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萌芽
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久しぶりに訪れた秘密の薬草園は、相変わらず人の気配がなく、完璧な静寂で梟を迎えた。
薬草園は、村一つが丸ごと収まるほど広大な皇宮の敷地の、最も奥まった人の手の殆ど入らない区域にある。これほど宮殿から隔たった不便な場所に、薬草園が設置された理由は不明だった。もしかしたら、毒草研究に使用されていたのかもしれない。
おかげで、侍従を振り切ることさえできれば、心ゆくまで一人になれる。ようやく手に入れた自由と、一人の時間と空間に、梟は思わず大きく伸びをした。
視界を奪われ縛められた『仕置き』の直後、ほんの短い時間であるとはいえ錯乱し気を失って以来、梟の自由は大幅に制限されていた。
元々過保護気味で、日常的に梟を困惑させていた蜻蛉と侍従たちは、はっきりと過保護に――率直に言って、鬱陶しいほど気遣ってくる。侍従たちは梟の一挙手一投足を記録し、蜻蛉は詳細な報告を受け取って余すところなく目を通す。医師は常に側に控え、冷静な眼差しで梟を観察している。
この事態の元凶である蜻蛉は、侍従の報告だけでは満足しなかった。早々に――おそらく無理矢理公務を切り上げて、ともに夕食を摂りながら、注意深く梟の様子を確認している。本来皇帝の晩餐は私的な場ではなく、公的行事であるにもかかわらず。
そんな日々が、もう二週間以上続いている。夕食後の警邏も皇太子の剣術指南もしばらく取り止めになり、もちろん扇屋へ帰ることも許されない。
正直、息が詰まりそうだった。
それもこれも、騎士見習い時代に取り憑かれた悪霊の記憶のせいだ。
忘れたと思っていた十年以上も前の古い傷に、いまだ囚われている己の弱さが情けない。しかも、寝台で気を失った梟を介抱しながら、蜻蛉はためらうことなく侍従と医師を呼んだ。情交の痕が残るばかりか、二人の精で濡れた体を簡単に拭われただけの恥ずかしい状態で、医師に診られることになったのだ。
図らずも立てたばかりの誓いを証明することになり、梟は羞恥のあまり、いっそもう一度気を失いたいと願いながら、凄まじい精神的苦行に耐えた。
意識を取り戻した時、枕元に陣取っていたのは医師ではなく、蜻蛉だった。その緊張漲る表情に、一体どんな非常事態が出来したのかと、つられて緊張したほどだ。
梟の意識がはっきりしており、脈にも体温にも眼球の動きにも問題がなく、会話できる状態であることを確認した後、医師は穏やかに尋ねた。お気を失われたことに、お心当たりはございますか、と。
医師と蜻蛉の背後には、皇帝付きと梟付きの侍従長両名が控えており、特にヘルムートは心配のし過ぎで焦燥を通り越し、梟以上に感情の削がれた青白い顔でじっと主を見守っていた。
これだけ大事にされ、また多くの人に迷惑を掛けてしまった以上、黙っているわけにもいかず、梟は渋々告白した。――かつて、悪霊憑きだったことを。
蜻蛉にも侍従にも医師にも、俄かには信じ難いという顔をされたが、残念ながら事実だ。悪霊は新月の夜に現れ、その魔手を伸ばして体の自由を奪い、恐ろしさに震える少年の体を弄り、嘲笑った。
皇宮でも、背を斬られた後と拉致された後に、あの悪霊憑きの部屋で、蜻蛉に同じ目に遭わされた。まさか薬を使われているとは思わず、あの客屋に滞在していた間、毎夜悪霊の手に怯え、恐怖に耐えていたのだ。よくよく碌なことをしない男だと思う。
とにかく、『仕置き』のせいで過去の記憶が甦り、惑わされただけなのだ。
