生きていた暗殺者

卯砂樹広之

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(一)

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 (何かが来る……)
 背後に得体の知れない気配を感じて、史乃(しの)は振り返った。
 あの忌まわしい事件があってから、史乃は背中に何かを感じると、異様な恐怖を覚えるようになっている。が、そこには龍虎を描いた屏風が立っているだけだ。
 (気のせいだわ。後ろから誰も、来る筈ないのに)
 史乃は溜息をついた。正面に向き直ってコップの水に口をつけた史乃の背後で、また気配があった。
 (えっ……)
 再度振り向いた史乃の耳に、何かが飛び込んできた。
 (足音が聞こえる……遠くから)
 やがて足音はだんだんと近くなり、階段を登ってくるようだ。そしてそれは、廊下をけたたましく駆ける音に変わった。襖がやおら開き、一人の若者が現れる。
 「何事だ」
上座から、野太い声が叫んだ。千藤彰次郎である。
 千藤は、自由民権派の政党、自由党の総理・板垣退助の側近中の側近だ。時として板垣と同等の権威を振るう彼を、党員達は「影の総理」と呼んでいた。
 「大変です」
 自由党本部の一室で卓を囲んでいたのは、史乃、千藤のほか、中島という若い党員の三人である。
 六つの瞳が、一斉に闖入者に注がれた。
 若い男は、青ざめた頬の下で、唇を震わせている。
 「北村君。何が大変だって」
 息を上げる男に、中島が声をかけた。
 「明日」
 北村と呼ばれた男は、声を絞り出す。
 「あいつがここに来る。あの相原が」
 「相原?」
 中島は赤い顔を蒼白に変えて、 立ち上がった。
 「相原って……。 十年前、板垣総理を刺した、あの相原尚文(なおふみ)のことか」
 「そうだ。その相原だよ。正確には十三年前だが」
 なおも息が上がっている北村に、史乃が水を差し出す。
 北村は史乃からグラスを奪い取ると、一息に飲み干した。
 「本物なのか」
 「ああ。昨日ひょっこり、党幹部の河野広中さんの所に現れたらしい」
 「まさか。だってあいつ、死んだって言われてたのに」
 口元に垂れた雫を袖で拭いながら、北村が応じる。
 「確かにな。あいつ、板垣さんを襲った直後に捕えられて……。その後、帝国憲法発布の恩赦で出獄し……板垣さんに謝罪に来たよな。あれから、六年になるか」
 「そうだ。それから間もなく、北海道の開拓事業をするんだと言って船に乗って……その船上で消えちまった」
 「ああ。誤って海に落ちたとか、自殺したとか色々言われたが、結局分らなかった」
 「しかし」
 中島は首を捻った。
 「しかし、一体何で今頃、相原がここへ来るんだ」
 北村は腕組みした。
 「分らない。何をしに来るのか……。総理に何か言いたいのか」
 (死んだ筈の人が来る?)
