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第42話 進路(1)
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その日、朝から奈都が珍しいことを言い出して、私は思わず息を呑んだ。
「私の聞き違いじゃなかったら、今、今日はチサと一緒に帰ろうかなって言った?」
念のため確認すると、奈都は苦笑いを浮かべて頷いた。
「一文字も違わなかったね」
「どうしたの? 私になんて1ミリも興味のなかった奈都さんが……」
「興味しかないけど」
わざとらしく私の全身を舐めるように見ながら、奈都が目を細めて微笑んだ。
実際に、奈都が私と一緒に帰りたがるのは、とても珍しい。
奈都はバトン部に所属していて、ほとんど毎日練習がある。時々練習のない日や体調不良で休んでも、クラスの子と帰っていて、私と一緒に帰ることなど、去年は1年で片手で数えられるほどしかなかった。今年はまだゼロだ。
部活はどうしたのか聞いたら、今日は体育館を他の部に占領されて使えないらしい。
「バレー部が、他の高校と練習試合するんだって」
「奈都も練習試合やったら?」
「誰と何で戦うの?」
呆れたような声が返ってくる。敷地内に2つある体育館は度々取り合いになり、譲り合いで使っているそうだが、バトン部は大した実績がないので力が弱いそうだ。そんな時は外でフォーメーションを確認したり、バトンを投げずに練習したりしているが、今日は休みになったという。
一緒に帰るのはもちろん大歓迎だが、私と二人で帰りたいのか、帰宅部の活動に参加したいのか。念のため確認すると、もちろん後者だと返ってきた。喜ばしいことだ。
廊下で別れて教室に入ると、早速部員を招集して報告した。塾がある絢音が無念そうに首を振った。
「塾休みたい」
「その気持ちだけで奈都も浮かばれるから。むしろ奈都を塾に行かせるから」
奈都に代わってありがとうと伝えると、絢音がふふっと綺麗に笑った。涼夏が腕を組んで首をひねった。
「何をしようね。何か特別なことをするべき?」
涼夏と二人の時は、大抵恵坂をブラブラしているか、カラオケに行くか、カフェを開拓するか、ファーストフードで喋っている。時々私の家に来てイチャイチャしたりもしているが、3人ですることではない。
奈都はあまりお金がないし、ウィンドウショッピングにも興味はないだろう。喋っているだけでも楽しく過ごせるだろうが、それはもったいない気もする。
「奈都に寄せる必要はないと思うけど、つまらないって思われたくはないね」
「じゃあまあ、いつもの帰宅部の中で、何かナッちゃんが楽しめそうなことを考えよう」
そろそろHRが始まる。お互いに何かアイデアを出すことにして、一旦席に戻った。
放課後、奈都が掃除当番で少し遅くなるというので、いつも通りハグをして絢音を見送った。
教室で涼夏と喋っていると、奈都がやってきて小さく手を振った。他のクラスの教室には入りづらいのか、ドアに張り付いたままだったので、リュックを背負って涼夏と並んで教室を出た。
「アヤは?」
奈都がキョロキョロと辺りを見回す。そんな仕草をしなくてもいないのは明白だが、いると思って来たのなら不思議がるのも仕方ない。もっとも、今日は絢音は塾があることはすでに伝えたはずである。冷静にそう指摘すると、奈都は残念そうに息を吐いた。
「帰宅部伝統のハグをしてもらえるかと思ったのに」
「それは、頼めばいつでもしてくれると思うよ?」
「学校で帰宅間際っていうTとPが大事なんだよ」
なるほど。それは確かにそうかもしれない。何のためのハグなのか。そこを追及するのは大切なことだ。
「Pはプライス」
