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第一部 巨神の目覚め

十三章 遠い翳り

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〝敗北の唄〟は商業の街マクベルにまで届いた。
 雨音を縫って響く悲鳴じみた音色だった。

 七歳のサリュ・フライオットにとって、それは聞きなれない音色だったが、彼女の心をひどく痛ませ憂鬱にさせた。傾いたドアが開き、大好きな父が早く帰ってきたにもかかわらず、心の底に濡れた襤褸雑巾をかぶせられたような気分は癒えなかった。

「ハァ……! ハァ……ッ!」

 焼き菓子のように焼けた父親の顔は、雨に濡れてくしゃくしゃに歪んでいた。

 雷がよほど怖いのかもしれない、とサリュは考えた。私はもう七歳だから雷くらい怖くない、と胸を張りたかったけれど、ベッドの下に潜りこむ猫よろしく、サリュも雷は恐ろしいままだった。

 しかし父の恐怖は、彼女が考えていた以上に深刻で、容赦のないものだった。

「逃げ、逃げるぞ!」

 上擦った声が家中の壁をがりがりと掻き毟ったように思った。

 サリュは驚いて、昼食の支度をしていた母に救いの眼差しを向けた。
 ところが母は人形のように固まってしまい、こちらに一瞥を寄越すこともなく父だけを見つめていた。

「聞こえないのか、早く逃げるんだ! 巨人どもが来るぞ!」

 巨人の言葉を聞いた途端、母が動いた。握った包丁を傍らへ投げ出し、サリュの手を強く握って、戸口へと駆け出したのだ。

 サリュはわけも分からず、母の手に引かれ走るしかなかった。
 外へ出た途端、篠突く雨に肌を打たれ、鞭で叩かれるような痛みに呻きがもれた。

 赤錆の空が、稲妻に割れる。
 マクベルの大部分を占める鍛冶工房の剣山じみた煙突群が、雷光の中で不気味なシルエットとなって網膜に焼きついた。

 やや遅れて鳴り響いた雷鳴が、痛む肌に追い打ちをかけた。
 轟音の影から忍び寄るのは〝敗北の唄〟の音色だ。いつの間にか辺りを覆い尽くした人波の跫音きょうおんは、足許の水溜まりを割りながら西へと引き寄せられてゆく。

 なにが起きてるの?

 疑問が声になることはなかった。

 母は肩が外れそうなほど強くサリュの腕を引き、ほとんど引きずるように前へ前へと踏み出し続けていた。切迫した空気に疑問をさし挟む余地などないような気がした。ただ一言、こう言うのがやっとだった。

「痛い、痛いよ……っ」

 しかし悲痛な訴えも、すぐに雨と喧騒の中に埋もれていった。サリュは小さな身体を酷使し、人波の中でもみくちゃにされながら、なんとか母に追い縋らなければならなかった。

 肺は早くも焼け落ちそうなほど熱く、雨に濡れた双眸に映る景色は、ひび割れ朦朧としてきた。すぐにでもぺたんと尻をついてしまいたいのに、意思に反して足は回り続けた。

「あ、あぎぃぃああああっ!」

 突如、後方から悲鳴が上がった。

 振り返った彼女の目は、やはり歪んだ景色しか映しださず、人ごみで三ヤード先も見通すことはできなかった。

 けれど、はっきりと幼い心に恐怖の根は植えつけられた。方々で悲鳴が弾け、人波が荒れ狂った。

 隣の人を押しとばす者、つんのめりながらジグザグに走る者。周囲に意味不明な罵声を飛ばす者――。剥き出しの本性があった。

 恐ろしさのあまりサリュは息を詰まらせた。普段は優しく微笑みかけてくれる屋台のおばさんまでもが、目を真っ赤に、唾を飛ばして罵詈雑言の叫びを上げていた。悪夢としか思えなかった。

 もうダメっ……。

 肺に石を詰めこまれたような痛みが、耐え切れずサリュの体勢を崩させる。
 気付いた母が足を止めた。父の背中が、人波に呑まれて見えなくなるのも構わずに。

「サリュっ!」

 途端にサリュと母親は、多くの足に蹴飛ばされ踏みしだかれ、罵詈の嵐にさらされた。
 小さなサリュは身体を丸めて蹲り、痛みに耐えた。母親はどれだけ蹴られようと、決して娘の手を離さず、彼女を立ち上がらせようとした。