何度もそう言い、体には何の異常もないのだと訴えても、この手厚すぎる措置が解除される気配はない。辟易していると態度に出してみても、周囲の誰もが朗らかに黙殺してくる。
(この手厚さの十分の一でもいいから、騎士見習いが顧みられれば…)
同じような目に遭ったにもかかわらず、騎士見習いの時との待遇の差に、洩れるため息はただ苦い。
騎士見習いは言うに及ばず、騎士の待遇もまたさほど高いものではない。
神聖騎士は別格とされるが、『神の刃』と呼ばれ聖戦と称えられても、戦場は生きるか死ぬか、殺すか殺されるか、それだけだ。そこでは命の重さも、待遇の差も意味を持たない。
死ぬ前に与えられた任務を果たせれば良し、果たせなければ犬死にとなり、しかし末路は同じなのだ。どちらも簡単にでも弔われればまだましで、骸が荒野に打ち捨てられることは珍しくもない。
肉親との縁を絶った神聖騎士なら、尚更だった。家族は誰もその死を知ることはなく、手続きは名前が団員名簿から慰霊碑に移るだけで、厳かに追悼の祭儀が行われて、その生のすべてが終わる。
そうして何十人もの仲間を見送って、しかし生きている者は死者を振り返るのではなく、前を向き剣を取らねばならない。悲嘆に沈む暇などなく、時間が取れた時に一人神殿に籠り、静かに祈りを捧げることだけが、残った者にできることだった。
そしてそれすらも、死者を悼むというより、生き残った者の罪悪感や後ろめたさを埋め合わせる、利己的な儀式に過ぎないのかもしれなかった。
同じ年に騎士見習いになった者で、今も現役の騎士であり続けているのは、かつて互いの背を預けて戦ったハインツだけだろうと梟は思った。
四年前に神聖騎士団との繋がりは断たれたが、あの凄腕の騎士が戦場に倒れるなど想像もつかない。ただ腕が立つだけではなく、常に冷静沈着で頭も切れ、上層部の覚えもめでたかった彼ならば、役職を得て組織運営に携わっているかもしれない。
それほどの年月を、教団の騎士としてハインツと重ねたのだと今更ながら思い当たり、梟は奇妙な感慨を覚えた。
予測不能なきっかけで、騎士を退き教団からも去ることになったが、それまでは大きな怪我を負うこともなく、見習い時代も含め騎士として十二年を全うした。十二年という時間はあっという間に過ぎ去ったが、決して短い時間ではない。
その時間を、生家との縁を絶ちすべてが変わった色のない世界で、身一つで懸命に生き抜いた。まだ体が小さく剣の腕も未熟だった頃は、ハインツの助けと励ましがなければ、生き延びることはできなかったと確信するほど、毎日が苦しく厳しい日々だった。
騎士見習いだったあの頃に戻りたいとは、絶対に思わない。生まれ直して同じ道を進めと言われたら、その場でその生を拒絶する。
ただ、正式に騎士となった後は、死に近い場所で生きることになったものの、見習いの頃に比べれば特につらいと感じることはなかった。悪霊祓いも成功し、周囲に煩わされることなく実力でのし上がり、ハインツとともに、教団所属騎士団の中でも最高格を持つ神聖騎士団へと引き上げられた。
より命の危険の高い任務が多くなることは理解していたが、どの騎士団に所属していようと戦場に出れば死が身近に迫るのは同じだ。待遇の大幅な改善とともに、任務に関する融通も効くようになるため、粛々と辞令を受け入れた。
実質人殺しを生業としながら充実感を覚えるというのも、罪深く奇妙なことだが、神聖騎士団で過ごした日々に呵責を感じることはなかった。むしろ、神殿に入り騎士となったのもすべて神の御意志なのだ、と自然と腑に落ちた。
磨耗したのか元から欠けているのか、自分には敵となる人の死に痛みを感じる器官が無く、戦いに向いた人間なのだ、と。
