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しおりを挟む串間と劇団員たちは稽古場に集まっていた。串間とは二列で向き合って座っており、前列に、向かって左から田中、赤木、浦辺が。後列に、左から竹下、佐々木が。串間と田中はあぐらをかいており、他の劇団員たちは、膝を抱えて座っている。視線は皆、串間を捉えている。竹下を除いて。串間は一人ひとりの視線を確認するように五回うなずいた。
「『Death rule』降りたい者はいるか。いるんだったら挙手してくれ。どうだ」
「串間さん、どういう意味ですか。何を言いたいのか、何を求めているのかわかりません。もっと具体的に言ってください」
田中は猜疑の目を向けた。
「何を言いたいのか? 額面通りだよ。降りたい者はいるかだ」
劇団員たちは串間をにらむ。何か言いたげな表情を浮かべているが、口を開こうとする者はいない。
「赤木」
指名された本人は目を見開いた。なんで私? 口を開きかけたところで、横に並んでいる田中と浦辺を交互に見た後、視線を串間に戻した。困惑の色を浮かべて。
沈黙が訪れる。
串間は一人ひとりの表情をゆっくり確認する。それぞれの表情を読み取ると
「星成塾に入ってきた動機、理由を改めて聞かせてくれ。そして今の心境、今後の展望も聞きたい。別にここにずっと残ってくれとは思っていない。いろいろあるだろ。思いを聞かせてほしい」
串間が腕を組むと、一人ひとりの視線がフロアに落ちる。
「誰でもいいぞ、最初に話したい者、挙手してくれ」
一人ひとりの視線は落ちたままだ。
「はい」
一斉に視線が向けられた。遅れて手が挙がる。視線を跳ね返すごとく、まっすぐに力強く伸びる。竹下である。
「よし。聞かせてもらおう」
膝を抱えていた竹下は串間を一瞥すると、串間の後方にある出入り口のドアに焦点を合わせた。
「俺がここに来た理由、塾長との面接で言ったとおり、諸行無常を表現する、伝えるということ。今も、これからも変わらない。嬉しいこと、楽しいことがあってもそれは長く続かない、一瞬で反転することもある。悲しみや、寂しさだってそう、感情の起伏の波はあるが、同じ状態を維持することはない。人は感情のすべてをさらけ出すことはない。抑制が効いているからだ。抑制は自分のためか、他人のためか、あるいは両方か。それは苦しみを生み、積み重なると絶望へとつながる。それが人、人間であるというならば、しょうがないのか、受け入れて生きなければならないのか。そうなんだ、弱いだけの人間でなくてはならないのか。それは違うと思う。命を授けられ、体を与えられ、意思を与えられ、欲を与えられているのに、不自由に生きていかなければならない? 俺は人の中に日々眠っている、自分でも気づかない意思や感情をあぶりだしていくためにこの道を選び、星成塾を選んだ」
竹下は反応を見るかのように、隣の佐々木に視線を移した。佐々木は下を向いたままだ。反応していないと見るや、竹下は苦虫を噛み潰し
「感情表現を鍛え、セリフを覚え、全身で演じる? 芝居とはそういうものか。観る者をどのように感動させるか。そんな考え方でいいのか。俺はそうじゃないと考えている。それだけなら、先輩やベテランを真似るだけのことだ。演じ方をコピーすればいいだけのことじゃないのか。俺はコピーしたものを伝えるためにここに来たわけじゃない。コピーしたもので感動を与えたいわけじゃないんだ」
竹下は返答を求めるかのように、串間に鋭く視線を走らせた。が、串間はその気はないようだ。腕を組み直し、顎を上げた。
「ただ」
竹下は急にトーンダウンした。視線は下がり、両手のひらで顔を覆った。十秒間ほど固まった後、ゆっくり顔を上げ、周りを見回した。串間のところで視線を止め
「さくらことはとても残念だ。きっと消えないだろう。なぜ、ああいうことにならなければならなかったのか、考えられないし理解できない。混乱している。不本意な形で強制的に命を止められることがあっていいのか。いいはずはない。新聞やテレビといったマスコミが、日々いろんな事故や事件を報道しているけど、いざ身近に起こってしまうととても受け入れられない。時間を巻き戻してくれと毎日切実に思っていた。特に親しくしていたわけでもないが、精神的に日常生活に支障をきたしているのも事実だ」
串間からいったん視線を外し、下からすくって見上げるように視線を戻し
「さくら亡き後、みんながどう思っているのか、どう考えているのか。俺にはわからなかったし、今もわからない。本音で語り合えばいいだろうと思うかもしれないけど、俺は危険だと思う。なぜかって? それは言えない、というよりも言わないほうがいい」
串間の目に力がこもる。それを確認し