涼夏が明るい声でそう言いながら階段を下りる。部員以外はハグは1回500円だと告げると、奈都がPは場所だと静かに首を振った。それから疲れた顔で口を開いた。
「部活の後輩に、一緒に帰ろうって言われて、断るのが大変だった」
「富元さん?」
奈都のことを気に入っている後輩の名前を挙げると、奈都はこくりと頷いた。私は何度か会っているが、直接話したことのない涼夏が「どんな子?」と聞いた。
奈都があまり感情の籠もらない声で言った。
「悪い子じゃないけど、ちょっと勢い強めだね」
「バトンは上手なの?」
「初心者だよ。まあ、バトン経験者って珍しいし、ちゃんとバトンをやりたい子はユナ高には来ない」
我が校のバトン部は、スポーツが盛んなユナ高にあって、1、2を争う緩い運動部である。今年は練習を増やして大会にも出ようとか、外部講師を招こうみたいな話もあったらしいが、浮上した朝練が没になったことで、結局緩い方針を継続することになったらしい。
その朝練がなくなったのは、奈都が参加しないと言ったからだと、可愛い後輩が言っていた。つまり、部活の方針は奈都が決定づけたことになる。
そう説明すると、なるほどと頷く涼夏に、奈都が大きく首を横に振った。
「あれはあの子が勝手にそう言ってるだけで、私にそんな影響力はないよ」
「次期部長でしょ?」
「チサ、あの子の言葉を真に受けないで」
奈都が困ったように微笑んだ。確かにその話は富元さんからしか聞いていないが、実際の奈都は中学時代、部長を務めていたので、何の違和感もない。
校舎を出ると、南にある最寄り駅の上ノ水ではなく、いつも古沼へ行く方向に歩き出した。ただし、今日は古沼には行かず、そのままずっと真っ直ぐ歩き続けようと話している。何か新しい発見があるかもしれないと涼夏が言い出したのだ。運動が嫌いな涼夏らしくない提案だが、ブラブラ歩くのは遊びの範疇なのだろう。
「大会に出ないと、発表の場は自分たちで探してくるの?」
涼夏が部活の話を続けて、奈都は否定するように首を振った。
「顧問が見つけてきたり、地域と学校の繋がりで向こうからオファーがあったり、色々」
「じゃあまた、夏祭りとか、地域のイベントとか、私学祭とか、文化祭とか、そういうのだね?」
「そうだね。今は来月のステージのために練習してる。1年生は応援だけど」
「それはまた見に行くとして、大会がないと、引退っていう概念はあるの?」
通常、運動部だと、夏の大会が終わると3年生は部活を引退する。部長の引き継ぎもそのタイミングで行われるのが一般的だが、バトン部はそういう節目の大会がない。
ちなみに涼夏の中学時代の料理部は、夏休み前に来なくなる先輩もいれば、ずっと来る先輩や、推薦で進路が決まった後、戻ってくる先輩もいたそうだ。涼夏は副部長だったが、1学期の終わりに後輩にその座を譲り渡したらしい。
「うちもそんな感じかなぁ。団体競技だから、一応文化祭で終わりって決めてはあるけど、去年は専門行く先輩とか、ずっと来てたね」
卒業した先輩を思い出したのか、奈都が懐かしむように目を細めた。帰宅部には同級生しかいないので、わからない感覚だ。私はこのまま3年生の3月まで、ずっと部長を続けそうである。
いつもの大きな公園で仁町女子の集団に飲まれるも、今日は南下せずにそのまま西に貫いた。この先には駅もないので、すぐに仁町の制服も見えなくなった。ここから新エリアに入るが、民家と個人商店の建ち並ぶ地味な道が続いた。初めてなのに既視感があるやつだ。
「ナッちゃんは、高校を卒業してもバトンを続けるの?」
周囲の景色にはもう興味を失ったのか、涼夏が奈都を見上げてそう聞いた。バトンはあまり一般的なスポーツではないし、さすがにそれはないだろう。案の定、奈都は小さく首を横に振った。
「まあ、せっかく買ったし、たまに趣味で回すくらいかな。バドミントンと同じ」
「そうだよね」