だからこそ、皇帝の『弱み』に堕ち、男妾のように扱われながら安穏と暮らすくらいなら、名もなき傭兵となりかつてのように戦場に身を置き、今は亡き戦友たちに顔向けのできる生き方をしたいと思うこともあった。
しかし、蜻蛉の子供たちとやさしく心温まる時間を持つようになり、愛しいという感情を知った。
以来、己の持つ力を、人を殺めることではなく守ることに使いたいと願い始めている自分がいる。あの三兄妹だけではなく、すべての小さき者たちを。
梟は十歳で神殿に入った。今のテオドール皇太子より二歳年長なだけでまだまだ幼く、何も知らない子供だった。
今も教団の方針を批判するつもりはなく、そもそも食い詰めて家を出された者に衣食住を与え、将来の職を与えるだけで神の恩寵を地上に実現していると言えるが、騎士見習いの子供の日常は過酷だった。
これまでの人生を、不幸、不運だと思ったことはないし、今も思っていない。当時はただつらいとしか感じていなかったが、蜻蛉の子供たちを――幸せな子供を知った今ならわかる。
騎士見習いだった三年間は、不幸ではなかったかもしれないが、絶対的に幸せではなかった。
厳然とした貧富の差がある社会で、幸せではない子供が生まれ続け消耗され続ける構造は、残念ながら解消することはできず、梟にはその解決策も思い浮かばない。子供が大人の駒となり消費されるのは、騎士団に限らず、花街でも日常的に見掛ける光景だった。
その現実を幼い梟はただ受け入れ、今日を生き延び明日の日を見ることだけを胸に、ハインツと二人必死に足搔き、ひたすらに努めた。それができない者は、ただ淘汰された。
その淘汰されてしまう者たちを、すくい上げることはできないだろうか。強者でなくても生きていける道を作ることは。ーー厳しい鍛錬に耐えられず零れ落ち、いつのまにか姿を見なくなった子供たちの行き場を用意することは。
三兄妹の曇りのない笑顔を見るたびに頭に浮かぶのは、その思いだった。
仮の身分で町に出ることもある皇帝なら、民の実情を把握しており、梟が案じるまでもなく何らかの対策を立てているかもしれない。そうでなくても、為政者である蜻蛉に問えば、梟の思いを実現する方策を示してくれるかもしれない。
毎夜寝台に入る前に、今日は何か興味を引くことはあったかと訊ねてくる男なら。
ただ、どんな形であれ、蜻蛉の執心を利用することはしたくなかった。
執心としか形容できない、蜻蛉がぶつけてくる感情や行為が、ただ梟を欲望の捌け口とするだけのものではないことは、人の心の機微に疎い梟にもわかっていた。毎夜囁かれる執着を示す言葉にも態度にも、その高い熱量は感じられたが、どうすることもできずにいる。
求められるものはすべて捧げているつもりで、その上でさらに寄せられるものの受け取り方も受けとめ方も、知らないし、わからないのだ。
与えられた言葉を真に理解することなく、鸚鵡のように真似することはできる。しかし心の一部が欠けた人間には存在しない感情を、望まれても、ただの方便として口にしてはいけないとわかっていた。――愛している、と。
三兄妹と出会い、悲惨な状況に置かれた小さき者、弱き者に思いを馳せるようになったことも含めた日常は、蜻蛉の執心の上に成り立つものだ。失われれば、梟は皇宮を辞し扇屋の用心棒に戻ることになる。
その深い執着の一番の被害者はもちろん梟だが、何年も囚われ苦しんでいる蜻蛉もまた被害者と言えなくはなく、その妄執から解放されるのは早いに越したことはない。そのために、ーー蜻蛉に安寧をもたらすために、梟はできる限りの献身を続けてきたのだ。