「串間さんがみんなをここに集め、このような時間を設けた理由については理解しているつもりです。みんなの本音というよりも、考え方を聞きたいでしょうからね」
「本音じゃなく、考え方? どういう意味だ」
浦辺が振り返り、竹下をいぶかしげに見た。竹下はそれに反応せず
「『Death rule』の稽古を続けるのか、やめるのか、それを決めるのは大切なことだと思う。このまま中途半端で自然消滅なんてことになったら残念だし、後悔すると思いう。串間さん、俺、『Death rule』やるよ」
竹下は串間を見据えた。視線が交錯する。
「串間さん」
浦辺が手を挙げた。ゆっくり立ち上がり、腕を後ろで組んだ。
「串間さんが何を求めているのかわからない。でも、ここで今までやってきたことを話すよ。自分で整理したいこともあるし、その確認のために」
浦辺は目を閉じ、深呼吸するように、息を吸いフッと吐いた。ゆっくり目を開け、串間を見据えた。
「僕が役者をめざしたのは大学を卒業して一般の会社に就職してからだ。携帯電話の販売を主な業務とする企業で、そこで接客や販売をやっていた。社会人としてスタートしたときは、与えられたことをこなすだけで精一杯だった。企業人になるとはどういうことなのかなという漠然とした思いを抱きながら突っ走っていた。先輩や上司の顔色を見ながら怒られないように日々の業務をこなしていたんだ。入社して二年目になると多少の余裕が出てきた。要領がわかってきたからということもあるかもしれないけど、要領というのは社内調整のことなんだ。周りを見ていてつくづく思ったね。先輩も上司もみんなそうだった。上の者に対するへつらい方が上手いんだ。お客よりも上席に気を遣わなくてはだめなんだ。上の者からの評価と下の者からの評価による人事の評価制度があるけど、上の者からの評価が優先されることがわかってしまった。能力やスキルも評価されるけど、それよりもへつらいの感度を上げないと、人事でのいい評価をもらえない。この流れを知ってから、企業人として生きていくという気持ちはトーンダウンしたね。他の会社に行った友人に聞いたけど、どこも同じような感じだったよ。こんなんじゃ定年までもたない。転職しても同じような環境だったら、とてもじゃないけど耐えられない。そんなことを考えていたら、精神的ダメージが重なって鬱になってしまった」
浦辺は目を閉じ、ゆっくり息を浅く吸い、ゆっくり吐いた。ゆっくり目を開け、串間を見据えた。
「串間さん、星成塾での面接で語った動機、覚えていますか」
串間は反応しない。口を開けるそぶりもない。
「僕は嘘を言ってしまいました。役者は高校時代からの夢であると言ったと思います。大学に入り、社会人になっても、役者になりたいという想いがくすぶっていたと言いました。そうしたら、串間さんが『想いが弱かったんじゃないか』とおっしゃいました。そうですよね。想いが強かったら、その時点で行動していますね。そう言われたとき、しどろもどろになったことを覚えています。どのように返したのか、よく覚えていませんし、もうだめだ、もう誤魔化せないと観念しました。顔を真っ赤にしながら下を向いていたことも覚えています。沈黙が続いた後、串間さんはそれ以上追及することもなく、質問を変えましたよね。覚えています。確か、どういう役者になりたいかってことでした。僕は答えました。自分に嘘をつきたくない役者になりたいと言いました。咄嗟に出ました。串間さんはあきれたと思います。僕は下を向いたままで、串間さんの顔をまともに見れませんでした。その後、当たり障りにない会話をして、面接が終わりました」
浦辺はゆっくり息を浅く吸い、ゆっくり吐いた。
「今、僕はここにいます。役者になりたい自分がいます。その想いが特に強くなったのは、事件がきっかけです」
みんなの視線が一斉に浦辺に注がれた。浦辺は天井を見上げた後
「藤堂さんが亡くなってからです。いい存在でした。同僚であり、友だちであり、ライバルでもある。出会ってから大きな影響を与えられました。気持ちの強さと気持ちの弱さを併せ持っていて、それを表現することの上手さには感心しました。テクニック的な上手さもそうですが、内面から溢れ出すように、ときには絞り出すように、自在に表現するその様は何かを真似て出てくるものではない凄さがありました。僕は刺激を受けましたし、どうしたらそのようになれるのか、いろいろと話を聞きました。それでもなかなか上手くいかないで、苛立っているときに、藤堂さんに言われました。『浦辺君、演じようとする気持ちが強すぎるんじゃないの? 例えば、セリフを暗記して、一言一句を正確に伝えようとする気持ちが強すぎるんじゃないかと思うときがある。一生懸命さは感じるんだけど、なぜか相手に伝わらない。滑舌の問題じゃない。なんていうのかな、相手に響かないっていうのかな。情報を正確に伝えるアナウンサー的な表現になっている感じがする。それを修正するための一つの方法として、自分の中に眠っている喜怒哀楽を引っ張り出してみたらどうかしら。いろいろな方法があると思うけど、私はそのやり方で活かしてきたの』……」