 二人の会話を呆然と聞きながら、史乃は思った。
 (ありえない)
 史乃は首を捻った。
 (幽霊? それにしちゃあ、現れ方が現実的だし……)
 「危険だな!」
 立ち尽くす三人の背後から、千藤が割って入った。
 「危険だな。あいつ、板垣さんをまた刺そうっていう積りかも知れねえぞ」
 この一言に、中島、北村の両名は、目が覚めたように色めき立った。
 「大変だ。のんびりしている場合じゃないぞ」
 「何かコトになるとまずい」
 「腕っ節の強い党員を、集めておいた方がいいな」
 「警察にも、連絡しておくか」
 「待て」
 口々に叫ぶ二人を、千藤が右手で制した。
 「警察は、いかん」
 千藤は咳払いをした。
 「警察に頼ってはいかん。ここは公権力とは一線を画する政党本部なるぞ。警察だけは呼ぶな」
 「は……はい」
 二人の若者は、箸を投げ出し、室外に駆け去った。
 後に残ったのは、史乃と千藤だけである。
 千藤は眉をしかめた。
 「全く、騒ぎおって。騒いだからといって、いいことは何もありゃせん。これだから若い者達は困るんだ」
 苦虫を噛み潰すような口調である。
 「でも、死んだ人が尋ねてくるなんて。そりゃあ誰だって、吃驚しますよ」
 史乃は顎に手をやった。
 「相原さんは、確かに死んだんですか? 何か、証拠でも?」
 「証拠か。証拠はないがね」
 千藤は、口元を僅かに歪ませた。
 「相原は確かに太平洋上の船の中で消えた。誰も消えた現場は見ていないが……。ただ、相原の墓は奴の故郷に建っている。私が遺族に墓代を援助してやった」
 「えっ。千藤さんが相原さんのお墓代を? 相原さんは板垣さんを刺した、悪い人なのに?」
 千藤は頷いた。
 「まあ、な。あいつは確かに板垣さんを刺した悪漢だが、出獄後にわざわざ謝罪に来たのは天晴れな志だ。そこを買ってやったのさ」
 史乃は首を傾げた。
 「でも、何故今、死んだ筈の相原さんが再び訪ねて来るんでしょう。本当に、危険なんですか」
 千藤は盃に残っていた酒を飲み干すと、盃を差し出した。
 「そう、確かに危険だ。 若い連中に言ったのとは、意味が違うがね」
 「違う意味で、ですか」
 史乃が酒を注いでやると、千藤は盃を史乃に差し出した。
 「まあ、あんたも呑め」
 千藤の盃では抵抗があるが、史乃は否とは言えない。史乃は一介の女中に過ぎないが、相手は自由党の権力者なのだ。こうした強要を巧みにかわす術を、史乃は持っていない。
 「あんた、十三年前の事件のことは知っているかね」
 仕方なく盃に口をつけ、史乃が答える。
 「ええ。私が、ここに来る少し前でした。明治十五年の四月、岐阜に遊説にいらした板垣総理が、相原さんに襲われて軽傷を負った。さっき、若い人達が言っていた通りですよね」
 「そう。当時」
 千藤は咳払いをした。
 「当時、我が党は結党して半年程たったばかり。我が党が立ち行けるかどうか、まだ定かではなかった」
 かつての記憶を辿るように、千藤は巨体に似合わぬ小ぶりな眼を、更に細くした。
 「が、あの事件を境に我が党は変わった。民衆から絶大な支持を得るようになった」
 「それは……あれですね。板垣総理の名文句」
 史乃は膝を叩いた。
 「『板垣死すとも自由は死せず』ですね」
 史乃が言うと、千藤は大きく頷いた。
 「そう。『板垣死すとも自由は死せず』だ。板垣さんが相原に刺された時言い放ったその名文句が世に知れ渡り、同情も手伝って板垣さんは国民的英雄になった。そして板垣さんが総理を務める我が党も、国民的支持を得るようになった」
 史乃は首を捻った。 
 「でも、なぜ今、相原さんが恐ろしいんです? 変な話ですけど、結果的には相原さんのお陰で自由党は躍進できた訳でしょう。相原さんを恐れる理由など、ないのでは」
 「違う。それは違うな」
 千藤は首を振った。
 「奴がやって来る目的は……」
