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銅の作用
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平寧宮の水瓶の水は綺麗な状態だった。放置されていたため水量は多くないが、ぼうふらはいない。
「どうしてでしょう、小月様。別の水瓶の水は傷んでいるのに」
安梅に続き韓桜が首をひねる。「この水瓶だけ何が違うのかしら」
「これよ!」
小月は中から椀を取り出した。小月が水を飲む時に使用していた銅椀。
「原理はわからないけど、銅が水を腐らせないようにしてるに違いないわ。故郷の井戸もぼうふらなんてわいたことがなかった。釣瓶が銅桶で出来ていたからよ」
小月の故郷では近くに銅山があったため、比較的銅製品は安価だった。採掘された銅は国に納められていたけれど、一部は町に戻されて、銅鍋などに加工されていた。小月の家でも愛用していた。
「まあ。ならば平寧宮の水瓶全てに銅椀や銅柄杓を入れておきましょう。水替えの手間が減って大助かり。厨房から拝借してきます」韓桜が外に飛び出すと、入れ替わりに黄太監がよろよろと歩み入ってきた。
「黄太監……! しっかりしてください!」
「拷問されたのですか!?」
「いえ、いえ。体は何ともありません」黄太監は弱々しく手を振った。「それより小月様、嘘だとおっしゃってください。妃になるのを断っただのと後宮中で噂されています。そんな無体なこと陛下に申し上げてはおりませんよね」
黄太監はまるで自分が失恋したみたいに大袈裟に泣き出した。
「え、あの、でも……」
「陛下の心情を思うとおいたわしい」
「うん、でも仕方ないの。安梅、黄太監を椅子に座らせて、お茶を飲ませてあげて」
「滅相もない。私めなどにお気遣いは無用です」
さて、どう説明しようかと考え、太監が泣き止むのを待っていると、「平寧宮の水瓶は全て完了です!」と、韓桜が元気いっぱいで報告に戻ってきた。
「ありがとう。次は……黄太監、藩貴妃と同じ病状の宦官に会わせてもらえない?」
「な……、平寧宮から出ないように言われているでしょう。原因不明の病なんですよ。それなのに病人に近づくなど、なんと恐ろしい」
「そうなんだけど──」
黄太監は小月を遮ってまくしたてた。「宮廷には医師が沢山おります。腕も経験もある者たちです。まかせるべきです。女子のくせに何ができますか」
小月はすっくと立ち上がると、黄太監の真正面で仁王立ちをした。
「嫌いだわ」
「は?」
「女子のくせにって言葉。秀英も『女のくせに』って言ったことあるのよ、子供の頃。駆けっこだって虫取りだって私に負けてたくせに」
小月の胸の中で、何かが弾ける音がした。自分がむきになってしまう理由がわかった気がした。
後宮では小月の意志はまるで存在しないかのように扱われる。皇后が無理なら下位の妃嬪として輿入れすればいいという代替案を小月抜きで進める。
秀英が求める私はなんなのだろう。沈みかけの太陽に目を向け、振り返って長く伸びた自分の影を見た。
彼が求める『小月』は、この影なのかもしれない。
「宦官が駄目なら藩貴妃の宮に行きます。お体に障るならお付きの女官でもかまわない。会って話を聞いてみたいの」
「なりません。命を賭けてでもお止めいたしますよ」
両手を広げて、黄太監は小月を阻んだ。
「ならば街区に行ってみるわ。病の拡がり方を調べたいの」
「こ、怖くないのですか?」
「ねえ黄太監、もう私はただの下賤の民よ。妃候補ではない。流行り病でのたれ死んでもおかしくない存在に戻ったの」
「陛下がお許しにはなりません」
「秀英を説得してくれないかしら、黄太監。私を助けてちょうだい」
「まったく貴女は……」
「無学で無教養で無力。だから助けを乞うわ」
「小月様は欠点だらけです」
「ええ、そうね」
「ですが私は……」
「報告があります」宦官が一人、外から入ってきて黄太監に走り寄った。「病床の宦官が死んだそうです」
「……!」
黄太監はへなへなとその場に膝をついた。
小月の脳裏に、李医師とのやり取りが蘇る。栄の町の風土病。原因は不明。病人は突然高熱で倒れる。高熱と平熱を一日毎に繰り返す。七日程度で回復するが、体力のない者は衰弱して死ぬ。珍しい病気ではない。治療法はひたすら体力維持、そのための栄養補給。初夏から初秋に発生する。
今は初夏だ。これから少なくとも四か月以上、皇都に蔓延するおそれがある。下層民だけが罹る病でないことは、すでにあきらかだ。
「李医師はいつ来るのかしら」
「李医師とはどなたですの?」
ふわりと、風が小月の頬を撫でた。小ぶりな団扇を持った胡貴妃が黄太監の姿に目を細めている。
「こんなことだろうと思ってました。つきあいますわ、小月様。今から一緒に参りましょう」
「灯華宮に……?」
