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二十四章 ガラスの靴
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……落ち着け、落ち着け。
得物を握った腕の震えを、ラーナは押さえつけた。
「……」
恐ろしくてならなかったから。
この心を救ってくれた恩人の形相が。
こちらを見上げる暗く炯々とした眼差しが。
「ハガー、さん」
最早、訊ねるまでもなかった。
目の前にいるのは、以前の彼とは別の存在だった。
「退け」
ハガーが唸った。鼻に寄ったシワが、正体不明の怒りを物語っていた。唇の隙間から溢れでる灰色の吐息は、さながら燻ぶった感情の残りカスだ。まったく獣じみていた。
「……ダメ。ここ通すわけにいかない」
それでもラーナは訴えかけた。
苦手な言葉でなく態度で。
脆くも砕けてしまいそうな悲痛な眼差しで。
ビョウと風を切り、遠ざかるレイラと魔女の姿は、最早その目に映らなかった。
「でも、戦いたくもない」
ラーナは、ただハガーだけを見つめ続けた。
相手の瞳に、かつての光が戻るときを渇望しながら。
しかしハガーの瞳は、雪の白が濃くなるほどに曇っていった。
「黙れ、盗人が……。〈ガラスの靴〉はオレのものだ」
言葉は、ひたすらに鋭かった。
ラーナはつと胸を見下ろした。傷がないのが不思議でならなかった。
「ボクが判らないの?」
訊ねておきながら、答えないでくれと願っていた。
時間など止まってくれれば。
思い出の中に逃げる事ができたなら――。
「お前なんぞ知るか。いいから道を開けろォ!」
しかし時は動きつづけ、現在はここにある。
灰色の雪が舞った。
ハガーが得物片手に地を蹴ったのだ。
「……くそ」
ラーナは歯を噛みしめ目を瞠った。
そして自らも地を蹴っていた。
衝突は避けられなかった。
覚悟していた。
だから、ここへ来たのではないか。
彼が人でなくなってしまうなら、その前に滅ぼすことが救いなのだと信じて。
「……必要なんだ、オレには」
それなのに。
「救うためにはァ!」
いざ目の前にすると、最後の一歩が踏み出せない――!
「ッ!」
振り下ろされる刃を、とっさに刃で受け止めた。
雪景色に火花が散る。血の涙のごとく。
「……ハガーさん、憶えてるの?」
ラーナは本心を吐露した。
それが醜く穢れた真実の心だった。
そうだ、ボクは……。
何も憶えていて欲しくなかったのだと気付く。
理性さえ残っていなければ、躊躇なく刃を抉りこめたはずだから。
今より苦しまずに済んだから。
「うるさい……」
けれど、ハガーがまだここにいるのなら。
魔獣になった男を討つのではなく、ハガーを殺さなければならないのだと突きつけられてしまったら。
薄っぺらな覚悟など揺らいでしまう。
「退けェ!」
「あぐっ……!」
ハガーの蹴りが腹を抉った。重く容赦ない一撃だった。
そこに振り下ろされる斜めの斬撃!
「くぅ……ぁ!」
上半身を反らし、かろうじて躱した。刃が鼻先をかすめ、包帯が落ちた。醜い傷痕があらわとなった。
ハガーは驚きも恐れもしなかった。爛々と光る目で敵を睨み、横に縦にと短剣をふり回した。
「クソ!」
ラーナはそれを的確に受けながら、いよいよ顔の熱に頼った。眼差しが矢のごとくハガーを射抜いた。
「ぐあッ! なんだ……」
ハガーは目許を押さえた。
ラーナは踏みこんだ。
相手の胸へ跳びこみ、押し倒した。馬乗りになった。手首をがっちりと掴み、ハガーの双眸を覗きこんだ。
「目を覚まして、ハガーさん!」
「邪魔するんじゃねぇ! あれはオレのもんだッ!」
「じゃあ、どうしてあれが欲しいの!」
「必要だからだ。オレの心救うためにはッ!」
「ハガーさんを救うってなに? それって誰のためなの?」
「あ? 決まってんだろうが。オレ以外の誰のためでもねぇ。誰にも渡さねぇ。アハハ! オレはあれと共に生きていくんだァ!」
「この分からず屋ァ!」
ラーナは思いきり頭を突き落とした。バゴと鈍い音が鳴り、二人の額が衝突した。
互いに歯を食いしばり睨み合う。
ハガーの目に、純然たる怒りと憎しみが渦を巻く。
「やっぱり憶えてないんだね……」
「さっきから訳の分からんことばかり。何をしに来たんだ、てめぇは!」
ハガーの言葉は、すべて胸に痛かった。
ラーナは顔をしかめずにはいられなかった。
挫けそうだった。逃げ出してしまいたかった。
けれど、それ以上に救いたかった。
この心を救ってくれた、ハガーの心を。
二人は再び額を触れ合わせた。