 次第に千藤の語調が、鋭くなってゆく。
 史乃は生唾を呑み込んだ。
 「目的、は?」
 「脅しだよ」
 「……」
 絶句する史乃をよそに、千藤は続けた。
 「相原が板垣さんを襲ったのは、単独犯じゃない。恐らく、黒幕がいたんだ」
 「黒幕が?」
 史乃は顎に手を当てた。
 「私ここへ来てから、錦絵新聞の記事を読みましたけど。事件当時、黒幕がいなかったのか周到な捜査が行われた結果、結局単独犯ってことになったのでは?」
 千藤は顔の前で、手を振った。
 「警察の捜査など、どうにでもできる。圧力次第でな」
 「圧力次第?」
 「そう。恐らく政府の高官の中に、黒幕がいる」
 千藤は深く息をついた。
 「十三年前、明治十五年の時点では、薩長藩閥政府にとって板垣さんと自由党は、取り除くべき危険分子だった。ことごとく政府の方針に反対する自由党の領袖を消してしまいたいと政府首脳が思ったとしても、それは自然の成行きだっただろう」
 言いながら千藤は、黒目を光らせた。
 「が」
 千藤は拳を握った。
 「今は状況が変わった。政府にとって我が党は、最早無視できない存在だ。否、必要といってもいい。取り除くのが不可能な今、政府に取込む方が遥かに得策だ」
 千藤は懐から葉巻を取り出し、火を点けた。
 「我が党としても、板垣さんを政府に送り込むのが得策だ。悪戯な対立は労力の無駄遣いだからな」
 「確かに……」
 史乃は思った。
 (よくは、知らないけれど)
 明治十四年の結党以来、自由党は薩長藩閥政府と鋭く対立して来た。政府による厳しい弾圧と自由党急進派の過激化の余り、自由党が解散に追い込まれたこともある。それが現在、両者で合同の政府を作ろうとしているのだ。
 (余程の駆引きと、妥協があったんだわ)
 史乃の思考を遮るかのように、千藤は紫煙を吐き出した。
 「が、ここでもしも、政府高官に黒幕がいたことが発覚したらどうなる」
 「あ」
 史乃は眼を見開いた。
 「朝野を揺るがす一大醜聞となって、政府と自由党の関係は粉々になるでしょうね」
 千藤は深く頷いた。
 「そう、全ておしまいだ。これから築ける筈だったお互いの関係が、全部崩れ去る。へたをすればこの日本国の行く末に、大きな影響をもたらすかも知れん」
 千藤は無造作に、料理皿に灰を落とす。 
 「相原が板垣さんの前で、黒幕の名を言ってみろ。全てはおじゃんだ」
 「全て……」
 史乃は俯いた。
 「でも、私なんかに何故そんな大事なことをおっしゃるのです?」
 千藤はふっと笑い、視線を落とした。
 葉巻を皿に押し付け、声を鎮める。
 「あんた、以前井上馨公の所で働いていたんだってな」
 「えっ……」
 「あんたがここへ来た経緯は、大体知ってるよ。あんたここへ来る前に、色々あったんだよな」
 史乃は覚えず、血の気が引くのを感じた。軽い酔いが薄ら寒い戦慄へ変わってゆく。
 「それは随分昔の……まだ子供の頃の話です。今の私とは、関係ありません」
 千藤の細い眼の奥に、陰鬱な光が宿って来ていた。
 「関係ない? そいつは、どうかな」
 千藤にねめつけられる恐怖と相俟って、史乃の脳裏に忌まわしい記憶がまざまざと蘇った。
 (あの頃は本当に、辛かった……)
 史乃は、旗本の一人娘である。
 父は彰義隊の戦に身を投じ、戦死を遂げた。史乃が二歳の時のことだ。女手一つで幼い史乃を育ててくれた母も、史乃が八歳を迎えた年に他界してしまった。
 財産も身寄りもなく、人買いに買われて方々を転々とし、最後に行き着いたのが、井上馨の屋敷であった。
 (あの頃は、泣いてばかりいたわ)
 井上屋敷では寝る間も殆どなく、牛馬の如く働かされた。広い屋敷内と広壮な庭を掃除するだけでも大変なのに、炊事、洗濯、お風呂の世話など仕事は山をなしていた。
 少しでも落ち度があれば先輩の女中に叱られ、顔が腫れ上がる程、殴られた。
