とある夜に

笹野にゃん吉

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徒然な箱庭〈前篇〉

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 誰かにに首根っこを叩かれた気がして、ハッと目を覚ますと電車の中でした。
 眼前は開けていて、他に乗客の姿はありません。外はとっぷりと闇に浸って、窓は透けた鏡のようでした。
 うつりこんだ私の姿は、いかにもくたびれたおじさんという風情です。あごの下に溜めこんだ肉や薄くなった頭髪、目尻に刻まれたふかいシワのあとは、時間という小悪魔に突きつけられた槍のようにちくりと心を刺しました。傷口からは過去への羨望が溢れだします。

 とはいえ、思い返される青春時代は、別段華やかなものではありません。現在と比較すれば美しく思えるそれはきっと錯覚で。人並みの平凡なものに過ぎないのです。特別になりたい、なりたかったと望むほど、自分が凡庸な人間だと認めなければならないようで。時間とはただひたすらに忙しなく空虚なものでした。

「ああ、いけない……」

 しかし私がいま煩わされるべきは、そのようなことではありません。
 肝心なことを忘れているのに気付きます。
 ここは電車の中なのです。いずれ降りなければなりません。私の青春がいつか終わったように、電車にも終点があるのです。あるいは終点の前に降りなければならない。それが世のルールですから。

「ん……?」

 ところが、どうしたことでしょう。
 電車の電光板には次の駅どころか、なんの表示もされていないではありませんか。まるで、そこまで真っ暗な窓と同じになってしまったように。焦りや恐怖、あるいは惨めさばかりを胸に過ぎらせるのです。

 不審に思った私は、窓に額をはりつけるようにして闇を覗きました。
 すると、外に薄らと白い帯のようなものが揺蕩うのが見えます。景色らしい景色はなく、ただ濃淡が絶えず変化して無限に伸びている、霧でした。霧のなかには、時折、蛍のようにぽうと明かりが灯ります。赤というには優しすぎ、黄金というには哀しすぎる、あえかな明かりでした。

 どうも様子がおかしいと思った私は、衝き動かされるように立ち上がりました。車掌の一人でも捕まえて行き先を訊ねたいと思っていましたし、他の乗客でもいいので、とにかく独りでないことを確かめたかったのです。
 
 しかし衝動は、膝の上からすべり落ちて、サッと消え去ってしまうのでした。

「あっ」

 何故なら、私の足許に一冊の日記帳がこぼれ落ちたからです。最初からそこにあったわけでも、虚空から落ちてきたわけでもないようでした。それは私の膝のうえにあって、立ちあがると同時に落っことしてしまったものでした。

 不思議なことに見覚えはありません。私のものではないように思えます。誰かがこっそり膝の上に置いて去ったのか、私が忘れているだけなのか解りません。
 ただそのまま放っておく気にはなれないものですから、とりあえず拾って座席に置いてみます。

 日記帳には鍵のかかったカバーが巻いてあって、幸い、ページが曲がったりはしていないようです。表に裏にと確認してみますが、誰の名前もありませんし、なにか分別するためのタイトルが書かれているわけでもありません。ただ四隅がほんの少し曲がっていたり萎れていたりするので、どうやら新品でないことだけは確かでした。

 私は改めて車内を見渡しますが、やはり他に誰も乗っていない様子です。だとすれば、これは私のものなのでしょうか。見覚えはないものの、開いて中身を見たい欲求に駆られます。ですが、私のものでなかったとしたら? 他人の個人的な秘密を覗いてしまうのは気が引けるものです。

「うーん」

 私はしばし迷いました。それよりも電車の行き先を調べなければならないと、理性に叱咤されながら。

 にもかかわらず私は、日記帳のことが気になって仕方がないのです。おいでおいでと誘われている気にすらなります。

 そして、どうせ鍵のかかったカバーで封がされているのだから、中身を見ることはできないだろう。そう言い聞かせながら、日記帳のカバーに触れたのでした。

「……っ」

 すると、どうでしょう。
 カバーはいとも容易く外れてしまいました。待ってましたとばかりに、すんなりと開いたのです。
 ダメだダメだの声は、まだ耳の奥でがなっていました。けれど人間とは弱いものですね。知りたいとする好奇心のほうが勝ってしまい、後々罪悪感に苦しむと解っていながら、私は日記帳を読み始めてしまうのでした。

「ああ……」

 ところが、私の胸を侵すのは罪悪感ではありませんでした。ふいに車内がしんと凍えたように、胸の内側が寒さを訴えたのです。

 日記の内容は、概ねこのようなものでした。

『△月〇日

 この歳になって、耐えられる事は増えてきたように感じていたが今日のはコタえた。家族というのは容赦がない。「お父さん汚い」か……。身なりには気を付けてきたつもりだったし、まだ加齢臭がするには早い年齢だとばかり思っていたが、そうでもないのかもしれない。
 愛とはむなしいものだ。報われるとは限らない。「パパ大好き!」と私を抱きしめてくれた娘は幻想だったのだろうか。父とはむなしい生き物だ』