今度は、ゆっくりと静かに。
ラーナは告げる。
「……忘れ物を届けに来たんだ」
「は?」
「ボクのことはいい。忘れられたって構わない。その苦しみを受けとめるのはボクだから。でも」
人は勝手な生き物だ。相手に手を差し伸べておきながら、どこかに必ず自分の姿を見ている。
ボクにとって……。
ハガーを殺すことは、自分の心に決着をつけることだった。彼を救うと嘯きながら、その実情はエゴイズムに過ぎなかった。
所詮、そんな卑しい生き物なのだ。
穢れを塗りたくり、醜さに爛れたバケモノなのだ。
辛くて、苦しくて、悲しくてたまらない、弱い存在なのだ。
だが、そんな当然のことが諦める理由になどなるものか。
いつかこの胸を満たしたものも、きっと独りよがりだった。
誰かの独りよがりな言動が、人を救うことだってあるのだ。
なら、独りよがりで結構だ。
この思いさえ、偽物でないのなら。
「ハガーさんが大事に抱えてきたものは憶えていて。愛する人がいる事。そのために生きてきた誇りを」
ラーナはもう一度、相手に額を打ちつけた。
「ッ!」
視界がぐらりと揺れた。
それでも視線だけは真っ直ぐにハガーを見据え続けた。
「忘れるな……忘れるな、ハガーッ!」
額から赤い血が流れた。その一滴が、ハガーの目尻に落ちた。
「なんだよ、わけ分からねぇな……」
ハガーが怒りを吐き出した。
「……」
ラーナはそれを受けとめた。
「クソ……!」
すると突然、ハガーの表情が歪んだ。
苦しげに。悲しげに。怯えるように。
血の赤色が、目尻からつぅとこぼれ落ちた。
「……オレは、なんのために」
「憶えてるはず。ここまで来たんだ、そのために」
思い出さぬままいるほうが、ハガーにとっては楽なのかもしれない。
けれど、楽である事が必ずしも幸福だとは限らない。
もし、それが幸福なのなら、ラーナは、ここには来なかった。
幸福とは、きっと気付きなのだ。
一つの楽しみや喜びの中にあるとは限らない、辛苦にさえ糾われたものなのだ。
だから大切なものを忘れ、無情な現実さえ翳って見えなくなったとき、人生は虚無になり果てる。
「あ、あぁ! オレは……ッ!」
「大丈夫。思い出して。必ず救いがあるから」
ハガーと初めて会ったとき、こうして声をかけたのを思い出す。
死んで欲しくないと思った。生きていて欲しいと願った。
世界がハガーを見捨てるほど残酷ではないと信じたかった。
実状、世界は残酷で、どこまでも無情だった。
『信じるものは、お前が決めろ。そうでなくちゃ、目の前のものにすら気付けない』
それでもラーナは信じる。信じ続けるのだ。
「……あいつを、オレは」
たった一束、たった一筋降りかかった、希望の温もりを。
「エル、マ……」
大切な人と出会えた一瞬を。
「ヴァン」
「ハガーさん……!」
ハガーの眼差しから怒りが霧散した。
途方もない悲しみとそれ以上の喜びが、複雑な渦を描いて、ラーナの胸にまで押し寄せた。
「逃げろ」
しかし目に映る現実の姿は、やはり残酷で。
「……フフ」
ハガーの瞳の奥、鏡のごとく映しだされたラーナの背後に、それは現れた。
「邪魔よ」
婦人帽を載せた闇貌が。
――
時は遡り。
因縁の相手と対峙したレイラは、得物を抜くなり跳びかかった。
両手の中には使い慣れた短剣。
腕に巻きついたロープは宙に踊り狂い、先端に結わえられた短剣を煌めかせる。
「今度こそ殺してやる、ジュスティーヌ!」
咆哮。
と同時に、一方のロープが雪の地面に喰らいつく。ロープが波打ち力を伝える。レイラの身体は前方に弾き出される!
肉薄まで瞬く間もない。
両手とロープ――計三本の刃が雪のなかに閃いた!
「情熱的ね」
しかし斬撃は、ことごとく魔女に届かなかった。踊るような足さばきで二刃を躱され、複雑な軌道で襲いかかる一刃は側面を打って逸らされた。
さらに舞いあがる雪煙を、レースの手袋が穿つ!
レイラは首を曲げて躱し、振り下ろした刃を下から上へ掬い上げた。
ジュスティーヌがその腕を掴む。
身体ごと懐にとびこめば笑った。
「可愛いわ、シンデレラ」
蕩けるような声とともに、レイラの視界が反転する!
「かッ……!」
背中から担ぎあげられるようにして地面へ叩きつけられた!
そこへ迫る、鋭いヒールのストンピング!
レイラは斜面を転がり落ちながら、獣じみた動きで起きあがる。
その時、すでに刃を結わえたロープは、ジュスティーヌへ襲いかかっている。
魔女は先と同じ要領で刃を逸らそうとしたが、
「……!」
接触の直前で手を引っこめた。
その切っ先は小刻みに揺れながら尚且つ回転しているからだ!