僕は後頭部をガツンと殴られたような衝撃を受けました。演じることの認識が根底から覆されました。そう言われたのは、亡くなる一週間ほど前でした。そのときの情景が今も頭の中にこびりついています」
浦辺はゆっくり息を浅く吸い、ゆっくり吐き、串間を見据えた。
「串間さん、僕はここで役者を続けます」
二人の視線が交錯した。浦辺はゆっくり腰を下ろし、右隣の赤木を見た。視線に気づいた赤木は、一瞬顏に戸惑いの色を浮かべたが、意を決するように顔を上げ、挙手した。
「串間さん」
赤木は立ち上がった。しばらく串間を見下ろした後、左右の手のひらを胸の前で合わせ軽く握った。直訴するように軽く前かがみになる。
「串間さんは私に言いたいことがたくさんあると思います。私にも言いたいことがたくさんあります。さくらがいなくなって、今まで抑えていたことが抑えきれなくなっています」
みんなの視線が赤木に鋭く注がれた。赤木もそれを感じ取ったのだろう。体が小刻みに震え出した。それを必死に抑えながら
「私も嘘をついていました。ここに来た動機です。演劇が好きで、人前で表現するのが好きで、それを自分なりに極めたい。そんなことを言ったと思いますが、演劇があまり好きではありません。人前で表現するのもあまり好きではありません。じゃあなんで劇団に入ったの? って、みんなそう思うよね」
赤木は握った手のひらに力を込めた。
「自分自身を逃げたかったの。どこまでも逃げたかった。逃げ切るところまで逃げて、まったくの別人になりたかった。赤木沙紀を脱ぎ捨てて、別の肉体に変わりたかった。だから私は逃げるための術を身に付けたかった。なぜかってみんな思うよね。私には過去があるの。まあ、過去がない人はいない。当たり前だよね。でも、許されない過去なの。この際だから、言っちゃうね」
赤木の体が大きく震え出した。口を開こうにも、くちびるが痙攣しているかの如く振動しその意思を封じている。赤木の目はおびえの光を放ち、串間と劇団員間のフロアに刺さっている。見守る目。続きを促すような目。緊張で見開く目。それぞれの表情が赤木を囲む。しばらくして震えが収まった。
「私、人を殺しているのよ」
みんなの目が見開かれた。飛び出す寸前の眼球に蛍光灯の光が集まり、赤木が照らされる。
「なにぃ! どういうことだ」
赤木の左隣に座る浦辺が思わず問うた。赤木はそれには反応せずフロアを見続け
「大学生だった頃、早いけど卒業記念に友だちと群馬県と新潟県の県境にある谷川岳に夏登山に行ったの。初心者も登れるおすすめ登山コースの一つだった。往復六.七km、コースタイムは約四時間二十分ということで日帰り登山。でも、日帰りではもったいないから、旅館で一泊し、翌日は観光という計画だった。JR上越線で水上駅まで行き、そこからバスで谷川岳ロープウェイの土合口駅へ。ロープウェイで約十分、標高千三百メートルを超える天神平駅で降りた。土合口駅周辺は暑かったけど、天神平駅は空気がひんやりとしていたので、気持ちが高ぶってきたのを覚えている。登山には慣れていなので、休憩を挟みながら、いくつかのポイントを通過し、頂上のオキノ耳まで登って、いざ下山」
赤木は気持ちを落ち着かせるように両手のひらを胸に当て、大きく息を吸い込み、ゆっくり吐いた。
「谷川岳は森林限界が低く、手軽に高山植物が楽しめるそうで、事前に調べてエーデルワイス、ユキワリソウ、シラネアオイなどの花々を観察しながらの登山を楽しみにしていた。実際に登ってみると、折り重なる山々の稜線の美しさ、雄大さに魅了された。切り立った岩壁も圧巻だった。私たちはおしゃべりしながら登り切り、しばらく頂上からの景色を堪能してから下山したの。登るときは気づかなかったけど、下山するときに高山植物が視界に入ってきた。目線の違いで入ってくる景色が変わったのね。友だちが『わあぁ、綺麗、行ってみよう』と小走りになり私も続いた。でも高山植物が咲いている場所は岩壁ではなかったけど、斜面だったので、手に取るような地点までは近づけなかった。それで友だちが近づけるところまでゆっくり近づき、スマホで撮影しようと手を伸ばしたとき……私は、『よかったね』と声をかけて、それで肩をポンとたたいた。軽くたたいたつもりだったのに……」
赤木は両手で顔を覆い、嗚咽しながらうずくまり、肩を大きく震わせた。みんなの視線が宙をさまよう。串間は硬い表情で赤木を見据える。嗚咽が時を刻み、数分が経った。赤木がうずくまっていた体を起こし、ゆっくり顔を上げた。