 無論、報酬は貰えなかった。押入れのような窓のない部屋を住まいとして与えられ、犬猫の餌かと見まごう粗末な食事で、飢えを凌いだ。
 やりきれなくなると夜独り密かに裏庭に出、父母のことを想い、忍び泣いた。
 (そして私が十五の時、あの事件が……)
 「どうした。顔色が悪いぞ」
 千藤の一言で、史乃は我に返った。
 「いえ。何でも……」
 史乃は嫌な思いを振り切るように首を左右に振るが、嫌悪すべき記憶はまだ頭の周りにまとわりついている。
 「あんた、板垣さんに恩義を感じてるんだろう」
 「それは、勿論……」
 千藤に言われるまでもない。史乃にとっては、当り前のことである。
 否、史乃が今生きているのは、板垣への恩返しのためと言って良かった。
 あの事件があって間もなく、井上屋敷を飛び出した史乃だったが、頼るべき身内もなく、生計を立てるための職もなかった。
 僅かに手元に残っていた父母の形見も全て質入れしてお金に換えたが、その金さえも瞬くうちに使い果たした。
 旗本の娘という誇りも捨てて、街角の牛鍋屋の裏手に捨てられた残飯を漁ろうとしていた時、声を掛けられた。
 板垣退助であった。
 板垣は自由党本部に史乃を連れてゆき、暖かな食事と心地よい寝床を与えてくれた。
 衰弱していた史乃が体力を回復すると、女中として働くよう薦めてくれた。
 働けば働いた分だけ、報酬をくれた。十五の歳までは考えもつかなかった人並みの生活が出来るようになった。
 今ではある程度の貯えができ、
 (せめて父母のお墓を建ててあげたい)
 という史乃の年来の夢が、夢ではなくなっている。
 史乃が何より嬉しかったのは、読み書きを習わせてくれたことであった。
 旗本の家に生まれながらそれに相応しい教養がないことは、史乃にとって何よりも辛いことだったのである。字を覚え、錦絵新聞や書物を読めるようになったことは、史乃に誇りを取り戻させてくれた。
 (板垣さんにご恩返しをしなければ)
 という思いが、史乃の心を支配するようになるまでに、大した時間は必要なかったのである。
 様々な思考の中に浮遊している史乃の心を、千藤の咳払いが遮った。
 「あんた、板垣さんに恩返しがしたいんだろう」
 史乃は頷いた。
 「ええ。勿論」
 「それなら今こそ、絶好の機会だぞ。さっきも言ったとおり、もし相原が黒幕の名を口にすれば、朝野大混乱となり、全てはおじゃんだ。そうなれば板垣さんの政府入りも幻と消える。その事態をあんたが救えるなら、これ以上の恩返しはないぜ」
 「でも……」
 史乃はか細い声で、呟くように言った。
 「私には政治のことは分りませんし……。私なんかにできることがあるのでしょうか」
 千藤は史乃の眼を覗き込むように見、史乃の肩を叩いた。
 「あんたなら、大丈夫」
 「私なら?」
 尚も尻込みする史乃の前で、千藤は声を励ました。
 「あんたなら大丈夫。私の見る所、あんたは頭がいい。そこらの若い者達より余程な」
 「そんな……」
 史乃は生まれてこのかた、このような誉められ方をしたことがない。
 くすぐったいような気持ちと、千藤の言葉を真に受けられない気持ちが、交錯した。
 (でも、私に本当に出来るなら……)
 尚も、迷いはある。が、
 (板垣さんに恩返しができるなら)
 という気持ちが、迷いに打ち勝った。
 史乃は襟元を握り締め、静かに言った。
 「私に、どうしろと言うのです」
 「物分りがいいな」
 千藤は唇の端に、笑みを浮かべた。
 「なあに、たやすいことだ。ほんの少しばかり、力を貸してくれればいい」
 「私に、力を?」
 「そう。黒幕の名を明かさぬよう、相原を説得して欲しいのだ」
 千藤は血走った細い眼を、更に細めた。
 「全ては党のためだ。全てな……」
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