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第37話 聖域(2)

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 恵坂に着いてからは、特段何もなかった。もちろんそれは、私の視点だとそうだったというだけで、例えば川波君は初めての男女合同帰宅部だと喜んでいたし、長井さんと涼夏もゲーセンで色々対決して盛り上がっていた。長井さんもバイトをしている一人で、バイトトークにも花を咲かせていた。
 長井さんは涼夏と違って、休みの日にバイトを入れているらしい。もちろん涼夏も土日に働いていることも多いが、基本的には平日シフトだ。
「広田さんは、去年も帰宅部だったの?」
 長井さんが遊んでいる時に聞いてみると、広田さんは大きく頷いた。
「同じ帰宅部で方向も同じだから、岩崎君とよく帰ってたかな」
「男女か」
 無意味に呟くと、広田さんがいたずらっぽい微笑みを浮かべた。
「野阪さんは川波君と仲いいの?」
「もし男子から誰か一人を選ぶなら川波君かな。他の男子とはろくに喋ったこともない」
 あくまでゼロよりはイチという程度だが、広田さんは「そうなんだ」と楽しそうに笑った。誤解してそうな反応だが、改めて否定してもからかわれるだけだろう。
 この子も恋愛トークが好きな、ごく普通の女子という感じだ。もちろん、帰宅部のメンバーも、じっくり付き合って初めてわかったこともたくさんある。広田さんも何かしら変わった個性があるかもしれないが、果たしてそこまでの付き合いになるだろうか。一体この先涼夏はどうするつもりなのだろう。
 今日という日がつまらないわけではない。予定と違ったので上手く気持ちの軌道修正できないだけで、最初からこのメンツで遊ぶと決まっていたなら、もう少し楽しく過ごしていただろう。
 絢音や涼夏と過ごす日々に飽きたということはまったくない。マンネリ感は否めないが、むしろそれをどう打破するかが今年の帰宅部のテーマでもある。涼夏はその解決手段として、新しい人間関係を取り入れようと考えているのかもしれない。
 結局夕方まで遊んで、6人揃って駅に戻った。広田さんと男子二人は上ノ水方面に戻り、長井さんは別の路線に乗り換える。改札まで一緒に行き、彼らについて行くように改札をくぐろうとした私の服を涼夏がつまんだ。そして、もう片方の手をみんなに向けて振った。
「方向違うし、ここで別れるよ。また明日」
 明るい声でそう言った涼夏に、4人が同じように手を振り返して帰っていった。その背中を見送ってから、涼夏が私の手を取って引いた。夜に電話しようとは思っていたが、今すぐに喋りたいらしい。望むところである。
 会社もそろそろ終わる時間で、地下街は混み始めている。人の流れに逆らうように歩き、少し奥まった場所に来ると、涼夏が私の体を壁に押し付けた。そして、正面から抱き付いていきなりキスをしてくる。
 奥まったといっても、普通にすぐそこをたくさんの人が歩いている。木を隠すなら森の中というやつか。少しだけならと目を閉じて唇を吸い合っていたが、涼夏は一向に離してくれなかった。嫌ではないが、盗撮されて「キモいのがいた」とかネットに晒されないか心配だ。
 やがて満足したのか我に返ったのか、涼夏が顔を離して、しばらく潤んだ瞳で私の顔を見つめてから、ギュッと私の背中を引き寄せた。
「ああいうのじゃないんだよ」
 耳元で涼夏が囁く。先程まで過ごしていた時間のことだろうが、具体的に何のことかは曖昧だ。
 すぐそこを、人民がギョッとしたように息を呑んだり、逆にわざとらしく目を背けたりして歩いていく。キスはともかく、女の子が二人で抱擁を交わしているのは日常的な光景だと思うが、私が自分で思うより風景に馴染んでいないのだろうか。
 私が何か言うより先に涼夏が続けた。
「朝はナッちゃん、昼は絢音が千紗都を独占したんだから、帰りは私でしょ。常識的に考えて」
 涼夏が苛立ったように不満を零した。意外と平気なのか、あるいはむしろあれを望んでいるのかとさえ思ったが、まったくそんなことはなかったようで、私は安心して少し笑った。
「長井さんと楽しそうだったけど」
「私は何か間違えた? いきなり距離縮め過ぎでしょ」
 涼夏がげんなりしたように吐き捨てる。温もりは心地良かったが、話しにくかったのでそっと体を離した。
 涼夏は大袈裟にため息をついてから、場所を変えようと私の手を引いた。地上に戻って適当なベンチに腰掛ける。4月の夕暮れは少しだけ肌寒い。肩を寄せ合うと、少し落ち着いたのか、涼夏が冷静な声音で言った。
「朋花は中心的人物だから、まあ仲良くなっておくに越したことはないって思ったわけ。わかる?」
「嫌われたら面倒くさそうだよね」
 頷きながら同意する。女子はグループ意識が強い。大きな輪の端っこにでも置いてもらえる安心感はわかるが、涼夏はそういうものを意識しないタイプだと思った。そう言うと、涼夏は呆れたように肩をすくめた。