「軽くたたいたつもりだった。友だちは前のめりで体の重心が斜面の先にあったのだと思う。肩をポンとたたいたら、『あっ!』と叫んで、消えてしまった。ほんとうは転がっていったのだと思うけど、一瞬で消えてしまったように見えた、感じた」
浦辺が赤木をちらっと見て、話が途切れたのを確認し、ぼそっと口を開いた。
「ほんとうなのか。よくわからないな。ほんとうだとしたら、なぜ罪に問われなかったのか。作り話じゃないのか」
赤木は浦辺を見た。その目は憂いを帯びていた。
「赤木、演技だろ。そうなんだろ。女優としての意地がそうさせてるんだろ」
浦辺も視線を外さない。赤木はゆっくりかぶりを振った。
「そうじゃない。嘘じゃない」
赤木は視線を宙に這わせながら
「友だちが目の前から消えた瞬間、頭が真っ白になり、体が固まってしまった。声を出すことも体を動かすこともできなかった。どのくらいの時間が経ったのかもわからない。目の前の何を見ているのかもわからない。呼吸が苦しくなり始めたとき、『どうしたんですか。具合が悪いのですか』と声をかけられたとき、はっと我に返った。声のほうに顔を向けたら、五十代くらいの女性と、やはり五十代くらいの男性が立っていた。問いかけにどう反応していいのか戸惑い二人から視線を外し、手を合わせながら山の下のほうに視線を移した。その動きが奇異に映ったのか、二人は私の視線を先の追うように、足を踏み出した。そのときだった。『あっ、落ちてるじゃないか』と叫んで、男性がさらに前に出た後『連絡しないといけない』と言って走り出した。女性は私の肩を抱きながら、『どうしたの』とかいう意味の言葉を何度もかけていた。私は怖くて答えられなかった。私はやってしまった。それだけが頭の中で反すうしていた。しばらく経って、救助する人たちが来ても、私の頭の中は混乱するだけで、救助活動を漠然と見るしかなかった。そして、友だちが救助されたとき、救助隊の一人が私に近づいてきた。視線を私にロックしながら迫ってくる。表情は硬く、口を真一文字に結んでいて、離れていても瞬時に気圧された。そして、その人を目の前にしたとき、正直に言うしかないと口を開こうとしたら『高山植物を撮ろうとしていたのかな。スマートフォンが撮影モードになっていた。花に気を取られて、踏み外したか、滑ってしまったんでしょう。痕跡がありましたから』と。さらに『以前にもそういう事故がありました』と言ったんです。なに? 事故? 事故なの? それを聞いて、私はとても動揺してしまいました。何を言っていいのかもわからなくなり、そのときの状況も理解できませんでした。というより、そのように理解すればいいのかを必死で考えました。今から考えれば身勝手です。そのときの状況を正直に話せばいいだけなのに、しなかった。黙ってしまった。でも、どうしよう、どうしようと頭の中ではぐるぐると回っていた。何が一番いいのか、どうすれば一番なのか、回っていた。今考えればすごい馬鹿なことだよね。正直に話すことが一番だもんね。でも」
赤木は大きく呼吸をして
「私は話さなかった。周りの誤った解釈を利用して、自分勝手のストーリーを描いてしまった。たまたま目撃者もいなかった。警察にもそのときの状況を深く聴取されることもなく、事故扱いで処理された。私が肩をたたかなかったら、落ちることはなかったと思う。いいえ、落ちることはなかったはず。私の人生はあの時点から大きく変わった。嘘をついたことによって大きく変わった。友だちの死を踏み台にして、自由に生きてきた。そして、今も生きている。みんな、思うよね。よくそんなことをして平気で生きていられるよなって。思うよね。だから、話さなかったのよ。そう思われるのが嫌だし、怖かったから。でも」
赤木は大きく呼吸をして
「もう終わりにする。自分をさらけ出すことによって終わりにしたいの。だって、さくらがいなくなったから。ああいう形でいなくなるなんて残酷過ぎる。そう、その残酷過ぎるやり方で、私は友だちの生きる時間を止めてしまった。同じことなのよ。私がやったことと、さくらの件と。人の手によって、人の命を終了させてしまったこと。自然の摂理に従うことなく、身近で二人の若く尊い命の灯火が消えてしまった。もう耐えられない。だから、逃げないことにしたの。正直に話すことにしたの。わ、わ」
赤木の目は真っ赤だった。言葉を出そうとするも、くちびるが震えているので、声にならないようだ。左手で口を覆い、力を入れた。十秒ほどその状態が続いた後、手を離し、口を開いた。
「串間さん」
赤木の目に光が宿る。おびえと懇願が入り混じり揺れている。串間は赤木を見据えている。