「……あァら」
ドレスの袖が裂けた。真白な手首に刻まれる、螺旋状の赤。
「逞しいのね」
そこへもう一方のロープが背後から飛来。
正面からはレイラ本人が接近する。
魔女は動じた様子もなく首を傾げた。
すると次の瞬間、魔女の背景が歪んだ。輪郭を失い、真横に流れる色の奔流と化した。レイラの左半身を殴りつけるような風圧が襲った。
間もなくレイラの視界から魔女の姿が消え失せた!
急速に臓物の沈みこむ感覚が襲い来る。
風圧は左半身から頭上へ。
腕が軋み、雪の紗が濃さを増す。
レイラは眼下を見下ろす。ロープを放ったジュスティーヌの闇貌を凝視する。
「な……ッ」
身体が――浮いている。
ロープごと宙へ投げだされている!
「クソッ」
レイラは追撃を諦め手中の短剣を収めると、ロープの切っ先に意識を集中した。虚空を舞ったロープを地面に突き刺し、落下のエネルギーを微調整しつつ敵を警戒する。
ところがジュスティーヌは追撃にでるどころか、山の斜面を駆けあがり始めた!
まずい……!
狙いはすぐにわかった。
山頂だ。
あそこには奇怪に蠢く樹木――〈ガラスの靴〉の欠片がある!
「させるか……!」
レイラはあえて力を前に送りだした。
山頂付近への落下を試みる。
衝撃緩和は不十分だ。高さもまだかなりある。
だが賭けるしかない。
欠片を奪われれば、今度こそ魔獣は完成する。それではまたジュスティーヌを取り逃がす。
「忘れるな、ハガーッ!」
……あいつの思いも無駄になる。
「うおあああああああッ!」
レイラは叫び、放物線を描きながら斜面にとび込んで行く!
魂の炎の熱を全身に行き渡らせる!
復讐心を、失ってきたものの虚しさを、ほんの一瞬交わった者たちの嘆きをくべる!
衝突の瞬間、レイラは身体を捻りエネルギーの相殺を試みた!
「うううぅぅぅっあああッ!」
しかし全身に返る力は凄まじい。左手の指がメキメキと嫌な音をたて、肘や肩といった間接部で肉の潰れる激痛がはしった。
無様に斜面を転がり、やがてくの字姿勢で山頂の縁に止まった。
「う、うあ……ぁ!」
レイラは滲んだ血の味ごと奥歯を噛みしめ、右半身の力だけで起き上がろうとする。
その眼前に深緑のドレスが揺れる。
場違いなハイヒールが雪を踏みしめ、傍らを過ぎった。
レイラは異能の力で横たわったロープを呼び戻す。短剣が鎌首をもたげ、魔女の背に襲いかかる。
その時、刃のようなヒールが、
「あっが、あぁッ!」
投げだされた左手を踏み付けた。
激痛に視界がかすみ、飛来した刃は虚空を穿った。
ジュスティーヌはそれを顧みもせず、異形の樹へと歩み寄っていく。
レイラは遠のいた己を引き留め、ふたたび魂の炎にくべる。
ロープの力で身体を支え、震えながら立ちあがる。
もう一方のロープが息を吹き返す。
袖を振って収めた短剣を右手に抜き放ち、足許の雪を蹴る。
耳もとで風が唸り、空がゴゴゴと喉を鳴らす。
ジュスティーヌが振り返り構える。
「ヌアぁ!」
レイラは手中の短剣を閃かせる。
異能の刃は足を狙う。
「フフ……」
その時、魔女の足許に半円が刻まれた。
空の手は残像を伴いかすんだ。
受け流されるか、掴まれるか。
手数を一つ失った今、勝機は遠い。
だが、残された刃は三本だ。
「無駄よ」
腕を掴まれ、ロープを躱されても。
「まだだ!」
手数はもう一つ残っている。
ジュスティーヌ本体へ向かわず、足許に脈動するロープ。
それが突如びくんと震えあがり、雪を撥ね上げた。
「……!」
魔女の漆黒のベールを雪の純白が覆い隠す!
その一瞬の硬直。
レイラは踏みこみ、敵の左足を踏んだ!
「……っらあああああァ!」
そして、渾身の力で頭突きを叩きこむ!
「ぐあ……ッ!」
右腕を掴んだ力が緩む。
レイラはそれを振り解き、短剣をまっすぐに突き出した!
ジュスティーヌはとっさに胸を抱いた。刃が腕に突き刺さった。
ビョウ!
直後、魔女の背後で風が啼く。
足を踏まれ、躱すことはできない。
ところが、魔女の腕が人間離れした挙動で後ろへ折れ曲がる。
それが刃を上から叩き落とす。
「ッ!」
しかし、それすらも想定内だ。
接触の寸前、刃は軌道を変えている。
斜めに急降下――。
「あらま……?」
魔女の右足首を斬り飛ばした!
……ここだ!
レイラは勝機を垣間見た。
相手の腕に刺さった短剣を抜いた。逆手に構えた。傾ぐ魔女の首目がけ振り下ろした!
「強くなったわね」
その風圧でベールが揺れた。あらわになった唇がにぃと歪んだ。
と同時、視界の端に過ぎるものが見えた。
先のない足だと気付いたときには遅かった。
こめかみに痛みが突き抜ける!
