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「あら、いけない」

 サラはポケットをさぐって驚いたふりをした。

「どうしましょう。持ち合わせがないわ。困ったわね」

 すがるようにトールを見上げる。すると彼は馭者に駆け寄り、みずから名刺を渡した。貸馬車の料金は自分の法律事務所に請求するようにと告げる。

「助かりましたわ、さすがは紳士ですわね」

「ええ、まあ。それで、サラ夫人──」

「ガイに伝えてください。全力を尽くしてくださいと」

「え」

 馭者に、リリベリー伯爵家に向かうように告げると、サラはするりと馬車に乗り込んだ。

「では、ごきげんよう」

 苦々しい顔をしたトールを置きざりにして、馬足は軽快に前進した。トールの親切のおかげで、少し遠いリリベリー伯爵邸に寄ることが叶う。

(トールの誘惑に魅了されなかったのは、ノースの警告の効果かしら)

『55のばあさんなんか誰が相手にするもんか』

(それとも、もっと魅力的な人を見つけてしまったからかしら)

「うふふふ」

 少女のように頬を染めてサラは伯爵邸を目指した。



 すっかり日が暮れたころ、サラはフラットに戻った。部屋で寛いでいると戸をノックする音がした。

「ピーちゃんはどうしたんだ?」

 道端で摘んだらしい素朴な花を片手に、大家が怪訝そうな顔を覗かせた。

「それはピーちゃんにですか。きっと喜んで食べたでしょうけど、今はいませんわ」

「逃走したのかい?」

「いいえ、つがいができたのですわ」

 肩を落とした大家が階下に降りるのを見送ってサラは首を傾げた。

(ここに本物の上流婦人がおりますのに、ピーちゃんの方が魅力的に見えるってことですわね。大家さんに惚れられたいと願ってはおりませんけど)

 上階からかすかな物音が聞こえた。リカルドが戻っているようだ。

「あ、そうだ」

 魚の代金を支払っていなかったことを思い出した。


「支払? いやあ、別によかったのに……」

 リカルドは頭を掻いた。

「でも、持ち合わせがないものですから、代わりにダチョウの羽を束ねた羽ぼうきを差し上げますね。これ、お掃除にとっても役に立ちますのよ」

 リカルドの顔はますます困惑に歪んだように見えた。

「どうも……ありがとうございます……」

「あんな遠くまで釣りにいかれるのね。川辺で会ったときは驚きましたわ」

「ええ、いろんなところで釣ってますよ。飽きっぽいもんですから」

「飽きっぽい性格のかたが釣りに向いているのかしら。あ、そういえば、いただいたお魚に不思議なことがあったんですよ」

「不思議なこと?」

 サラは魚の腹からリリベリー伯爵夫人ノエルの指輪が見つかったことを話した。ノエルの家を訪れて、確認してもらったのだ。彼女は間違いなく自分のものだと断言した。しかも一か月ほど前に盗まれたものだという。
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