「私、主役を演じたい。その気持ちがとても強かった。さくらに決まったと聞いてからも、諦めきれなかった。どうしても演じたかった。でも、それぞれの配役もきまり、稽古が進んでく中で、私は思ったの。今回はこれでいい。私は自分に与えられた役を演じることに思いを注いでいこうと。ほんとうにそう思った。さくらが亡くなる前までは」
赤木は胸に手を当て、ゆっくり大きく呼吸して
「そう、亡くなる前までは。亡くなったと聞いたときは動揺した。なんで? どうして? 誰が? 疑問符が頭の中を巡り押しつぶされそうだった。テレビや新聞では殺人事件や傷害事件が日々報道されているけど、自分の外の世界を報じているようにしか感じていなかった。事実、自分には関係ない場所であり、人間関係であるし、時間が経てば事件がもたらした衝撃がだんだん弱くなっていった。今回は身近で起こった。自分に関係ある場所であり、人間関係である。明らかに自殺じゃない。誰かがやったことに間違いない。それに解決していない」
「串間さん」
赤木の目から涙がとめどなく流れ、目に宿る光が憂いを帯び小刻みに揺れている。串間は赤木を見据えたままだ。
「私、主役にこだわりません。いいえ、やりません」
瞬間、赤木の目から鋭い光が放たれた。周りの視線が一斉に赤木に注がれる。驚きの表情を見せており、中には凍りついた表情を見せる者もいる。串間の表情は硬さを増した。口を真一文字に結び直し、言葉を発する気配を感じさせない。突然、気まずい沈黙が訪れた。
「なぜだ」
沈黙を破ったのは、やはり浦辺だった。
「あれほど主役をやりたがっていたじゃないか。なぜだ。きっぱりとやりませんって、どういうことだ。説明してくれ」
「わがままを捨てることにしたの。私情を捨てることにしたの。でないと、上手くいかないことに気づいたの。一人芝居じゃない。みんながシンクロしないと、いい演技ができない。いい演技を見せることはできない。感動を与えることはできない。そう思った。だって、ぎこちない空気の中でばたばたしても重くて苦しいだけで、気持ちや心を解放できるわけがないじゃない。そんなんで稽古できないよ。演技できないよ。だから、任された役を演じるよ。そう、みんなと演じたいんだ。うん」
「そうか」
浦辺は下を向きながら、ぼそっとつぶやいた。その声につられ、浦辺の背中を見た赤木が突然泣き出した。もう言葉を発する者はいない。硬くなっていたみんなの表情が柔らかくなっていく。目を真っ赤にする者もいる。ゆっくりと小刻みにうなずく者もいる。佐々木は号泣している。串間は組んでいた腕をほどき、瞑想するようにゆっくり目を閉じた。泣き声だけが反響する。
〈パチ、パチ、パチ。パチ、パチ、パチ〉
立ち上がって、拍手する者がいた。視線が集まる。田中だった。
「赤木さん。よくぞ自らの胸の内を語ってくれました。勇気ある行動です。友人のこと、とてもつらかったと思います。ですが」
「田中! ちょっと待った!」
浦辺だった。
「何言ってんだよ。赤木が言っていること、真実かどうかわからないじゃないか。友人の死が事実だったとしても、事故かもしれないじゃないか。警察は甘くないよ。事故か事件の判断はきっちりやるだろうから。赤木が勘違いしているだけかもしれない、そういうこともあるだろう。今ここで、取り上げることでもない。それについては、もう話すなっ」
一気に捲し立てた。周りの視線が一斉に浦辺に向けられた。気圧されたようだ。泣き声もやんだ。予想外の反論であったのであろう。田中の目が泳いでいる。周りの視線が田中に移った。動揺しているのだろう。拍手していた手が微かに震える。
「田中」
串間が口を開いた。塾長が口を挟んできた? 劇団員たちは驚いた表情を串間に向けた。田中は落ち着かない様子で視線を宙に這わせた。
「『Death rule』をどうしたい?」
串間は田中を見据えるが、田中は視線を合わそうとしない。気まずい沈黙が訪れる。
「あ、そのう、そうですね。僕は芝居が好きです」
黙っていることに耐えられないといったふうに、感情のこもらない口調で答える。すぐに沈黙が訪れる。視線が宙に這う。
〈パシッ〉
田中が気合を入れるように自分の両頬を平手でたたいた。
「はい。やりたいです。やらせてください。お願いします」
田中は頭を下げ、三十度折れ曲がったところで体を止めた。
「頭を下げるだけじゃ伝わらないんだ。ほんとうにそれだけか。なんかあんだろ」
それ以上言葉を継がない気配を感じた串間は、田中の姿勢を問うた。
「はいっ」
田中は反射的に体を起こした。