「うわあああっ! ああっ、ああ、あ……っ」

 再び背後に悲鳴。
 今度は肉の弾けとぶ音まで届いた。サリュは耳を塞ぎ、しょっぱい雫を舐めた。

「サリュ、立って! もうすぐ街を出られるからっ!」

 母親は無理やりサリュを抱き起こし、そのまま娘を引きずった。

「助けてぇっ! 死にたくな、ああっ! ぎゃあああぁ!」

 耳を塞いでいても、悲鳴が聞こえた。もうかなり近いところまで来ていた。
 サリュはようやくとぼとぼと自らの足で駆けだしながら、恐るおそる後ろへ振り返った。

 そして後悔した。

「ゴアアアアアァッ!」

 四足で走る化け物がいた。白銀の眼を、飢えた獣のように鈍く輝かせた化け物が。

 その時、自分が悲鳴を上げたのかそうでないかは、サリュには解らなかった。ただ今度は自分が母の手を引くように走っていた。死にもの狂いで駆け出していた。

 生きたいとか、死にたいとか、具体的な願望はなにも浮かんでこなかった。心臓が、音という音すべてを喰らい尽くそうとするように、バクバクと鳴っていた。

 決して振り返らず、暗い洞窟の終わりを探すように走った。人波の中へ押し入ると、ようやく恐怖で泣き叫んだ自分の声を聞いたような気がした。

 やがて壁と壁との間に、大きく口を開けた朱色の門が見えた。

 西の世界へと繋がる門だ。街道を進んでいけば南の農場へ、中途で森へ進入すれば、クルゲの里へ行くことができる。この狭い街を出れば、もしかしたら助かる見込みがあるかもしれない。

 小さな希望が芽を出した、まさにその時だった。

「あっ……」

 不意に、母親に強く手をひかれ、サリュは尻もちをついた。

 咄嗟に振り返った時、彼女は雨の中でも温かかった母の手を、堪らず離してしまっていた。

 母親のもう一方の腕が、ヨトゥミリスに捕らえられたのを見て途端、全身から力がぬけ落ちた。

 母が泡を喰いながら意味不明な叫び声を上げた。
 その身体が宙へ浮き上がった。

「マ、ママ……」

 ヨトゥミリスは母親の腕を拡げたり、足をつまんだりしながら観察した。

 だがそれもすぐに飽きたようだった。
 サリュの母親は片脚を掴まれ、スリングのように乱暴に振り回されて、遠くへ放り投げられたのだ。

 その姿は家々の立ち並ぶ情景に隠され、見えなくなった。

 どこかで激しく水の砕ける音がした。娘の脳裏では、バラバラになって血だまりの中に倒れる母のようななにかの幻影が過ぎった。
 
 サリュは尻もちをついたまま後ずさった。その目がヨトゥミリスから離れることはなかった。
 
 ヨトゥミリスもまた彼女を見ていた。
 丸太のような腕が持ち上がり、その手が汚らわしい花びらのように開いた。天上の神が嘲笑うように、ここぞとばかり雷鳴を重ねた。
 
 目頭が熱くなった。自分が泣いているかどうかは判らない。涙のようなものは、すぐに雨に流され地面へこぼれていってしまう。
 
 稲妻が空を馳せた。
 巨人の指先がサリュの腹に回った。
 雨粒の冷たさが肌に沁みた。

「てえええぇッ!」

 その時、サリュの顔面に雨より冷たいものが降りかかり、濃い鉄のにおいが鼻腔へなだれこんだ。

 ヨトゥミリスの胸に風穴があいたのは同時だった。
 めくれ上がった肉が、その手のひらよりも、よほど美しい花弁のように思えた。

 その中央を碧の刃が貫いていた。切っ先はサリュの鼻先で止まり、絶えず目にも留まらぬ回転を続けていた。

「え……?」

 不意に刃が風穴の向こうに消える。

 身体が、たちまちふわりと軽くなった。景色が水に溶かした絵具のように崩れ、背後へと消えてゆく。

 宙を飛んでいると解るのに、しばらく時間を要した。
 
 見下ろすと、先程まで自分のいた場所で、ヨトゥミリスが倒れたところだった。霜の目は白く濁り、死体の下から血液が放射状に拡がっていった。

 やがてサリュの足は、そこから五ヤードばかり離れた地面の上でたたらを踏んだ。
 たまらず壁に手をとき、ほっと胸をなでおろした。

 そして、自分を助けてくれた人物を見上げた。

「ひっ……!」

 感謝の言葉を告げることはできなかった。
 また、その必要も感じなかった。

 彼女の傍らに立っていたのもまた、化け物だったからだ。
 全身を真っ赤に濡らし、下弦の月にも見紛う白い歯列を見せて歪に笑う怪人――。

 少なくともサリュの目にはそう映った。ヨトゥミリスが無作為に人を殺す無情の怪物なら、この人は愉しみながら巨人を殺す狂った怪物だと確信できた。

 幼い少女は、恐ろしさのあまり身を翻した。

 直後、血濡れの化け物は、サリュと逆方向に跳躍した。

                ◆◆◆◆◆ 

 平時は見通しが利かず恐ろしく思える昏き森も、土砂降りとあっては心強い味方のように感じられる。

 昏き森に群生する木々は、どれも見上げた首が痛くなるほど背が高く、頂上付近によく葉を茂らせる稀有なものだ。それゆえできる自然の傘が、礫のような雨を防いでくれていた。