『〇月×日

 家内とケンカをした。これで何度目になるだろう。毎日のように繰り返される口論。さすがにうんざりとしてきた。
 そういえば、近頃の若者は恋愛結婚をするのが一般的らしい。不思議なもので、私が若い頃はあまり羨ましいとは感じなかったが。最近結婚した竹内くんなどを見ていると、惚気話ひとつなくとも幸せそうな様子で、ついつい羨ましいなぁと思ってしまう。
 私も家内とそのような出逢い方をしたなら、もっと幸せな人生を送ってこられたのだろうか?』


『□月△日

 少年や青年と言われる時期には、どうしてあんなにも盲目に友情を信じられたのだろう。永遠に続くものなどありはしないのに、当時もそうと理屈の上では理解しているはずだったのに、友情は永久に燃え続ける炎のように感じられたものだ。
 懐かしいなぁ。
 初老と言われる歳になってみると、友情とはなんと儚く脆いものだろうかと感じずにはおれない。あの頃、永遠を信じた友人が、何人周りに残っているだろう。
 頑なだった鋼の心は、今や水銀のように待ち受ける悲哀や押し寄せる苦難を呑みこんでしまえるけれど。ふとした瞬間に鋼の硬さを思い出し、孤独であることを思い知る。私は弱い人間だ』


 私はそれらを他人事のようには感じられませんでした。むしろ、そのすべてが私自身の体験であるかのように思われてなりませんでした。

 いや、そんなはずは……。

 と一蹴しようとして、私は背中に氷の刃を突きつけられたような恐怖に震えました。日記の出来事が、自分の記憶のなかに反芻できたからではありません。
 
 むしろ、その逆なのです。

 私はハッと日記帳から顔をあげました。呼応するように、車内の明かりが明滅しました。

「私は、なにをしていたんだ……?」

 とっさに頭を抱えて唸りだせば、電車はキキィとブレーキの音を鳴らします。
 それが頭のなかで耳鳴りのように響いてやんでくれません。電車は少しも速度を落としていないのに、ブレーキばかりが耳に痛いのです。
 両手で耳を塞いでも効果はありませんでした。それどころか体調はますますおかしくなって、全身を汗の感触がつたい、密閉されたはずの車内に、ふいに風が吹きこんでくるのを感じたのでした。

 な、なんだ……?

 なおも止むことないブレーキ音の中で、私は耳を押さえたまま、恐るおそる顔をあげます。
 その緩慢な動作のなかで、何度も視界が明滅しました。顎が上下に揺れ、目の前を何かが過ぎって、吹きつける風はいよいよ強く私のこめかみを殴りつけるのです。

 そして認めた世界の中は、

「……あっ」

 終わりでした。

 私を反映していた窓は、怪物の牙のように割れ、座席は裏返って中のものを吐きだしていました。照明は二度と灯ることなく、床はかわいた血に濡れていました。いや、床だけではありません。窓も座席も天井でさえも。目に見えるところすべてに血の斑点や汚い筆のあとが見てとれるのです。

 それを映しだすのが、電車をすっぽりと呑みこんだトンネルの壁に、不自然に灯った蝋燭でした。弱々しい炎の羅列は、車内にまで吹きつける冷たい風に耐えながら、そっと身をかき抱いて震えるのでした。

 私も慄然と我が身を抱きました。こみ上げる恐怖に爪を突きたてながら。
 そして、もう何も見たくないと悲鳴をあげるのです。これは悪い夢だと言い聞かせるのです。

 しかし夢から覚めることはありませんでした。目を閉ざすことさえできませんでした。
 当然のことです。
 私にはもう閉じる瞼もないのですから。

 我が身をだく手はべっとり濡れて。むき出しの指の骨が腐った肌に痛く。胴の中のがらんどうには錆びた空気がめぐって却って重く感じられました。

 それが何を意味するかは、もう知っていました。
 割れて歪んだ床が、嗤笑する唇のごとく闇を拡げていること。怪物の牙めいた窓が、この背中を食んでいること。
 すでに潰えた無数の悲鳴さえも、まだ首の裏側に残って。けれど、私はもう何も残されていないのだと。

「そうだ……。もう受けいれなくちゃ」
「おやおや、また眠っちまってたみたいだね」

 隣から聞こえた声に、私はつと顔を上げました。そして潰れてもなお闇を見通す不思議な眼で、そこに悠然と腰を据えた黒衣の人物を見るのです。

「……どうやら、そうみたいです。お手数おかけして申し訳ありません」

 私がそう言えば、黒衣の人物は肩にのせた大きな鎌を担いで「よいしょ」と立ちあがります。

「いいさ。それより随分意識もはっきりしてきたみたいだ。アタシも忙しい身なんでね。そろそろあんたをあるべき処に送り届けにゃならん」

 黒衣の人物は何が可笑しいのかキヒヒと笑うと、フードに隠れた顔をこちらへ向けました。その奥は闇。まったき闇です。目を凝らしたところで、蝋燭の炎が揺れたところで、果てを見ることのできない真の闇でした。

 私は観念して立ち上がりました。
 すっかり血に濡れてボロボロになった日記を手にしたまま。

「ええ、お待たせしました。死神さん」
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