皇宮での生活は、蜻蛉がその『弱み』を断てば明日にでも終わる。いつまで続くのかもわからない不安定な状況で、人の手を借りなければ実現できないような事業を始めるのは無責任であり、どうしても成し遂げたいなら、誰にも迷惑を掛けないように自分だけで可能な範囲に留めるべきだった。
すると、帝国や自治都市が運営する孤児院や救貧院での奉仕活動くらいしか思いつかない。神聖騎士団に迷惑を掛けないためとはいえ、一方的に退団届を送って行方をくらませた過去を持つ梟は、信仰を持ち続けながらも神殿に近づくことは避けており、教団が運営する養護施設も足を踏み入れることは憚られた。
特に帝都では、四年前の失踪時、相当大掛かりな捜索が行われたと聞く。帝都の神殿や教団関連施設には大使付き武官として滞在し、何度も足を運んでいたため、そこに勤める者たちに顔を知られている。今もそのことを覚えている者がいるかもしれず、神聖騎士ユリウスに関する手掛かりを作ることはしたくなかった。
ユリウスは死んだのだ。そうであれば、娼館の用心棒が、皇帝の『影』とは名ばかりの男妾のような扱いを受けていても、生家の名誉は保たれる。
(――扇屋の帰りに、孤児院と救貧院を一つ一つ訪ねてみよう)
心を決めると、自然と肩の力が抜けた。煉瓦の壁にもたれ、わずかに雲の浮かぶ空を見上げる。
晴々とどこまでも続く空の広さと比べ、自分にできることの卑小さに、梟は嘆息した。それでも、何もしないよりはましだった。
これまでの来し方への罪滅ぼしではない。罪を犯したとは思っていない。
己の手が血で穢れていることを、否定する気も卑下するつもりもない。かつて歩んだ騎士としての人生に、扇屋での三年間に、後悔も恥じる気持ちもない。
ただ、純粋で真っ直ぐな子供たちの側にいて、弱き者に思いを寄せる資格があるのかと問われれば、胸を張り肯定することはできなかった。敵とはいえ人の命を奪い糧にしてきた者が抱くには、おこがましい思いではないか、と。
こんな迷いを、身勝手な願いを、ハインツなら受けとめてくれるだろうか。
かつて愛人契約を結んでいた、あの大きくやさしい男なら。
薬草園は、村一つが丸ごと収まるほど広大な皇宮の敷地の、最も奥まった人の手の殆ど入らない区域にある。これほど宮殿から隔たった不便な場所に、薬草園が設置された理由は不明だった。もしかしたら、毒草研究に使用されていたのかもしれない。
おかげで、侍従を振り切ることさえできれば、心ゆくまで一人になれる。ようやく手に入れた自由と、一人の時間と空間に、梟は思わず大きく伸びをした。
視界を奪われ縛められた『仕置き』の直後、ほんの短い時間であるとはいえ錯乱し気を失って以来、梟の自由は大幅に制限されていた。
元々過保護気味で、日常的に梟を困惑させていた蜻蛉と侍従たちは、はっきりと過保護に――率直に言って、鬱陶しいほど気遣ってくる。侍従たちは梟の一挙手一投足を記録し、蜻蛉は詳細な報告を受け取って余すところなく目を通す。医師は常に側に控え、冷静な眼差しで梟を観察している。
この事態の元凶である蜻蛉は、侍従の報告だけでは満足しなかった。早々に――おそらく無理矢理公務を切り上げて、ともに夕食を摂りながら、注意深く梟の様子を確認している。本来皇帝の晩餐は私的な場ではなく、公的行事であるにもかかわらず。
そんな日々が、もう二週間以上続いている。夕食後の警邏も皇太子の剣術指南もしばらく取り止めになり、もちろん扇屋へ帰ることも許されない。
正直、息が詰まりそうだった。
それもこれも、騎士見習い時代に取り憑かれた悪霊の記憶のせいだ。
忘れたと思っていた十年以上も前の古い傷に、いまだ囚われている己の弱さが情けない。しかも、寝台で気を失った梟を介抱しながら、蜻蛉はためらうことなく侍従と医師を呼んだ。情交の痕が残るばかりか、二人の精で濡れた体を簡単に拭われただけの恥ずかしい状態で、医師に診られることになったのだ。