 他の植物とは一線を画すこの特異な性質から、昏き森の木々がどのように群生し、生命を維持してきたのは謎に満ちている。

 だがクルゲの遺物堀たちの頭の中は、いかにしてこの土砂降りを切り抜け、クルゲの里へ帰還するか。それだけに占められていた。あるいは信心深い遺物堀たちにとって憂慮すべきは、ゴーストの呪いを受けぬかどうか、と言ったところである。

「もうすぐ森を出るぞ! 外は……ひどいことになってるな」

 操馬士のイルが溜め息混じりに荷台の遺物堀たちへ告げた。

 普段ならば若い者が操馬を務めるが、今は緊急時だ。こういった場合には、最後に馬車へ乗った者が操馬士を務めることになっている。雨天時のヘンベの谷は、遺物堀たちの命を脅かしかねない悪路となることが予想される。四の五の言っている余裕はなかった。

「まだ雨はやんでねぇのか?」

 荷台の中、ヴァニの対面に腰かけたビルが問うた。

「ああ、そうみたいだ。まったくの暗闇じゃなくなったが、霧がかかったみたいに向こうが見渡せねぇ」

 昏き森では、葉の位置があまりに高すぎるためか、雨の音もほとんど反響しない。まるでこの場所だけが時に捨て置かれたかのようだ。

「イル、しばらく走ったら代わるよ。俺のほうが目はいいし、どうせいつもやってることだから」

 ヴァニが言った。

「ああ、頼むぜ。とりあえず、ヘンベの谷は避けよう。この具合だと、土砂崩れとか落石があるかもしれねぇ」
「分かった」

 それから十分ばかりも経つと、森を出たのか途端に雨が打ちつけてきた。荷台の壁全部を無数の子どもたちに叩きつけられているような、誰かが天板の上を走り回っているような喧しさだった。

 荷台の遺物堀たちは耳を塞ぎ、イルは滝のような雨に罵声を浴びせた。

 眼前にひらけたヘンベの谷を迂回し、馬車はほとんど真北に進路をとる。
 ガオラト山の周囲へ沿うようにして進めば、エブンジュナの森へは進入できる。ただし山へ近づき過ぎれば、やはり落石や土砂崩れに巻きこまれる恐れがあり、大回りな迂回が必要だった。里へ戻るのは、もう一、二時間ばかりあとになりそうだ。
 
 ヴァニはイルの行進計画を引継ぎ、操馬を交替した。

 荷馬車から出た途端、雨が全身を打った。イルは「少し治まってきた」と言ったが、打ちつける雨にはまだ顔面を軽くはたくような力があり、目を開けているのも辛いほどだった。

 先はほとんど見通すことができない。右手に見えるガオラト山の威容は、輪郭が霞み幻影めいている。あるいは山の亡霊か。暗澹たる様に肝が冷えた。
 
 ヴァニは、ぬかるんだ地面を懸命に歩く驢馬を哀れに思いながらも、彼らを前へ進ませた。

 ところが雷鳴が轟く度に、驢馬は怯えて足を止めてしまう。雷光の明かりにはパニックを起こして荷馬車を激しく揺らすこともあった。
 操馬士も驢馬も、じりじりと体力を削られていった。このままではエブンジュナの木陰に入れるかどうかも定かでない。

 ヴァニは操馬席から身を乗り出し、二頭の驢馬の臀部に触れた。

「大地よ、その大いなる力でこの者を守り給え。小さな蹄に鉄の堅牢さを。脚に巌の如き逞しさを。矮躯に土塊の如き柔軟さを」

 驢馬に施したのは、強化魔法だった。雷への恐怖心を払拭させることはできないが、荷車をひく助けにはなるはずだった。

 俺の魔法で、こいつらがどれだけ楽になるかは解らないけど……。

 祖父のエズと違い、ヴァニは魔法の扱いに秀でていない。エズは爆破魔法の使い手だったが、ヴァニの爆破魔法は精々胡桃の殻を割る程度にしか使えない貧弱なものだ。「お前の魔法は、詠唱がいらなくて楽だな」などと、ビルにからかわれるのも無理からぬことであった。

 それでも驢馬は下がった尻をぴくんと上げて、着実に一歩一歩を踏み出してくれていた。時折、雷に身を竦ませる場面こそあるものの、足を止めてしまったり、暴れ出したりはしなかった。

 エブンジュナまでの道程は、まだまだ長い。
 ガオラト山の周囲に広がるのは、枯れた灌木ばかり。エブンジュナの逞しいオークの木々は、まだ遠い翳りの中だった。
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