涼夏が何か含むようにそう言って、考えるように視線を地面に落とした。奈都が「どうかした?」と聞くと、涼夏が難しそうに眉根を寄せた。
「高校3年間打ち込んで得たスキルが、その先継続しないのは、なんだかもったいない気がする」
随分と言葉を選んだ言い方だった。今奈都が打ち込んでいることを否定しないようにしつつも、聞いてみたかったのだろう。
涼夏の言いたいこと自体は理解できる。涼夏の料理部での経験はそのまま生活に直結している。絢音もメンバーこそ変わったが、バンド活動をずっと続けている。時間を費やしたものが、ずっと継続出来たらそれに越したことはない。
ただ、運動部など大半が学生時代で辞めてしまうし、吹奏楽部員も多くの子が卒業したら楽器を辞めてしまうそうだ。管楽器は何十万円もするので無理もない。
「バトンは楽しいけど、たぶん一人だったらやらないし、私はみんなで何かに励みたいだけな気がする」
奈都が自分でもよくわからないと、小首を傾げた。涼夏が納得したように頷く。その点に関しては私たちも同じなので、一緒に帰宅部でも良かった気がしないでもないが、少なからず発表の場があって、成果が残ることがしたかったのだろう。それに、奈都がバトン部に入ると決めた時、帰宅部はおろか、私はまだ涼夏と友達ですらなかった。
大きな交差点に出て足を止めると、照り付ける日差しにじんわりと汗が滲んだ。そろそろまた梅雨の季節になる。雨はもちろん嫌いだが、雨に濡れることよりも、空が暗いのと、帰宅部の活動が制限されるのが嫌な気がする。
「大学でも、何かサークルとか入るの?」
車の流れを目で追うようにキョロキョロと首を動かしながら、涼夏が話を続けた。そのことに興味があって聞いているのか、それともただ間を繋いでいるだけなのか、いまいち判断できない。今さら話していないと居心地が悪くなるような仲でもないし、きっと前者だろう。
私の予想では、涼夏はこの先どれくらい奈都と遊べるか、どれくらい奈都が私たちと遊びたがっているかを量っている。絢音はともかく、私と涼夏は、常に趣味よりも人のことを考えている。
「まだ全然わかんないよ。特にやりたいこともないし、バトンだって高校の部活紹介で見るまで知らなかったし」
奈都が呆れたように手を広げた。
信号が変わって歩き始める。涼夏が口を開く前に、私は訴える眼差しで奈都を見た。
「大学はそろそろ私たちとの時間を作って」
横断歩道を渡り切ると信号が点滅し始めた。だらだら歩いていたとはいえ、若い私たちの足でこの間隔だと、お年寄りが青信号の間に渡り切るのは大変そうだ。
奈都が苦笑いを浮かべて、からかう瞳で私の顔を覗き込んだ。
「大学でも帰宅部を作るの?」
「涼夏と絢音とは進路が別になると思うけど、奈都は講義とかバイトのない時は、私と一緒に遊ぶべきだと思う。もう、義務って言ってもいい。正妻なんだから」
敢えて不満げな顔で、強めに訴えた。
中学の時、奈都は独りぼっちだった私の相手をしてくれたが、あくまで部活優先だった。私は遊んでもらう立場だったし、一度として対等だなどと思ったことはなかった。
それに、そこまで仲が良かったわけでもなかったし、奈都は私への愛情を隠すために、意図的に距離を置いていた。まだ子供だったし、色々と複雑な状況だった。
高校でも、部活に入った瞬間はまだその状態が継続していたので仕方ない。しかし、それから私たちはキスだってしたし、ただの友達という枠はとっくに出ている。涼夏と絢音との関係が壊れないという条件付きだが、奈都の愛にだって応えられる。
大学は、中学や高校と違って、自然と毎日顔を合わせるシステムにはなっていない。今度奈都が私よりも他の何かを優先したら、奈都が望む関係は維持できないと考えた方がいい。そもそも、本当に奈都は私が思うような関係を望んでいるのだろうか。