図らずも立てたばかりの誓いを証明することになり、梟は羞恥のあまり、いっそもう一度気を失いたいと願いながら、凄まじい精神的苦行に耐えた。
意識を取り戻した時、枕元に陣取っていたのは医師ではなく、蜻蛉だった。その緊張漲る表情に、一体どんな非常事態が出来したのかと、つられて緊張したほどだ。
梟の意識がはっきりしており、脈にも体温にも眼球の動きにも問題がなく、会話できる状態であることを確認した後、医師は穏やかに尋ねた。お気を失われたことに、お心当たりはございますか、と。
医師と蜻蛉の背後には、皇帝付きと梟付きの侍従長両名が控えており、特にヘルムートは心配のし過ぎで焦燥を通り越し、梟以上に感情の削がれた青白い顔でじっと主を見守っていた。
これだけ大事にされ、また多くの人に迷惑を掛けてしまった以上、黙っているわけにもいかず、梟は渋々告白した。――かつて、悪霊憑きだったことを。
蜻蛉にも侍従にも医師にも、俄かには信じ難いという顔をされたが、残念ながら事実だ。悪霊は新月の夜に現れ、その魔手を伸ばして体の自由を奪い、恐ろしさに震える少年の体を弄り、嘲笑った。
皇宮でも、背を斬られた後と拉致された後に、あの悪霊憑きの部屋で、蜻蛉に同じ目に遭わされた。まさか薬を使われているとは思わず、あの客屋に滞在していた間、毎夜悪霊の手に怯え、恐怖に耐えていたのだ。よくよく碌なことをしない男だと思う。
とにかく、『仕置き』のせいで過去の記憶が甦り、惑わされただけなのだ。
何度もそう言い、体には何の異常もないのだと訴えても、この手厚すぎる措置が解除される気配はない。辟易していると態度に出してみても、周囲の誰もが朗らかに黙殺してくる。
(この手厚さの十分の一でもいいから、騎士見習いが顧みられれば…)
同じような目に遭ったにもかかわらず、騎士見習いの時との待遇の差に、洩れるため息はただ苦い。
騎士見習いは言うに及ばず、騎士の待遇もまたさほど高いものではない。
神聖騎士は別格とされるが、『神の刃』と呼ばれ聖戦と称えられても、戦場は生きるか死ぬか、殺すか殺されるか、それだけだ。そこでは命の重さも、待遇の差も意味を持たない。
死ぬ前に与えられた任務を果たせれば良し、果たせなければ犬死にとなり、しかし末路は同じなのだ。どちらも簡単にでも弔われればまだましで、骸が荒野に打ち捨てられることは珍しくもない。
肉親との縁を絶った神聖騎士なら、尚更だった。家族は誰もその死を知ることはなく、手続きは名前が団員名簿から慰霊碑に移るだけで、厳かに追悼の祭儀が行われて、その生のすべてが終わる。
そうして何十人もの仲間を見送って、しかし生きている者は死者を振り返るのではなく、前を向き剣を取らねばならない。悲嘆に沈む暇などなく、時間が取れた時に一人神殿に籠り、静かに祈りを捧げることだけが、残った者にできることだった。
そしてそれすらも、死者を悼むというより、生き残った者の罪悪感や後ろめたさを埋め合わせる、利己的な儀式に過ぎないのかもしれなかった。
同じ年に騎士見習いになった者で、今も現役の騎士であり続けているのは、かつて互いの背を預けて戦ったハインツだけだろうと梟は思った。
四年前に神聖騎士団との繋がりは断たれたが、あの凄腕の騎士が戦場に倒れるなど想像もつかない。ただ腕が立つだけではなく、常に冷静沈着で頭も切れ、上層部の覚えもめでたかった彼ならば、役職を得て組織運営に携わっているかもしれない。
それほどの年月を、教団の騎士としてハインツと重ねたのだと今更ながら思い当たり、梟は奇妙な感慨を覚えた。