「藩貴妃の侍女たちは私が一緒なら門前払いはしないはず」
「はい!」
空を見上げると冴え冴えとした月が小月を見下ろしている。
「どうしてでしょう、小月様。別の水瓶の水は傷んでいるのに」
安梅に続き韓桜が首をひねる。「この水瓶だけ何が違うのかしら」
「これよ!」
小月は中から椀を取り出した。小月が水を飲む時に使用していた銅椀。
「原理はわからないけど、銅が水を腐らせないようにしてるに違いないわ。故郷の井戸もぼうふらなんてわいたことがなかった。釣瓶が銅桶で出来ていたからよ」
小月の故郷では近くに銅山があったため、比較的銅製品は安価だった。採掘された銅は国に納められていたけれど、一部は町に戻されて、銅鍋などに加工されていた。小月の家でも愛用していた。
「まあ。ならば平寧宮の水瓶全てに銅椀や銅柄杓を入れておきましょう。水替えの手間が減って大助かり。厨房から拝借してきます」韓桜が外に飛び出すと、入れ替わりに黄太監がよろよろと歩み入ってきた。
「黄太監……! しっかりしてください!」
「拷問されたのですか!?」
「いえ、いえ。体は何ともありません」黄太監は弱々しく手を振った。「それより小月様、嘘だとおっしゃってください。妃になるのを断っただのと後宮中で噂されています。そんな無体なこと陛下に申し上げてはおりませんよね」
黄太監はまるで自分が失恋したみたいに大袈裟に泣き出した。
「え、あの、でも……」
「陛下の心情を思うとおいたわしい」
「うん、でも仕方ないの。安梅、黄太監を椅子に座らせて、お茶を飲ませてあげて」
「滅相もない。私めなどにお気遣いは無用です」
さて、どう説明しようかと考え、太監が泣き止むのを待っていると、「平寧宮の水瓶は全て完了です!」と、韓桜が元気いっぱいで報告に戻ってきた。
「ありがとう。次は……黄太監、藩貴妃と同じ病状の宦官に会わせてもらえない?」
「な……、平寧宮から出ないように言われているでしょう。原因不明の病なんですよ。それなのに病人に近づくなど、なんと恐ろしい」
「そうなんだけど──」
黄太監は小月を遮ってまくしたてた。「宮廷には医師が沢山おります。腕も経験もある者たちです。まかせるべきです。女子のくせに何ができますか」
小月はすっくと立ち上がると、黄太監の真正面で仁王立ちをした。
「嫌いだわ」
「は?」
「女子のくせにって言葉。秀英も『女のくせに』って言ったことあるのよ、子供の頃。駆けっこだって虫取りだって私に負けてたくせに」
小月の胸の中で、何かが弾ける音がした。自分がむきになってしまう理由がわかった気がした。
後宮では小月の意志はまるで存在しないかのように扱われる。皇后が無理なら下位の妃嬪として輿入れすればいいという代替案を小月抜きで進める。
秀英が求める私はなんなのだろう。沈みかけの太陽に目を向け、振り返って長く伸びた自分の影を見た。
彼が求める『小月』は、この影なのかもしれない。
「宦官が駄目なら藩貴妃の宮に行きます。お体に障るならお付きの女官でもかまわない。会って話を聞いてみたいの」
「なりません。命を賭けてでもお止めいたしますよ」
両手を広げて、黄太監は小月を阻んだ。
「ならば街区に行ってみるわ。病の拡がり方を調べたいの」
「こ、怖くないのですか?」
「ねえ黄太監、もう私はただの下賤の民よ。妃候補ではない。流行り病でのたれ死んでもおかしくない存在に戻ったの」
「陛下がお許しにはなりません」
「秀英を説得してくれないかしら、黄太監。私を助けてちょうだい」
「まったく貴女は……」
「無学で無教養で無力。だから助けを乞うわ」
「小月様は欠点だらけです」
「ええ、そうね」
「ですが私は……」
「報告があります」宦官が一人、外から入ってきて黄太監に走り寄った。「病床の宦官が死んだそうです」
「……!」
黄太監はへなへなとその場に膝をついた。
小月の脳裏に、李医師とのやり取りが蘇る。栄の町の風土病。原因は不明。病人は突然高熱で倒れる。高熱と平熱を一日毎に繰り返す。七日程度で回復するが、体力のない者は衰弱して死ぬ。珍しい病気ではない。治療法はひたすら体力維持、そのための栄養補給。初夏から初秋に発生する。
今は初夏だ。これから少なくとも四か月以上、皇都に蔓延するおそれがある。下層民だけが罹る病でないことは、すでにあきらかだ。
「李医師はいつ来るのかしら」
「李医師とはどなたですの?」
ふわりと、風が小月の頬を撫でた。小ぶりな団扇を持った胡貴妃が黄太監の姿に目を細めている。
「こんなことだろうと思ってました。つきあいますわ、小月様。今から一緒に参りましょう」
「灯華宮に……?」
「藩貴妃の侍女たちは私が一緒なら門前払いはしないはず」
「はい!」
空を見上げると冴え冴えとした月が小月を見下ろしている。
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