疑いの眼差しを向けると、奈都は困ったように微笑んだ。
「まあ、同じ大学ならね」
「学年35位のこの私が、奈都さんの受ける大学に全部落ちると?」
挑発的に煽ると、隣で涼夏がくすくすと笑った。奈都が不思議そうな顔をする。
「いや、チサがアヤと同じ大学には行かないって自然と考えてるみたいに、私もチサのレベルの大学は無理だと思ってるけど」
「だから、私の方が合わせるって言ってるでしょ?」
「それは嬉しいけど、進路って大事だから、もっとちゃんと考えた方がいいよ」
まるで進路指導の先生のように、奈都が穏やかな口調で言った。私は憮然として答えた。
「奈都と同じ大学に行く以上に大事なことが、何かあるの?」
先程から会話が噛み合っていない。もっとも、私が奈都と同じ大学に行くというのは、4月の聖域事変の頃から漠然と考えてはいたが、はっきりと口に出して伝えてはいないので、奈都が混乱するのも仕方ない。
奈都が足を止めて、何やら考え込むように眉根を寄せた。わざとらしく首を傾けて顎に手を当てる。
「チサは、私のこと、好きなの?」
「今さら何を言ってるの?」
突然の質問に、思わず声が裏返った。涼夏がとうとう声を上げて笑った。
「二人とも、面白いな」
「いや、だって、そこまで? そういうレベルで私のこと、好きなの?」
奈都が信じられないという顔をする。随分と失礼な反応だが、元々この子は色々と失礼な子だ。
「涼夏と絢音とはルームシェア計画をぼちぼち進めてるし、奈都は家から通うなら、大学は同じにしたいって思うのは普通でしょ? 迷惑なら考え直すけど」
「迷惑なわけないでしょ!?」
奈都が声を荒げる。驚いて身を反らせると、奈都が何やら感極まったように体を震わせてから、じんわりと瞳に涙を浮かべた。一体何が始まったのか。
「だって、私、チサのこと、ずっと好きで……」
「知ってるけど」
「いや、そういうのじゃなくて、本当に」
首を振った奈都の頬に、涙のしずくが零れ落ちる。何か突然感動的なシーンが始まったようだが、まったく意味がわからない。
「私、バトンしてる場合じゃないのかもしれない……」
奈都がそう声を震わせたが、私はただただ困惑して肩をすくめた。
「いや、そういうのは引退してからでいいから。さっきの涼夏の話は、そういうところに繋がってるって考えていいよ。いいよね?」
念のため確認すると、涼夏は「そうだな」と満足そうに頷いた。涼夏とは十分に意思の疎通が出来ている。
「5分前と今とで、私は何も変わってないし、何なら奈都に対する感情も、去年の夏くらいから今まで、まったく何も変わってないから、なんで今更そんな反応するのか、まったく意味がわかんないんだけど」
100文字くらい使ってゆっくりそう告げると、奈都は頭を抱えて首を振った。
「混乱してる」
「こっちが混乱してるから!」
大袈裟な動きでそう言って、奈都の手を取った。なんだかよくわからないが、少なくとも今は、感動的なTでもPでもOでもない。
涼夏が可笑しそうに頬を緩めて足を踏み出す。私も奈都の手を引きながら、その背中を追って歩き出した。
「私の聞き違いじゃなかったら、今、今日はチサと一緒に帰ろうかなって言った?」
念のため確認すると、奈都は苦笑いを浮かべて頷いた。
「一文字も違わなかったね」
「どうしたの? 私になんて1ミリも興味のなかった奈都さんが……」
「興味しかないけど」
わざとらしく私の全身を舐めるように見ながら、奈都が目を細めて微笑んだ。
実際に、奈都が私と一緒に帰りたがるのは、とても珍しい。
奈都はバトン部に所属していて、ほとんど毎日練習がある。時々練習のない日や体調不良で休んでも、クラスの子と帰っていて、私と一緒に帰ることなど、去年は1年で片手で数えられるほどしかなかった。今年はまだゼロだ。