「僕は芝居をやりたくて栃木から上京しました。それまでは普通のサラリーマンでした。車の販売を手掛けていました。車が売れたときはすごくうれしかったんですけど、契約したら、次の契約へとプレッシャーがかかるんですよ。まあ、販売や営業とはそんなもんですけどね。それでそんな日々を送っていたあるとき、芝居に出会ったんです。地元の文化センターで行われるというチラシを見て、面白そうだなと思って見に行きました。そうしたら感動してしまったんです。心を揺さぶられた。なんという人たちなんだろうって、役者さんに対して思っちゃったわけなんです。それから、いろいろな劇団の芝居を観に行くようになって、今度は感動させる側になりたい。そう思うようになりました。それには、東京で活動している劇団に入らなくちゃいけないと、上京を決意したんです。でも」
一呼吸置いて
「成功するとは限らない。地道に頑張っても、表舞台に立てるわけではない。だんだんとわかるようになってきました。感情がこもらないセリフ、ギクシャクした演技。自分には足りないものがたくさんあると、稽古を繰り返すたびに思うようになりました。手に入りそうだけど、するりと逃げていってしまう。そういうことが何度も重なると、どうしようもなく腹が立ってくるんです。自分に」
田中は両拳を胸の前で握り締めた。
「このまま芝居を続けられるのかどうか、わからなくなってきた。芝居が好きなのかどうか、わからなくなってきた。でも、続けなければならない。どうしてもやり遂げなくてはならない。僕はやる。続ける」
冷静なのか、冷めているのか、自身に問いかけている口調は微妙だ。
「串間さん。やらせてください」
田中は頭を下げ、四十五度折れ曲がったところで体を止めた。
串間は田中を見据えたままだ。口を開く気配はない。気まずい空気が流れる。
田中は頭を下げたまま、元の位置にしゃがんだ。
竹下が左隣の佐々木をチラッと見た。気配に気づいたのだろう、佐々木がくちびるをギュッと結んだ後、顔を上げた。最後は私の番だ。串間と視線が合った。一瞬たじろいだように目を動かしたが、次の瞬間には串間を見据えた。
「串間さん」
佐々木は背筋を伸ばし、膝を抱え直した。
「私がここに来た理由をお話ししたいと思います。面接でお話ししましたが、私は人見知りで、引っ込み思案なんです。人に気軽に話しかけられない。人の輪に入っていけない。人が怖くて、いつもおどおどしていました。小学生のときは、不安ではありましたが、友だちにも恵まれ、なんとなく楽しい日々を過ごしてきました。でも、中学に入り、他の小学校から来た人たちと一緒になって、すぐ違和感を覚えたことをはっきり記憶しています。威圧感、恐怖感に襲われたのです。たくさんのグループができ始め、それぞれのグループごとに何かの話で盛り上がっていました。私はどのグループに入れなかった。入り方もわからなかったし、誘ってくれる人もいなかった。周りが盛り上がれば盛り上がるほど、孤独と恐怖を感じたんです。持って生まれた性格を変えることはできない。この先どう生きていこうと、ビクビクしながら過ごした三年間だったと思います。まあ、その三年間の中で、少ないですがなんとか友だちもできました。それで、三年生の夏休みに進路について考えました。部活に入っていなかったので、時間がたっぷりありましたので、自分と真剣に向き合うことができたのです。自分の性格に合った仕事はなんだろう。そのためにはどんな学校に行って、どんな資格に挑戦すればいいのだろう。毎日考えました。でも、答えは出てこない。これだと考え始めても、否定的な要素も出てくるんです。その繰り返し。時間があるのに考えがまとまらない。次から次へと消えていく。とあるとき、テレビを見ていたんです。ある女優さんのインタービューです。当時は演技派として知られ、見る者を魅了する、なんていうか魔力のような雰囲気を醸し出している方でした。きっとこういう人は生まれたときからの才能や性格が違うんだ。そう思いながら見ていました。演技のことや仕事の話が終わって、女優になる前の話になったときでした。『私、人前に出るのがすごく苦手でした』と発言したんです。私は心の中で、『嘘でしょ』『オーラがあって、堂々としているじゃない』『人が苦手という要素、全然感じない』と叫んでしまいました。人が苦手の時代を振り返りながら、女優への話になったとき、性格を直すために劇団に入ったことを語ったんです。『そうなんだ』『そういうのもあるんだ』胸の中が熱くなったのを覚えています。『逃げたくない』『挑戦したい』私の中で何かが変わった瞬間でした」
佐々木は大きく呼吸をして、背筋を伸ばし直した。
「今のままの自分では嫌だと強く思った。変わらないと、人生は変わらない。自分から逃げたくない。自分の“もっと”を追いかけてみたい。やわらかな雰囲気でありながらも凛とした姿で語る女優さんのようになりたい。私は演劇部のある高校に進学することに決めました。演技するというよりも、自分を変えることを信念に演劇部で学びました。高校の演劇部だから本格的な稽古をするわけではないけれど私なりに充実していた。楽しもうという思いが湧き上がってくる感じ。自分が変わっていく実感があったんです」