「ガ……ッ!」
身体が真横へ吹っ飛ぶ!
ジュスティーヌは勢い倒れこむと同時、三連続で後転した。
その背が脈打つ幹に触れた。
「フフ、今回もあなたの負けね?」
レイラは姿勢をたて直し、目を剥いた。
「足を失っておいて何を。もう逃げられんぞ」
「あらァ、ワタシの力を忘れたの?」
ジュスティーヌはくつくつと笑い、幹に白い手のひらを重ねた。
「クソ!」
レイラは顔をしかめた。
奴の名はジュスティーヌ。
またの名を〈闇貌の魔女〉。
神話における動物のルーツ。
植物に動物を孕ませ、神の箱庭を賑わわせた始祖の人間。
その真偽は定かではない。
だが、レイラは知っている。
魔女と幾度も切り結ぶ中で。
少なくとも、その一部が真実である事を。
「死ね!」
ロープが唸る。風が切れる。
魔女の胸もとに刃が迫る!
ザクッ!
刃が肉を抉る!
肉から血がしぶく!
「フフフ……」
しかしジュスティーヌは無傷だった。
刃が貫いたのは、彼女の前にとつじょ現れた巨大な獣の足だった。
それはミチミチと啼く樹木から生えていた。
さらに樹皮は歪み、繊維状に分かれ、雪の色を滲みこませたように白く染まる。
やがてそれはもう一本の足を成し、たちまち狼の頭、胴、後足、尾を形作り、魔女の傍らに現出した。
「遊んであげなさい」
魔女の甘い声に、白狼の耳がぴくんと逆立った。
その輪郭が霞のごとくぼやけた。一面の白に、黄金色の双眸が残像の尾をひいた。
左腕のロープが地面を噛み、レイラは真横に跳んだ。白狼の爪牙が虚空を裂いた。
「ぁッ!」
しかし左腕の痛みは凄烈だ。反撃にまで意識が回らない。
一方ジュスティーヌは、白狼の生みだされた空洞に片手を突っこんだ。
そうして摘まみだされたのは、ほんの一インチほどの欠片だった。やや青みがかって透明なガラスの破片だった。
ところが、その周囲の空間だけは、水に浸ったように歪んでいた。
舞い落ちる雪は、それを避けて魔女の手のうえで融ける。
〈ガラスの靴〉の欠片だった。
ミチ、ミチ……。
間もなく異形の樹の脈動が止まる。蠢く鱗片状の葉がぼとぼとと崩れ落ちる。
パキパキ。
見る見るうちに樹皮が割れ、一つふたつと枝が落ちる。
「さあ、おいでなさい」
傍らに転がった一つを、魔女はイノシシに変身させた。それを支えに立ちあがった。
「逃がすかァ!」
レイラの右腕のロープが脈打ち空を馳せた!
「グル……ゥ!」
そこに割りこむ白狼!
獣の脇腹に刃が突き刺さり、毛皮を赤く染め上げる!
その隙にジュスティーヌは、イノシシに飛び乗った。
猪突猛進。雪上を裂き始める!
「うぅああ!」
レイラの背中が燃えるような熱を発した。
両腕のロープがどくんと拍動した。白狼に突き刺さった短剣が、そのまま肉を真横に裂いた。臓物が溢れだし、白狼が痙攣した。
左腕のロープが雪を噛む!
レイラは高く跳躍する!
「……あああぁあああぁああ!」
左腕とともに絶叫する。
ブチブチと筋肉の切れる音。
石を擦り合わせたように関節が軋み、意識まで雪色に染めあげられる。
だが、その眼下にジュスティーヌの背中。
レイラは空中で短剣を投擲する!
