してくれたが、井上が烈火のごとく怒ったのは言うまでもない。
 さらに厳しかったのは、先輩女中である。
 公使が引き取ったあと、あんたのせいでとてつもない恥をかかされたと怒り狂い、叫んだその女は、煮えたぎった湯を史乃の腕に浴びせかけた。
 それでも収まらず、さらに頭から煮え湯を被せようとする女から逃れようとする史乃の首筋に、熱湯の滴が落ちた。
 今、史乃の首筋に落ちた熱した蝋の一滴は、十五の歳で感じた、
 (殺されるかもしれない……死ぬかもしれない)
 という恐怖体験を思い起こさせるには、十分であった。
 史乃が背後から近づくものにえもいわれぬ恐怖感を抱くようになったのは、この時からである。
 
 史乃が目を覚ますと、辺りはすっかり暗くなっていた。
 (私、どうしたんだろう)
 周囲を見回す。
 (相原さんを説得に来て……そのうち、目の前が真っ暗になって……)
 史乃がいるのは相原がいた部屋である。
 が、相原の姿は見えない。
 (ちゃんと、毛布までかけてくれて)
 相原は史乃を寝かせ、他所へ移ってしまったのであろう。
 (あれは?)
 卓の上に、白い紙が一枚、置かれている。
 (廊下の方が、明かりがあるわ)
 手に取って廊下へ出た史乃の目に、驚愕すべき文字が飛びこんで来た。
 「僕を説得に来て倒れてしまうなんて、あんたの覚悟は、所詮その程度だ。もうあんたとは組まない。黒幕は、岩倉具視公だ。岩倉公の指示で、僕は板垣さんを刺した。明日、板垣さんの前で告白する。政府と馴れ合う政党なんぞ、潰れてしまえばいい。否、僕が潰してやる」
 (そんな……)
 手にしていた紙を取り落とし、史乃は膝をついた。
 (相原が板垣さんの前で、黒幕の名を言ってみろ。全てはおじゃんだ)
 千藤が史乃に告げた言葉が、史乃の心の中で駆け巡る。
 (どうしよう……私)
 襟元を握り締めたまま、史乃は呆然と座り込んでいた。
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