部活はどうしたのか聞いたら、今日は体育館を他の部に占領されて使えないらしい。
「バレー部が、他の高校と練習試合するんだって」
「奈都も練習試合やったら?」
「誰と何で戦うの?」
呆れたような声が返ってくる。敷地内に2つある体育館は度々取り合いになり、譲り合いで使っているそうだが、バトン部は大した実績がないので力が弱いそうだ。そんな時は外でフォーメーションを確認したり、バトンを投げずに練習したりしているが、今日は休みになったという。
一緒に帰るのはもちろん大歓迎だが、私と二人で帰りたいのか、帰宅部の活動に参加したいのか。念のため確認すると、もちろん後者だと返ってきた。喜ばしいことだ。
廊下で別れて教室に入ると、早速部員を招集して報告した。塾がある絢音が無念そうに首を振った。
「塾休みたい」
「その気持ちだけで奈都も浮かばれるから。むしろ奈都を塾に行かせるから」
奈都に代わってありがとうと伝えると、絢音がふふっと綺麗に笑った。涼夏が腕を組んで首をひねった。
「何をしようね。何か特別なことをするべき?」
涼夏と二人の時は、大抵恵坂をブラブラしているか、カラオケに行くか、カフェを開拓するか、ファーストフードで喋っている。時々私の家に来てイチャイチャしたりもしているが、3人ですることではない。
奈都はあまりお金がないし、ウィンドウショッピングにも興味はないだろう。喋っているだけでも楽しく過ごせるだろうが、それはもったいない気もする。
「奈都に寄せる必要はないと思うけど、つまらないって思われたくはないね」
「じゃあまあ、いつもの帰宅部の中で、何かナッちゃんが楽しめそうなことを考えよう」
そろそろHRが始まる。お互いに何かアイデアを出すことにして、一旦席に戻った。
放課後、奈都が掃除当番で少し遅くなるというので、いつも通りハグをして絢音を見送った。
教室で涼夏と喋っていると、奈都がやってきて小さく手を振った。他のクラスの教室には入りづらいのか、ドアに張り付いたままだったので、リュックを背負って涼夏と並んで教室を出た。
「アヤは?」
奈都がキョロキョロと辺りを見回す。そんな仕草をしなくてもいないのは明白だが、いると思って来たのなら不思議がるのも仕方ない。もっとも、今日は絢音は塾があることはすでに伝えたはずである。冷静にそう指摘すると、奈都は残念そうに息を吐いた。
「帰宅部伝統のハグをしてもらえるかと思ったのに」
「それは、頼めばいつでもしてくれると思うよ?」
「学校で帰宅間際っていうTとPが大事なんだよ」
なるほど。それは確かにそうかもしれない。何のためのハグなのか。そこを追及するのは大切なことだ。
「Pはプライス」
涼夏が明るい声でそう言いながら階段を下りる。部員以外はハグは1回500円だと告げると、奈都がPは場所だと静かに首を振った。それから疲れた顔で口を開いた。
「部活の後輩に、一緒に帰ろうって言われて、断るのが大変だった」
「富元さん?」
奈都のことを気に入っている後輩の名前を挙げると、奈都はこくりと頷いた。私は何度か会っているが、直接話したことのない涼夏が「どんな子?」と聞いた。
奈都があまり感情の籠もらない声で言った。
「悪い子じゃないけど、ちょっと勢い強めだね」
「バトンは上手なの?」
「初心者だよ。まあ、バトン経験者って珍しいし、ちゃんとバトンをやりたい子はユナ高には来ない」
我が校のバトン部は、スポーツが盛んなユナ高にあって、1、2を争う緩い運動部である。今年は練習を増やして大会にも出ようとか、外部講師を招こうみたいな話もあったらしいが、浮上した朝練が没になったことで、結局緩い方針を継続することになったらしい。
その朝練がなくなったのは、奈都が参加しないと言ったからだと、可愛い後輩が言っていた。つまり、部活の方針は奈都が決定づけたことになる。