「ビイィィイィッ!」
それは魔女でなくイノシシの後足を断った。
魔女が雪上に投げだされ、斜面を転がり落ちた。
「ぐはッ!」
レイラもまた斜面に投げだされた。
しかし彼女を打ち出したロープは、地面を噛んだままだ。伸びきったロープがレイラの動きを止め、左腕の痛みは意識を焦がした。
ジュスティーヌはふらつきながら立ちあがる。片足を引きずり、組み伏せられたハガーの許へ歩み寄る。
「フフ……邪魔よ」
「うが……ッ!」
先の欠けた足でラーナを蹴り飛ばした。
ハガーを見下ろすと、手に握ったそれを放した。
「待、て……」
ハガーは呻いた。
その額に、落ちた欠片が触れた。
たちまち額の皮膚が波紋をうった。水面のごとく揺らいだ。
……ズブ。
欠片は沈みはじめた。体内に沈んでいった。
「オレには、帰る、場所が……」
譫言をもらすハガーの許に、魔女は屈みこんだ。ベールを持ちあげ真紅の唇をあらわにした。うねる舌が唇を舐め、その隙間から無機質な白い歯が覗いた。
次の瞬間、ジュスティーヌは口づけした。
「う……ッ!」
ハガーが目を剥いた。
……ドクン。
その背が反りかえった。
……ドクン。
稲光が空を裂いた。
ドクン。
大気が鳴動した。
得物を握った腕の震えを、ラーナは押さえつけた。
「……」
恐ろしくてならなかったから。
この心を救ってくれた恩人の形相が。
こちらを見上げる暗く炯々とした眼差しが。
「ハガー、さん」
最早、訊ねるまでもなかった。
目の前にいるのは、以前の彼とは別の存在だった。
「退け」
ハガーが唸った。鼻に寄ったシワが、正体不明の怒りを物語っていた。唇の隙間から溢れでる灰色の吐息は、さながら燻ぶった感情の残りカスだ。まったく獣じみていた。
「……ダメ。ここ通すわけにいかない」
それでもラーナは訴えかけた。
苦手な言葉でなく態度で。
脆くも砕けてしまいそうな悲痛な眼差しで。
ビョウと風を切り、遠ざかるレイラと魔女の姿は、最早その目に映らなかった。
「でも、戦いたくもない」
ラーナは、ただハガーだけを見つめ続けた。
相手の瞳に、かつての光が戻るときを渇望しながら。
しかしハガーの瞳は、雪の白が濃くなるほどに曇っていった。
「黙れ、盗人が……。〈ガラスの靴〉はオレのものだ」
言葉は、ひたすらに鋭かった。
ラーナはつと胸を見下ろした。傷がないのが不思議でならなかった。
「ボクが判らないの?」
訊ねておきながら、答えないでくれと願っていた。
時間など止まってくれれば。
思い出の中に逃げる事ができたなら――。
「お前なんぞ知るか。いいから道を開けろォ!」
しかし時は動きつづけ、現在はここにある。
灰色の雪が舞った。
ハガーが得物片手に地を蹴ったのだ。
「……くそ」
ラーナは歯を噛みしめ目を瞠った。
そして自らも地を蹴っていた。
衝突は避けられなかった。
覚悟していた。
だから、ここへ来たのではないか。
彼が人でなくなってしまうなら、その前に滅ぼすことが救いなのだと信じて。
「……必要なんだ、オレには」
それなのに。
「救うためにはァ!」
いざ目の前にすると、最後の一歩が踏み出せない――!
「ッ!」
振り下ろされる刃を、とっさに刃で受け止めた。
雪景色に火花が散る。血の涙のごとく。
「……ハガーさん、憶えてるの?」
ラーナは本心を吐露した。
それが醜く穢れた真実の心だった。
そうだ、ボクは……。
何も憶えていて欲しくなかったのだと気付く。
理性さえ残っていなければ、躊躇なく刃を抉りこめたはずだから。
今より苦しまずに済んだから。
「うるさい……」
けれど、ハガーがまだここにいるのなら。
魔獣になった男を討つのではなく、ハガーを殺さなければならないのだと突きつけられてしまったら。
薄っぺらな覚悟など揺らいでしまう。
「退けェ!」
「あぐっ……!」
ハガーの蹴りが腹を抉った。重く容赦ない一撃だった。
そこに振り下ろされる斜めの斬撃!
「くぅ……ぁ!」
上半身を反らし、かろうじて躱した。刃が鼻先をかすめ、包帯が落ちた。醜い傷痕があらわとなった。
ハガーは驚きも恐れもしなかった。爛々と光る目で敵を睨み、横に縦にと短剣をふり回した。
「クソ!」
ラーナはそれを的確に受けながら、いよいよ顔の熱に頼った。眼差しが矢のごとくハガーを射抜いた。
「ぐあッ! なんだ……」
ハガーは目許を押さえた。
ラーナは踏みこんだ。
相手の胸へ跳びこみ、押し倒した。馬乗りになった。手首をがっちりと掴み、ハガーの双眸を覗きこんだ。
「目を覚まして、ハガーさん!」
「邪魔するんじゃねぇ! あれはオレのもんだッ!」
「じゃあ、どうしてあれが欲しいの!」
「必要だからだ。オレの心救うためにはッ!」
「ハガーさんを救うってなに? それって誰のためなの?」
「あ? 決まってんだろうが。オレ以外の誰のためでもねぇ。誰にも渡さねぇ。アハハ! オレはあれと共に生きていくんだァ!」
「この分からず屋ァ!」
ラーナは思いきり頭を突き落とした。バゴと鈍い音が鳴り、二人の額が衝突した。
互いに歯を食いしばり睨み合う。
