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 サラが立ち上がる間もなく、扉は内側にはじけ飛んだ。蝶番がはずれている。
 
 ダチョウのキック力はすさまじいものだ。まともに蹴られたら、人間は内臓破裂でひとたまりもない。ヘビー級ボクサー5人分の威力があるのだから。
 飛び込んできたダチョウを見て、サラを除く全員が硬直した。

(ピーちゃん、どうしたの。落ち着いて!)

「こ、怖いわ!」

 アシュリーの悲鳴が響く。振り返ると彼女を守ろうと盾になって立つ公爵の姿が目に映った。

(あら、ちょっと見直したわ)

 身重の愛人を庇う公爵の足は小刻みに震えている。彼は渾身の勇気を奮っているのだ。

 ダチョウはくるりと向きを変えて、自分が入ってきた方向に向かって腰をかがめた。

「あの、サラ夫人。この生物はいったい……」

 レインの声は裏返っている。

「大丈夫です、ちょっと興奮しているだけですわ。ピーちゃんはすぐに外へ出し……あら」

 ダチョウが興奮しているわけがわかった。ダチョウの視線の先に、ガイがいる。

「ごきげんよう、みなさん」

 いつもと同じ、浮浪者の姿である。しかも頭上にはハエのおまけつき。

「部外者は入ってくるな! ダチョウを連れて出ていけ!」

 トールは震える指でガイに命じた。

「俺はあんたの部下ではない」

「なんだと。生意気な口を叩くな!」

 場を取り仕切らねばと考えたのだろう、レインが笑顔と困惑と怒気をないまぜにした表情で立ち上がった。

「取り込み中なので、退室いただけますか。ダチョウと一緒に」

 ガイはピーちゃんの首をなでながら、さらりと言った。

「俺は弁護士です」

「は?」

「サラ夫人の」

「え、でも、その格好……あ、いえ、失礼」

 一瞬、部屋が静まり返り、耳障りなハエの翅音だけが場を制した。

「……はらってもはらっても、離れなくて」

 ガイは何度も頭の上を手ではらったが効果はなかった。

「これが領収書です」ガイは領収書をレインに見せた。「サラ夫人から手付金をいただいて、正式に雇われている証拠です。ですよね、サラ夫人」

 ガイはこちらに向かって微笑んだ。
 笑顔に促され、その通りですと頷いた。直後に、胸一杯に名状しがたいあたたかいものが満ちてくる。

「1ジェニーだって。ビスケット一つ買えない、そんなはした金で」

「手付は手付です。サラ夫人は俺に1ジェニーを支払った。それは間違いないですよね」

「ええ、間違いありません! ガイはわたくしの……弁護士ですとも!」

 ガイはさっさとテーブルに着いた。サラの隣である。促されたように、レインも定位置に着き、公爵とアシュリーもしぶしぶのていで座った。
 納得していないのはトールである。

「冗談のつもりかもしれないが、まったく笑えないぞ!」

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