「それは千紗都と絢音でしょ。私は去年もたくさん友達作ってたぞ?」
「そう言われるとそうか」
 今日もそうだったが、涼夏は他の友達とお昼にすることも多いし、教室の移動も私たちとは別で行くことがある。ずっと一緒にいる絢音とはスタンスが違う。
「帰りに全力で千紗都と過ごすための布石だよ」
 無念そうに涼夏が首を振った。苦労の多い子だ。
 私はひっそりと生きていたいし、絢音はそもそもグループとか派閥をまったく気にしていない。去年の今頃、私と涼夏以外に何が必要なのかと笑っていたが、今でもそれを貫いている。男兄弟に挟まれて生きている影響かもしれない。考え方が男子のそれだ。
 対して涼夏は、家でも女性としか暮らしていないし、バイト先も女性が多い。そのせいか、私たちの中では一番女社会を意識している。余所行きの笑顔と対応。ずっと一緒にいる私ですら、長井さんと楽しんでいると勘違いした。
「楽しくはあったよ。別に嫌いじゃないし。でも、ああいうのじゃないんだよ」
 もう一度繰り返して、涼夏が私の肩に頭を乗せた。
 要するに、放課後は今まで通り私と絢音と3人で過ごしたいのだ。もはやそれは言葉にする必要がなかったので、「そうだね」と同意を示してから、軽く涼夏の手を握った。
「それで、明日からはどうするの? まあ、明日は涼夏はバイトだけど、今後」
 今日は絢音も付き合ったが、あれは涼夏に合わせただけだ。あの子ははっきりと断るだろうし、長井さんも絢音には声をかけないだろう。あの手のタイプは、断られることを嫌う。そして、絢音がそうすることは容易に想像できる。
 逆に言えば、涼夏は断らないと踏んでの今日だ。長井さんは輪の中心人物だが、メンバーの多くは部活をしている。放課後は猪谷涼夏と過ごしているという箔を付けたい気持ちはわかる。
 今日なまじ一回遊んでしまったので、次から断るのは余計に大変そうだ。涼夏は良くも悪くも社交性が高い。
「知らん。岩崎君に頑張ってもらうしかなかろう」
 涼夏が投げやり気味に息を吐いた。
「岩崎君?」
「恋愛は普通、男女でするものだ」
 涼夏がそう言って笑ってから、私の頬に唇を押し付けた。この子は普通ではない。
 手を握ったまましばらくキスをして、涼夏が吐息を零した。
「今日は川波君にだいぶ千紗都を貸してしまった」
「広田さんに何か誤解されたよ」
「優希はいかにも恋愛事が好きそうだ。あの子がいなかったらもう少し簡単に朋花と岩崎君がくっつく気がするけど、優希からしたら、元々二人でいたところに朋花が入ってきた感じで、余計に状況が複雑になってる」
 涼夏の説明が、いまいち頭に入って来ない。正直なところまったく興味がないのだが、そうも言っていられない。他人の恋愛事に巻き込まれるのは懲り懲りだが、長井さんが自分のヒエラルキーを維持するために涼夏を必要としている以上、対応せざるを得ない。冷たくあしらって戦争になる事態は避けたい。
 ぶっちゃけ、長井さんと広田さんだけなら、たまには遊んでもいいのだが、男子がいる以上そうはいかない。この帰宅部は男子禁制なのだ。
「三角関係なら、私たちみたいに3人で仲良くすればいいのにね」
 岩崎君が二人と付き合えばいい。真顔でそう言うと、涼夏が苦笑いを浮かべた。
「それが自然に出来るのが千紗都のすごいところだし、たぶん男女だと難しいんだよ」
 さすがにそれは理解できる。私がすごいかはともかく、男女3人で旅行したり、手を繋いで歩いたりするのは不自然だ。
「まあ、あの3人を何とかする遊びだと思って付き合って。本当に面倒くさくなったら、千紗都と付き合ってるから邪魔するなって宣言するから」
 涼夏が疲れたようにそう言った。私としても、それは避けたい。涼夏と付き合っている宣言をするのは構わないが、人に恨まれたくはない。その点に関しては、私も涼夏同様、上手に生きたいと思う。
 そろそろ日が沈む。目の前のバス停から、乗客を詰め込んだバスが、赤く染まった西の方へ走っていく。
 もしも今日、長井さんに声をかけられなかったら、涼夏と二人で何をしていただろう。
 変化は歓迎しているが、ああいうのではない。男子がいたせいだろうか。それとも急だったからか。違和感の正体は今一つ掴めないが、少なくとも継続したいと思うものではなかった。
「この場所はね、聖域なんだよ」
 涼夏が街の電飾に瞳をキラキラさせながら、小さな声で呟いた。だいぶ前に私のことをオアシスだと言っていたが、今度は聖域と来た。
 1年の時、極めて狭い人間関係だけで生きていたし、奈都のこともあっさりと受け入れてくれたから気付かなかったが、意外と涼夏の縄張り意識は強いのかもしれない。
 それはとても嬉しいことだ。
 涼夏がこの帰宅部を聖域と呼んでくれるなら、部長の私は全力でそれを守りたい。
 そのために一度、門戸を開いて、なけなしの社交性をもって長井さんの帰宅部と交流しよう。
 若干の矛盾は感じるが、世界は複雑なのだ。
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