ハガーの目に、純然たる怒りと憎しみが渦を巻く。
「やっぱり憶えてないんだね……」
「さっきから訳の分からんことばかり。何をしに来たんだ、てめぇは!」
ハガーの言葉は、すべて胸に痛かった。
ラーナは顔をしかめずにはいられなかった。
挫けそうだった。逃げ出してしまいたかった。
けれど、それ以上に救いたかった。
この心を救ってくれた、ハガーの心を。
二人は再び額を触れ合わせた。
今度は、ゆっくりと静かに。
ラーナは告げる。
「……忘れ物を届けに来たんだ」
「は?」
「ボクのことはいい。忘れられたって構わない。その苦しみを受けとめるのはボクだから。でも」
人は勝手な生き物だ。相手に手を差し伸べておきながら、どこかに必ず自分の姿を見ている。
ボクにとって……。
ハガーを殺すことは、自分の心に決着をつけることだった。彼を救うと嘯きながら、その実情はエゴイズムに過ぎなかった。
所詮、そんな卑しい生き物なのだ。
穢れを塗りたくり、醜さに爛れたバケモノなのだ。
辛くて、苦しくて、悲しくてたまらない、弱い存在なのだ。
だが、そんな当然のことが諦める理由になどなるものか。
いつかこの胸を満たしたものも、きっと独りよがりだった。
誰かの独りよがりな言動が、人を救うことだってあるのだ。
なら、独りよがりで結構だ。
この思いさえ、偽物でないのなら。
「ハガーさんが大事に抱えてきたものは憶えていて。愛する人がいる事。そのために生きてきた誇りを」
ラーナはもう一度、相手に額を打ちつけた。
「ッ!」
視界がぐらりと揺れた。
それでも視線だけは真っ直ぐにハガーを見据え続けた。
「忘れるな……忘れるな、ハガーッ!」
額から赤い血が流れた。その一滴が、ハガーの目尻に落ちた。
「なんだよ、わけ分からねぇな……」
ハガーが怒りを吐き出した。
「……」
ラーナはそれを受けとめた。
「クソ……!」
すると突然、ハガーの表情が歪んだ。
苦しげに。悲しげに。怯えるように。
血の赤色が、目尻からつぅとこぼれ落ちた。
「……オレは、なんのために」
「憶えてるはず。ここまで来たんだ、そのために」
思い出さぬままいるほうが、ハガーにとっては楽なのかもしれない。
けれど、楽である事が必ずしも幸福だとは限らない。
もし、それが幸福なのなら、ラーナは、ここには来なかった。
幸福とは、きっと気付きなのだ。
一つの楽しみや喜びの中にあるとは限らない、辛苦にさえ糾われたものなのだ。
だから大切なものを忘れ、無情な現実さえ翳って見えなくなったとき、人生は虚無になり果てる。
「あ、あぁ! オレは……ッ!」
「大丈夫。思い出して。必ず救いがあるから」
ハガーと初めて会ったとき、こうして声をかけたのを思い出す。
死んで欲しくないと思った。生きていて欲しいと願った。
世界がハガーを見捨てるほど残酷ではないと信じたかった。
実状、世界は残酷で、どこまでも無情だった。
『信じるものは、お前が決めろ。そうでなくちゃ、目の前のものにすら気付けない』
それでもラーナは信じる。信じ続けるのだ。
「……あいつを、オレは」
たった一束、たった一筋降りかかった、希望の温もりを。
「エル、マ……」
大切な人と出会えた一瞬を。
「ヴァン」
「ハガーさん……!」
ハガーの眼差しから怒りが霧散した。
途方もない悲しみとそれ以上の喜びが、複雑な渦を描いて、ラーナの胸にまで押し寄せた。
「逃げろ」
しかし目に映る現実の姿は、やはり残酷で。
「……フフ」
ハガーの瞳の奥、鏡のごとく映しだされたラーナの背後に、それは現れた。
「邪魔よ」
婦人帽を載せた闇貌が。
――
時は遡り。
因縁の相手と対峙したレイラは、得物を抜くなり跳びかかった。
両手の中には使い慣れた短剣。
腕に巻きついたロープは宙に踊り狂い、先端に結わえられた短剣を煌めかせる。
「今度こそ殺してやる、ジュスティーヌ!」
咆哮。
と同時に、一方のロープが雪の地面に喰らいつく。ロープが波打ち力を伝える。レイラの身体は前方に弾き出される!
肉薄まで瞬く間もない。
両手とロープ――計三本の刃が雪のなかに閃いた!
「情熱的ね」
しかし斬撃は、ことごとく魔女に届かなかった。踊るような足さばきで二刃を躱され、複雑な軌道で襲いかかる一刃は側面を打って逸らされた。
さらに舞いあがる雪煙を、レースの手袋が穿つ!
レイラは首を曲げて躱し、振り下ろした刃を下から上へ掬い上げた。
ジュスティーヌがその腕を掴む。
身体ごと懐にとびこめば笑った。
「可愛いわ、シンデレラ」
蕩けるような声とともに、レイラの視界が反転する!
「かッ……!」
背中から担ぎあげられるようにして地面へ叩きつけられた!
そこへ迫る、鋭いヒールのストンピング!
レイラは斜面を転がり落ちながら、獣じみた動きで起きあがる。
その時、すでに刃を結わえたロープは、ジュスティーヌへ襲いかかっている。
魔女は先と同じ要領で刃を逸らそうとしたが、
「……!」
接触の直前で手を引っこめた。
その切っ先は小刻みに揺れながら尚且つ回転しているからだ!