佐々木は大きく呼吸をして、背を丸めた。
「でも、ここに来てから私、自信がなくなってしまったんです」
ふっと息を吐き
「みなさんに圧倒されました。感情とセリフのバランス、身振りや動きのアイデアが半端ない。感情移入が半端ない。レベルの違いを見せつけられたようで、落ち込んでしまったんです。そんな私を、塾長をはじめ、みなさんは励ましてくれました。『人には個性がある。テレビドラマの配役を見てみろ。同じキャラはいないだろ。同じキャラの役者ばかり集めたって濃淡のあるドラマは生まれない。それぞれの個性が集まっているから成り立つんだ。そして、評価は見る者によって決められる』と言われました。私は私なりにこれでいいのかな、という気持ちが芽生え始めたのも事実です。そんな矢先、藤堂さんが」
佐々木は両手で顔を覆った。声を潜めて泣いているのか、顏が小刻みに揺れている。どうしようもない沈黙が訪れた。しばらくして落ち着きを取り戻し、顔を上げた。
「取り乱して、ごめんなさい。私だけじゃないもんね、こんな気持ち。ごめんなさい、続けます。藤堂さんがいなくなって、私、ここをやめようと思った。強く思った。黒く深い非日常に、突然突き落とされたようで、心身とも不安定になった。なぜか人が信じられなくなった、人が怖くなった。藤堂さんの命を止めた人間がどこかにいる。近くにいるかもしれない。とてもじゃないけど、こんな状態では芝居を続けられない。演技なんてできない。投げ出したかった。ただ、そんな気持ちと同じように逃げだすのも怖かった。みんなと離れるのが怖かった。どうしようもない不安定な気持ちは一人じゃ抑えられない。仲間に囲まれて、そのぬくもりで、震える私を支えてほしい。ここから離れたくない。そんな状態がずっと続いていたんです。でも、それは私だけじゃない。みんなも同じような気持ちなんだ。だってそうだよね、みんな仲間だし、仲間の一人がいなくなっちゃったんだもんね。だから星成塾をやめない。みんなで気持ちを共有して乗り越えたい。何かを創り出して楽しさや嬉しさを共有したい。今も強く思っている」
佐々木は大きく呼吸をして、背筋を伸ばし、串間を見据えた。
「串間さん。キャスティングの件、断った理由について、以前お話ししました。もう一度お話しします。みんなにも聞いてもらいたいから」
佐々木は大きく呼吸をして、虚空を見つめた。
「ここに来て、みなさんを見て、自信をなくしたことはさっき話したとおりです。自信をなくしていた状態で、藤堂さんのことがあり、その後で串間さんからキャスティングの話がありました。藤堂さんが演じる予定であった主役への挑戦です。最初に聞いたとはびっくりしました。なんで私が? 他に適した人たちがいるのに、なんで私なのと、まさに青天の霹靂でした。串間さんに言われたのは「『Death rule』の主役を決めるとき、実は迷っていたんだ。さくらにするか明美にするか。結果的に、俺はさくらを選んだ。そぞれの個性で、それぞれの『Death rule』が披露できると考えていたが、今回は、さくらを選んだ。だから、演じることができないさくらに代わって、さくらの分まで演じてくれないか。さくらもそれを願っているはずだ」そこで初めて、藤堂さんが私を推していたことを告げられたんです。それでさらに混乱しました。演技力は藤堂さんにかなわない。ずっと思っていたし、今も思っている。体の芯から沸き起こる情念を見せつけられると、かないっこない。そんな藤堂さんの代わりなんてできない。なんで藤堂さんが私を推したのだろう。聞きたくてももう聞けない。自分が思っていることと、周りが私をどう見ているのか、それが一致していない。混乱と焦りとで逃げたくなりました。高校時代は演じることが楽しくてしかたなかったけど、ここに来てからは自信をなくし、楽しく演じることがだんだんできなくなってきた。自分は何者? 頭の中は疑問符でいっぱいになり苦しかった」
佐々木は大きく呼吸をして、串間を見据えた。
「私、甘えていたんです。自分が楽しいから見に来てくれるお客様も楽しいと思っていました。それは違うんじゃないか。高校生のときはそれでよかったのかもしれない。学校のサークルだし、アマチュアであるし、学芸会レベルの演技でも批判されなかったこともあって、それなりに楽しめていた。でもここは違う、観に来る方は学芸会を見に来るんじゃない。芝居を観に来るんだ。完成された脚本、ステージ、そして演技を楽しむために、お金を払って観に来てくれるんだ。そんな当たり前のことがわからなかった。だから、自分の殻を破れないままここまで来てしまった。自分にどんな能力があるんだろう。自分ではわからない短所はなんだろう。客観的に批評され、足りないところは、周りのサポートを受けながら自分で磨いていかなければ成長しない。劇団員としての認識が甘かったんです。申し訳ありません」