予測不能なきっかけで、騎士を退き教団からも去ることになったが、それまでは大きな怪我を負うこともなく、見習い時代も含め騎士として十二年を全うした。十二年という時間はあっという間に過ぎ去ったが、決して短い時間ではない。
その時間を、生家との縁を絶ちすべてが変わった色のない世界で、身一つで懸命に生き抜いた。まだ体が小さく剣の腕も未熟だった頃は、ハインツの助けと励ましがなければ、生き延びることはできなかったと確信するほど、毎日が苦しく厳しい日々だった。
騎士見習いだったあの頃に戻りたいとは、絶対に思わない。生まれ直して同じ道を進めと言われたら、その場でその生を拒絶する。
ただ、正式に騎士となった後は、死に近い場所で生きることになったものの、見習いの頃に比べれば特につらいと感じることはなかった。悪霊祓いも成功し、周囲に煩わされることなく実力でのし上がり、ハインツとともに、教団所属騎士団の中でも最高格を持つ神聖騎士団へと引き上げられた。
より命の危険の高い任務が多くなることは理解していたが、どの騎士団に所属していようと戦場に出れば死が身近に迫るのは同じだ。待遇の大幅な改善とともに、任務に関する融通も効くようになるため、粛々と辞令を受け入れた。
実質人殺しを生業としながら充実感を覚えるというのも、罪深く奇妙なことだが、神聖騎士団で過ごした日々に呵責を感じることはなかった。むしろ、神殿に入り騎士となったのもすべて神の御意志なのだ、と自然と腑に落ちた。
磨耗したのか元から欠けているのか、自分には敵となる人の死に痛みを感じる器官が無く、戦いに向いた人間なのだ、と。
だからこそ、皇帝の『弱み』に堕ち、男妾のように扱われながら安穏と暮らすくらいなら、名もなき傭兵となりかつてのように戦場に身を置き、今は亡き戦友たちに顔向けのできる生き方をしたいと思うこともあった。
しかし、蜻蛉の子供たちとやさしく心温まる時間を持つようになり、愛しいという感情を知った。
以来、己の持つ力を、人を殺めることではなく守ることに使いたいと願い始めている自分がいる。あの三兄妹だけではなく、すべての小さき者たちを。
梟は十歳で神殿に入った。今のテオドール皇太子より二歳年長なだけでまだまだ幼く、何も知らない子供だった。
今も教団の方針を批判するつもりはなく、そもそも食い詰めて家を出された者に衣食住を与え、将来の職を与えるだけで神の恩寵を地上に実現していると言えるが、騎士見習いの子供の日常は過酷だった。
これまでの人生を、不幸、不運だと思ったことはないし、今も思っていない。当時はただつらいとしか感じていなかったが、蜻蛉の子供たちを――幸せな子供を知った今ならわかる。
騎士見習いだった三年間は、不幸ではなかったかもしれないが、絶対的に幸せではなかった。
厳然とした貧富の差がある社会で、幸せではない子供が生まれ続け消耗され続ける構造は、残念ながら解消することはできず、梟にはその解決策も思い浮かばない。子供が大人の駒となり消費されるのは、騎士団に限らず、花街でも日常的に見掛ける光景だった。
その現実を幼い梟はただ受け入れ、今日を生き延び明日の日を見ることだけを胸に、ハインツと二人必死に足搔き、ひたすらに努めた。それができない者は、ただ淘汰された。
その淘汰されてしまう者たちを、すくい上げることはできないだろうか。強者でなくても生きていける道を作ることは。ーー厳しい鍛錬に耐えられず零れ落ち、いつのまにか姿を見なくなった子供たちの行き場を用意することは。
三兄妹の曇りのない笑顔を見るたびに頭に浮かぶのは、その思いだった。