そう説明すると、なるほどと頷く涼夏に、奈都が大きく首を横に振った。
「あれはあの子が勝手にそう言ってるだけで、私にそんな影響力はないよ」
「次期部長でしょ?」
「チサ、あの子の言葉を真に受けないで」
奈都が困ったように微笑んだ。確かにその話は富元さんからしか聞いていないが、実際の奈都は中学時代、部長を務めていたので、何の違和感もない。
校舎を出ると、南にある最寄り駅の上ノ水ではなく、いつも古沼へ行く方向に歩き出した。ただし、今日は古沼には行かず、そのままずっと真っ直ぐ歩き続けようと話している。何か新しい発見があるかもしれないと涼夏が言い出したのだ。運動が嫌いな涼夏らしくない提案だが、ブラブラ歩くのは遊びの範疇なのだろう。
「大会に出ないと、発表の場は自分たちで探してくるの?」
涼夏が部活の話を続けて、奈都は否定するように首を振った。
「顧問が見つけてきたり、地域と学校の繋がりで向こうからオファーがあったり、色々」
「じゃあまた、夏祭りとか、地域のイベントとか、私学祭とか、文化祭とか、そういうのだね?」
「そうだね。今は来月のステージのために練習してる。1年生は応援だけど」
「それはまた見に行くとして、大会がないと、引退っていう概念はあるの?」
通常、運動部だと、夏の大会が終わると3年生は部活を引退する。部長の引き継ぎもそのタイミングで行われるのが一般的だが、バトン部はそういう節目の大会がない。
ちなみに涼夏の中学時代の料理部は、夏休み前に来なくなる先輩もいれば、ずっと来る先輩や、推薦で進路が決まった後、戻ってくる先輩もいたそうだ。涼夏は副部長だったが、1学期の終わりに後輩にその座を譲り渡したらしい。
「うちもそんな感じかなぁ。団体競技だから、一応文化祭で終わりって決めてはあるけど、去年は専門行く先輩とか、ずっと来てたね」
卒業した先輩を思い出したのか、奈都が懐かしむように目を細めた。帰宅部には同級生しかいないので、わからない感覚だ。私はこのまま3年生の3月まで、ずっと部長を続けそうである。
いつもの大きな公園で仁町女子の集団に飲まれるも、今日は南下せずにそのまま西に貫いた。この先には駅もないので、すぐに仁町の制服も見えなくなった。ここから新エリアに入るが、民家と個人商店の建ち並ぶ地味な道が続いた。初めてなのに既視感があるやつだ。
「ナッちゃんは、高校を卒業してもバトンを続けるの?」
周囲の景色にはもう興味を失ったのか、涼夏が奈都を見上げてそう聞いた。バトンはあまり一般的なスポーツではないし、さすがにそれはないだろう。案の定、奈都は小さく首を横に振った。
「まあ、せっかく買ったし、たまに趣味で回すくらいかな。バドミントンと同じ」
「そうだよね」
涼夏が何か含むようにそう言って、考えるように視線を地面に落とした。奈都が「どうかした?」と聞くと、涼夏が難しそうに眉根を寄せた。
「高校3年間打ち込んで得たスキルが、その先継続しないのは、なんだかもったいない気がする」
随分と言葉を選んだ言い方だった。今奈都が打ち込んでいることを否定しないようにしつつも、聞いてみたかったのだろう。
涼夏の言いたいこと自体は理解できる。涼夏の料理部での経験はそのまま生活に直結している。絢音もメンバーこそ変わったが、バンド活動をずっと続けている。時間を費やしたものが、ずっと継続出来たらそれに越したことはない。
ただ、運動部など大半が学生時代で辞めてしまうし、吹奏楽部員も多くの子が卒業したら楽器を辞めてしまうそうだ。管楽器は何十万円もするので無理もない。
「バトンは楽しいけど、たぶん一人だったらやらないし、私はみんなで何かに励みたいだけな気がする」
