トゥモロウ・スピーチ

音羽夏生

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5章

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 闘技場でもこの居酒屋でも、かつて人気闘牛士だったテオバルドの顔を覚えている者は多く、何度も親しげに声を掛けられていた。今も引き締まった体をしているところを見ると、何かしらの鍛錬は続けているのだろう。数年の空白を埋めるのに、どれほどの時間を要するのか知る由もないが、復帰したら喜ぶファンは多いのではないだろうか――特に女性に。

「二足の草鞋は大変そうだけど、いいんじゃないか」
「勘違いもいい加減にしないと、煽られてると理解するぞ。俺は志貴だけにカッコつけたいんだ。――いいか、俺は、あんたを、口説いてるんだ」

 唸るような説教口調に、口籠もる。そういえば、あの忌々しい夜にそんなことを言っていたのだ、この男は。
 せっかくの楽しい宵に、水を差された気がした。

 志貴を陥れる罠が仕掛けられた、あの夜。
 その企みから志貴を救った男は、しかし梶との関係を邪推し、初対面で不埒な真似に及ぼうとした男でもあった。一度は、男の誘いに簡単に靡く人間だと思われたのだ。
 その誤解は、果たして本当に誤解となったのか。
 目の前の元闘牛士は、現役のスパイでもある。しかもスペイン外相の『友達』――お墨付きの凄腕だ。今は桐機関のリーダーとして日本のために働いているが、結局彼はこの国の飼い犬なのだ。あの夜、志貴を嵌めるために集められた男たちのように、甘く口説くその言葉の裏に、企みを隠していないという証拠はどこにもない。
 ナヴァスの罠を暴露することで自分を信頼させ、志貴が自らその魔手の餌食となるように仕向ける。口先で何を言おうと、内心では今も志貴を男の色仕掛けに流される人間だと――初対面の邪推は今も消えてはおらず、彼の中では誤解とはなっていないのではないか。

 あの夜芽生えた疑いは、喉に刺さった小骨のような不快さで志貴を苛んでいた。テオバルドが何を言っても、自分を懐柔するための小道具ではないかと身構えてしまう。
 問い詰めたい気持ちはあるが、自分が標的であることを除けば、彼の立場上、その働きは評価に値するものだ。一外交官として冷静にそう判断できるだけに、まんまとその手に乗るものかと兜の緒を締めながらも、間近に見るスパイの生態につい興味を抱いてしまう。
 標的となることで、その手管を観察できる。それを報告書にまとめれば、母国の諜報活動に役立つ事例となるはずだ。

 糧にならない経験はない。
 外交官だった父の口癖だ。遺訓とも思い大切にしている言葉だが、忠実であろうとすることで、こうして異国のスパイに口説かれる事態に甘んじているのかと思うと、どうした因果かと少々肩が落ちるのは否めない。
 志貴だけではない。仕事で男を口説かなければならないテオバルドも、スパイという名の業にどっぷり浸かっている。同情の余地はないが、もっと気軽な肩書きで出会い、シェイクスピアや闘牛について話すことができればよかったのに、とも思う。

(……いや、互いに今の肩書きでなければ、出会うこともなかったな)
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