佐々木はゆっくり立ち上がり、頭を下げた。ゆっくり頭を戻し、串間を見据えた。目は赤かったが、涙はあふれてはいなかった。
「串間さん」
沈黙があり、視線が集まった。
「やらせてください」
どよめきが起こった。目を見開く者。唖然とした表情を見せる者。驚いた表情を見せる者。微かな強張りを見せる者。胸中はそれぞれのようだ。串間は佐々木の視線をしっかりと捉えた後、劇団員たちの顔を見回した。視線を力強く返してくる者。うなずく者。大きく息を吐く者。視線をそらす者。沈黙が訪れる。
「ありがとう」
串間は立ち上がり、軽く頭を下げた。
「みんなの率直な気持ちを確かに受け取った。『Death rule』をやるかやらないか。俺は迷っていた。稽古だけは続けていたが、本番をどうするか決めかねていた。理由はみんなの士気が高まっているのかどうか。稽古を続ける中で、この芝居を成功させようとする意欲が感じられないんだ。いつもというわけじゃないが、内側から沸き起こってくるような情熱が届いてこない。セリフが空回りしているようで、観る人はしらけてしまうだろう。ストーリーに入り込めない。最後まで観る気がしない。星成塾の芝居はつまらない。今のままでは観客を意識した芝居づくりなんて無理じゃないか。みんなはどうだ。そう感じたことはないか。俺は強く思っていた」
串間は一人ひとりの顔を確認するようにゆっくり見回した。
「でもな、そういう状態に陥るのもしょうがないと思うこともある。もちろん、さくらことだ。世間を騒がせるような凶悪な事件だ。それが身近に起こってしまうなんて、衝撃的で悲しく、やりきれない。さくらとの関わりが深いだけに、動揺し、心が不安定になって当たり前だ。そんな状況のなか、ちゃんと稽古しろと言われても、心も体もうまく動きっこない。言われたほうは、なんと非情なヤツだと感じているかもしれない。俺もショックを引きずっている。同じようなことを言われたら、こんな状況で雑念を払えなんて無理だと叫びたくなるだろう」
串間は虚空を見つめた後、一人ひとりの顔を確認するようにゆっくり見回した。
「いっそのこと、解散しようかと思ったよ。こんな不安定な状態で、稽古なんてできっこない。いい演技なんて見せられっこない。放り出したほうが自分も楽になるからな。稽古が終わって、家に帰って飯を食いながら、どのタイミングでみんなに言おうかと考えていた。でな、そんなとき、さくらに会ったんだ」
周りの目が大きく見開かれた。
「えっ!」
「ど、どう」
「えーっ」
「そ」
串間は一人ひとりの顔を確認するようにゆっくり見回した。
「さくらに会った。夢の中でだ」
「なんだ」
「ふー」
「夢か」
「おどかすな」
串間は一人ひとりの顔を確認するようにゆっくり見回した。
「星成塾の『Death rule』、ぜひ観たいです。とさくらに言われた。笑顔だったよ。そのとき、俺は思ったよ。観る人を感動させるために、俺たちはやってきたんだ。そういう人たちのために、やめちゃいけない、放り出してはいけない、続けなければいけないって、改めて思ったよ。一度、原点に立ち返って、またやってみよう。『Death rule』を多くの人たちに観てもらおう。胸の中がだんだん熱くなってきたんだ。だけど、俺一人の判断で決めるわけにはいかない。ここを主宰しているのは俺だが、演じるのは星成塾のメンバーだ。メンバーの気持ちを尊重しなければならない。一人ひとりの気持ちを確認しなければならない。前にも確認しているが、さくらがいなくなった直後と異なり、時間が経って心境が多少なりとも変化したかもしれない。メンバーの気持ちを再確認したと思い集まってもらった。結果、みんなの思いを確認できた。ここに宣言する。『Death rule』の稽古を続けるぞっ!」
「はいっ!」
劇団員たちの声が共鳴した。
「一部シナリオを見直して再開だ。明日、午後一時から始める。それでいいか」
「はいっ!」
みんな立ち上がり、串間に向かって頭を軽く下げながら、稽古場を出て行く。串間は、それらの後ろ姿を確認するように視線を送った。最後の背中が見えなくなった後、出入り口のドアを閉めてから、稽古場の中央付近まで歩を進め、スマホを取り出した。登録していた番号を呼び出し、ボタンをタッチした。
「串間です」
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