「……あァら」
ドレスの袖が裂けた。真白な手首に刻まれる、螺旋状の赤。
「逞しいのね」
そこへもう一方のロープが背後から飛来。
正面からはレイラ本人が接近する。
魔女は動じた様子もなく首を傾げた。
すると次の瞬間、魔女の背景が歪んだ。輪郭を失い、真横に流れる色の奔流と化した。レイラの左半身を殴りつけるような風圧が襲った。
間もなくレイラの視界から魔女の姿が消え失せた!
急速に臓物の沈みこむ感覚が襲い来る。
風圧は左半身から頭上へ。
腕が軋み、雪の紗が濃さを増す。
レイラは眼下を見下ろす。ロープを放ったジュスティーヌの闇貌を凝視する。
「な……ッ」
身体が――浮いている。
ロープごと宙へ投げだされている!
「クソッ」
レイラは追撃を諦め手中の短剣を収めると、ロープの切っ先に意識を集中した。虚空を舞ったロープを地面に突き刺し、落下のエネルギーを微調整しつつ敵を警戒する。
ところがジュスティーヌは追撃にでるどころか、山の斜面を駆けあがり始めた!
まずい……!
狙いはすぐにわかった。
山頂だ。
あそこには奇怪に蠢く樹木――〈ガラスの靴〉の欠片がある!
「させるか……!」
レイラはあえて力を前に送りだした。
山頂付近への落下を試みる。
衝撃緩和は不十分だ。高さもまだかなりある。
だが賭けるしかない。
欠片を奪われれば、今度こそ魔獣は完成する。それではまたジュスティーヌを取り逃がす。
「忘れるな、ハガーッ!」
……あいつの思いも無駄になる。
「うおあああああああッ!」
レイラは叫び、放物線を描きながら斜面にとび込んで行く!
魂の炎の熱を全身に行き渡らせる!
復讐心を、失ってきたものの虚しさを、ほんの一瞬交わった者たちの嘆きをくべる!
衝突の瞬間、レイラは身体を捻りエネルギーの相殺を試みた!
「うううぅぅぅっあああッ!」
しかし全身に返る力は凄まじい。左手の指がメキメキと嫌な音をたて、肘や肩といった間接部で肉の潰れる激痛がはしった。
無様に斜面を転がり、やがてくの字姿勢で山頂の縁に止まった。
「う、うあ……ぁ!」
レイラは滲んだ血の味ごと奥歯を噛みしめ、右半身の力だけで起き上がろうとする。
その眼前に深緑のドレスが揺れる。
場違いなハイヒールが雪を踏みしめ、傍らを過ぎった。
レイラは異能の力で横たわったロープを呼び戻す。短剣が鎌首をもたげ、魔女の背に襲いかかる。
その時、刃のようなヒールが、
「あっが、あぁッ!」
投げだされた左手を踏み付けた。
激痛に視界がかすみ、飛来した刃は虚空を穿った。
ジュスティーヌはそれを顧みもせず、異形の樹へと歩み寄っていく。
レイラは遠のいた己を引き留め、ふたたび魂の炎にくべる。
ロープの力で身体を支え、震えながら立ちあがる。
もう一方のロープが息を吹き返す。
袖を振って収めた短剣を右手に抜き放ち、足許の雪を蹴る。
耳もとで風が唸り、空がゴゴゴと喉を鳴らす。
ジュスティーヌが振り返り構える。
「ヌアぁ!」
レイラは手中の短剣を閃かせる。
異能の刃は足を狙う。
「フフ……」
その時、魔女の足許に半円が刻まれた。
空の手は残像を伴いかすんだ。
受け流されるか、掴まれるか。
手数を一つ失った今、勝機は遠い。
だが、残された刃は三本だ。
「無駄よ」
腕を掴まれ、ロープを躱されても。
「まだだ!」
手数はもう一つ残っている。
ジュスティーヌ本体へ向かわず、足許に脈動するロープ。
それが突如びくんと震えあがり、雪を撥ね上げた。
「……!」
魔女の漆黒のベールを雪の純白が覆い隠す!
その一瞬の硬直。
レイラは踏みこみ、敵の左足を踏んだ!
「……っらあああああァ!」
そして、渾身の力で頭突きを叩きこむ!
「ぐあ……ッ!」
右腕を掴んだ力が緩む。
レイラはそれを振り解き、短剣をまっすぐに突き出した!
ジュスティーヌはとっさに胸を抱いた。刃が腕に突き刺さった。
ビョウ!
直後、魔女の背後で風が啼く。
足を踏まれ、躱すことはできない。
ところが、魔女の腕が人間離れした挙動で後ろへ折れ曲がる。
それが刃を上から叩き落とす。
「ッ!」
しかし、それすらも想定内だ。
接触の寸前、刃は軌道を変えている。
斜めに急降下――。
「あらま……?」
魔女の右足首を斬り飛ばした!
……ここだ!
レイラは勝機を垣間見た。
相手の腕に刺さった短剣を抜いた。逆手に構えた。傾ぐ魔女の首目がけ振り下ろした!
「強くなったわね」
その風圧でベールが揺れた。あらわになった唇がにぃと歪んだ。
と同時、視界の端に過ぎるものが見えた。
先のない足だと気付いたときには遅かった。
こめかみに痛みが突き抜ける!