奈都が自分でもよくわからないと、小首を傾げた。涼夏が納得したように頷く。その点に関しては私たちも同じなので、一緒に帰宅部でも良かった気がしないでもないが、少なからず発表の場があって、成果が残ることがしたかったのだろう。それに、奈都がバトン部に入ると決めた時、帰宅部はおろか、私はまだ涼夏と友達ですらなかった。
大きな交差点に出て足を止めると、照り付ける日差しにじんわりと汗が滲んだ。そろそろまた梅雨の季節になる。雨はもちろん嫌いだが、雨に濡れることよりも、空が暗いのと、帰宅部の活動が制限されるのが嫌な気がする。
「大学でも、何かサークルとか入るの?」
車の流れを目で追うようにキョロキョロと首を動かしながら、涼夏が話を続けた。そのことに興味があって聞いているのか、それともただ間を繋いでいるだけなのか、いまいち判断できない。今さら話していないと居心地が悪くなるような仲でもないし、きっと前者だろう。
私の予想では、涼夏はこの先どれくらい奈都と遊べるか、どれくらい奈都が私たちと遊びたがっているかを量っている。絢音はともかく、私と涼夏は、常に趣味よりも人のことを考えている。
「まだ全然わかんないよ。特にやりたいこともないし、バトンだって高校の部活紹介で見るまで知らなかったし」
奈都が呆れたように手を広げた。
信号が変わって歩き始める。涼夏が口を開く前に、私は訴える眼差しで奈都を見た。
「大学はそろそろ私たちとの時間を作って」
横断歩道を渡り切ると信号が点滅し始めた。だらだら歩いていたとはいえ、若い私たちの足でこの間隔だと、お年寄りが青信号の間に渡り切るのは大変そうだ。
奈都が苦笑いを浮かべて、からかう瞳で私の顔を覗き込んだ。
「大学でも帰宅部を作るの?」
「涼夏と絢音とは進路が別になると思うけど、奈都は講義とかバイトのない時は、私と一緒に遊ぶべきだと思う。もう、義務って言ってもいい。正妻なんだから」
敢えて不満げな顔で、強めに訴えた。
中学の時、奈都は独りぼっちだった私の相手をしてくれたが、あくまで部活優先だった。私は遊んでもらう立場だったし、一度として対等だなどと思ったことはなかった。
それに、そこまで仲が良かったわけでもなかったし、奈都は私への愛情を隠すために、意図的に距離を置いていた。まだ子供だったし、色々と複雑な状況だった。
高校でも、部活に入った瞬間はまだその状態が継続していたので仕方ない。しかし、それから私たちはキスだってしたし、ただの友達という枠はとっくに出ている。涼夏と絢音との関係が壊れないという条件付きだが、奈都の愛にだって応えられる。
大学は、中学や高校と違って、自然と毎日顔を合わせるシステムにはなっていない。今度奈都が私よりも他の何かを優先したら、奈都が望む関係は維持できないと考えた方がいい。そもそも、本当に奈都は私が思うような関係を望んでいるのだろうか。
疑いの眼差しを向けると、奈都は困ったように微笑んだ。
「まあ、同じ大学ならね」
「学年35位のこの私が、奈都さんの受ける大学に全部落ちると?」
挑発的に煽ると、隣で涼夏がくすくすと笑った。奈都が不思議そうな顔をする。
「いや、チサがアヤと同じ大学には行かないって自然と考えてるみたいに、私もチサのレベルの大学は無理だと思ってるけど」
「だから、私の方が合わせるって言ってるでしょ?」
「それは嬉しいけど、進路って大事だから、もっとちゃんと考えた方がいいよ」
まるで進路指導の先生のように、奈都が穏やかな口調で言った。私は憮然として答えた。
「奈都と同じ大学に行く以上に大事なことが、何かあるの?」
先程から会話が噛み合っていない。もっとも、私が奈都と同じ大学に行くというのは、4月の聖域事変の頃から漠然と考えてはいたが、はっきりと口に出して伝えてはいないので、奈都が混乱するのも仕方ない。
奈都が足を止めて、何やら考え込むように眉根を寄せた。わざとらしく首を傾けて顎に手を当てる。
「チサは、私のこと、好きなの?」