仮の身分で町に出ることもある皇帝なら、民の実情を把握しており、梟が案じるまでもなく何らかの対策を立てているかもしれない。そうでなくても、為政者である蜻蛉に問えば、梟の思いを実現する方策を示してくれるかもしれない。
毎夜寝台に入る前に、今日は何か興味を引くことはあったかと訊ねてくる男なら。
ただ、どんな形であれ、蜻蛉の執心を利用することはしたくなかった。
執心としか形容できない、蜻蛉がぶつけてくる感情や行為が、ただ梟を欲望の捌け口とするだけのものではないことは、人の心の機微に疎い梟にもわかっていた。毎夜囁かれる執着を示す言葉にも態度にも、その高い熱量は感じられたが、どうすることもできずにいる。
求められるものはすべて捧げているつもりで、その上でさらに寄せられるものの受け取り方も受けとめ方も、知らないし、わからないのだ。
与えられた言葉を真に理解することなく、鸚鵡のように真似することはできる。しかし心の一部が欠けた人間には存在しない感情を、望まれても、ただの方便として口にしてはいけないとわかっていた。――愛している、と。
三兄妹と出会い、悲惨な状況に置かれた小さき者、弱き者に思いを馳せるようになったことも含めた日常は、蜻蛉の執心の上に成り立つものだ。失われれば、梟は皇宮を辞し扇屋の用心棒に戻ることになる。
その深い執着の一番の被害者はもちろん梟だが、何年も囚われ苦しんでいる蜻蛉もまた被害者と言えなくはなく、その妄執から解放されるのは早いに越したことはない。そのために、ーー蜻蛉に安寧をもたらすために、梟はできる限りの献身を続けてきたのだ。
皇宮での生活は、蜻蛉がその『弱み』を断てば明日にでも終わる。いつまで続くのかもわからない不安定な状況で、人の手を借りなければ実現できないような事業を始めるのは無責任であり、どうしても成し遂げたいなら、誰にも迷惑を掛けないように自分だけで可能な範囲に留めるべきだった。
すると、帝国や自治都市が運営する孤児院や救貧院での奉仕活動くらいしか思いつかない。神聖騎士団に迷惑を掛けないためとはいえ、一方的に退団届を送って行方をくらませた過去を持つ梟は、信仰を持ち続けながらも神殿に近づくことは避けており、教団が運営する養護施設も足を踏み入れることは憚られた。
特に帝都では、四年前の失踪時、相当大掛かりな捜索が行われたと聞く。帝都の神殿や教団関連施設には大使付き武官として滞在し、何度も足を運んでいたため、そこに勤める者たちに顔を知られている。今もそのことを覚えている者がいるかもしれず、神聖騎士ユリウスに関する手掛かりを作ることはしたくなかった。
ユリウスは死んだのだ。そうであれば、娼館の用心棒が、皇帝の『影』とは名ばかりの男妾のような扱いを受けていても、生家の名誉は保たれる。
(――扇屋の帰りに、孤児院と救貧院を一つ一つ訪ねてみよう)
心を決めると、自然と肩の力が抜けた。煉瓦の壁にもたれ、わずかに雲の浮かぶ空を見上げる。
晴々とどこまでも続く空の広さと比べ、自分にできることの卑小さに、梟は嘆息した。それでも、何もしないよりはましだった。
これまでの来し方への罪滅ぼしではない。罪を犯したとは思っていない。
己の手が血で穢れていることを、否定する気も卑下するつもりもない。かつて歩んだ騎士としての人生に、扇屋での三年間に、後悔も恥じる気持ちもない。
ただ、純粋で真っ直ぐな子供たちの側にいて、弱き者に思いを寄せる資格があるのかと問われれば、胸を張り肯定することはできなかった。敵とはいえ人の命を奪い糧にしてきた者が抱くには、おこがましい思いではないか、と。
こんな迷いを、身勝手な願いを、ハインツなら受けとめてくれるだろうか。
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