「ガ……ッ!」
身体が真横へ吹っ飛ぶ!
ジュスティーヌは勢い倒れこむと同時、三連続で後転した。
その背が脈打つ幹に触れた。
「フフ、今回もあなたの負けね?」
レイラは姿勢をたて直し、目を剥いた。
「足を失っておいて何を。もう逃げられんぞ」
「あらァ、ワタシの力を忘れたの?」
ジュスティーヌはくつくつと笑い、幹に白い手のひらを重ねた。
「クソ!」
レイラは顔をしかめた。
奴の名はジュスティーヌ。
またの名を〈闇貌の魔女〉。
神話における動物のルーツ。
植物に動物を孕ませ、神の箱庭を賑わわせた始祖の人間。
その真偽は定かではない。
だが、レイラは知っている。
魔女と幾度も切り結ぶ中で。
少なくとも、その一部が真実である事を。
「死ね!」
ロープが唸る。風が切れる。
魔女の胸もとに刃が迫る!
ザクッ!
刃が肉を抉る!
肉から血がしぶく!
「フフフ……」
しかしジュスティーヌは無傷だった。
刃が貫いたのは、彼女の前にとつじょ現れた巨大な獣の足だった。
それはミチミチと啼く樹木から生えていた。
さらに樹皮は歪み、繊維状に分かれ、雪の色を滲みこませたように白く染まる。
やがてそれはもう一本の足を成し、たちまち狼の頭、胴、後足、尾を形作り、魔女の傍らに現出した。
「遊んであげなさい」
魔女の甘い声に、白狼の耳がぴくんと逆立った。
その輪郭が霞のごとくぼやけた。一面の白に、黄金色の双眸が残像の尾をひいた。
左腕のロープが地面を噛み、レイラは真横に跳んだ。白狼の爪牙が虚空を裂いた。
「ぁッ!」
しかし左腕の痛みは凄烈だ。反撃にまで意識が回らない。
一方ジュスティーヌは、白狼の生みだされた空洞に片手を突っこんだ。
そうして摘まみだされたのは、ほんの一インチほどの欠片だった。やや青みがかって透明なガラスの破片だった。
ところが、その周囲の空間だけは、水に浸ったように歪んでいた。
舞い落ちる雪は、それを避けて魔女の手のうえで融ける。
〈ガラスの靴〉の欠片だった。
ミチ、ミチ……。
間もなく異形の樹の脈動が止まる。蠢く鱗片状の葉がぼとぼとと崩れ落ちる。
パキパキ。
見る見るうちに樹皮が割れ、一つふたつと枝が落ちる。
「さあ、おいでなさい」
傍らに転がった一つを、魔女はイノシシに変身させた。それを支えに立ちあがった。
「逃がすかァ!」
レイラの右腕のロープが脈打ち空を馳せた!
「グル……ゥ!」
そこに割りこむ白狼!
獣の脇腹に刃が突き刺さり、毛皮を赤く染め上げる!
その隙にジュスティーヌは、イノシシに飛び乗った。
猪突猛進。雪上を裂き始める!
「うぅああ!」
レイラの背中が燃えるような熱を発した。
両腕のロープがどくんと拍動した。白狼に突き刺さった短剣が、そのまま肉を真横に裂いた。臓物が溢れだし、白狼が痙攣した。
左腕のロープが雪を噛む!
レイラは高く跳躍する!
「……あああぁあああぁああ!」
左腕とともに絶叫する。
ブチブチと筋肉の切れる音。
石を擦り合わせたように関節が軋み、意識まで雪色に染めあげられる。
だが、その眼下にジュスティーヌの背中。
レイラは空中で短剣を投擲する!
「ビイィィイィッ!」
それは魔女でなくイノシシの後足を断った。
魔女が雪上に投げだされ、斜面を転がり落ちた。
「ぐはッ!」
レイラもまた斜面に投げだされた。
しかし彼女を打ち出したロープは、地面を噛んだままだ。伸びきったロープがレイラの動きを止め、左腕の痛みは意識を焦がした。
ジュスティーヌはふらつきながら立ちあがる。片足を引きずり、組み伏せられたハガーの許へ歩み寄る。
「フフ……邪魔よ」
「うが……ッ!」
先の欠けた足でラーナを蹴り飛ばした。
ハガーを見下ろすと、手に握ったそれを放した。
「待、て……」
ハガーは呻いた。
その額に、落ちた欠片が触れた。
たちまち額の皮膚が波紋をうった。水面のごとく揺らいだ。
……ズブ。
欠片は沈みはじめた。体内に沈んでいった。
「オレには、帰る、場所が……」
譫言をもらすハガーの許に、魔女は屈みこんだ。ベールを持ちあげ真紅の唇をあらわにした。うねる舌が唇を舐め、その隙間から無機質な白い歯が覗いた。
次の瞬間、ジュスティーヌは口づけした。
「う……ッ!」
ハガーが目を剥いた。
……ドクン。
その背が反りかえった。
……ドクン。
稲光が空を裂いた。
ドクン。
大気が鳴動した。
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