「今さら何を言ってるの?」
突然の質問に、思わず声が裏返った。涼夏がとうとう声を上げて笑った。
「二人とも、面白いな」
「いや、だって、そこまで? そういうレベルで私のこと、好きなの?」
奈都が信じられないという顔をする。随分と失礼な反応だが、元々この子は色々と失礼な子だ。
「涼夏と絢音とはルームシェア計画をぼちぼち進めてるし、奈都は家から通うなら、大学は同じにしたいって思うのは普通でしょ? 迷惑なら考え直すけど」
「迷惑なわけないでしょ!?」
奈都が声を荒げる。驚いて身を反らせると、奈都が何やら感極まったように体を震わせてから、じんわりと瞳に涙を浮かべた。一体何が始まったのか。
「だって、私、チサのこと、ずっと好きで……」
「知ってるけど」
「いや、そういうのじゃなくて、本当に」
首を振った奈都の頬に、涙のしずくが零れ落ちる。何か突然感動的なシーンが始まったようだが、まったく意味がわからない。
「私、バトンしてる場合じゃないのかもしれない……」
奈都がそう声を震わせたが、私はただただ困惑して肩をすくめた。
「いや、そういうのは引退してからでいいから。さっきの涼夏の話は、そういうところに繋がってるって考えていいよ。いいよね?」
念のため確認すると、涼夏は「そうだな」と満足そうに頷いた。涼夏とは十分に意思の疎通が出来ている。
「5分前と今とで、私は何も変わってないし、何なら奈都に対する感情も、去年の夏くらいから今まで、まったく何も変わってないから、なんで今更そんな反応するのか、まったく意味がわかんないんだけど」
100文字くらい使ってゆっくりそう告げると、奈都は頭を抱えて首を振った。
「混乱してる」
「こっちが混乱してるから!」
大袈裟な動きでそう言って、奈都の手を取った。なんだかよくわからないが、少なくとも今は、感動的なTでもPでもOでもない。
涼夏が可笑しそうに頬を緩めて足を踏み出す。私も奈都の手を引きながら、その背中を追って歩き出した。
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正しく言えば、存在はしているけど学校側から認められていない部活だ。
部員数は二名。
部長
超絶美少女系ぼっち、南郷楓
副部長
超絶美少年系ぼっち、北城多々良
これは、ちょっと元ヤンの入っている漫才部メンバーとその回りが織り成す日常を描いただけの物語。
善意一〇〇%の金髪ギャル~彼女を交通事故から救ったら感謝とか同情とか罪悪感を抱えられ俺にかまってくるようになりました~
みずがめ
青春
高校入学前、俺は車に撥ねられそうになっている女性を助けた。そこまではよかったけど、代わりに俺が交通事故に遭ってしまい入院するはめになった。
入学式当日。未だに入院中の俺は高校生活のスタートダッシュに失敗したと落ち込む。
そこへ現れたのは縁もゆかりもないと思っていた金髪ギャルであった。しかし彼女こそ俺が事故から助けた少女だったのだ。
「助けてくれた、お礼……したいし」
苦手な金髪ギャルだろうが、恥じらう乙女の前に健全な男子が逆らえるわけがなかった。
こうして始まった俺と金髪ギャルの関係は、なんやかんやあって(本編にて)ハッピーエンドへと向かっていくのであった。
表紙絵は、あっきコタロウさんのフリーイラストです。
義姉妹百合恋愛
沢谷 暖日
青春
姫川瑞樹はある日、母親を交通事故でなくした。
「再婚するから」
そう言った父親が1ヶ月後連れてきたのは、新しい母親と、美人で可愛らしい義理の妹、楓だった。
次の日から、唐突に楓が急に積極的になる。
それもそのはず、楓にとっての瑞樹は幼稚園の頃の初恋相手だったのだ。
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