絵の中に棲む夢

音羽夏生

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 詫びの言葉から始まるそれは、自分は元気にしていること、幼い頃からの夢――本当の夢だった作家を目指して修行しつつ働いていること、今度初めての作品集が出版されること、そして家族を気遣う言葉が記されていた。
 医師である祖父と父を心から尊敬しており、その背中を見ていたからこそ、自分に医師は務まらないと思い悩んでいたこと。人の命と向き合う覚悟をどうしても持てず、そんな自分に医師を目指す資格があるのかと、年を追うごとに追い詰められていったことも。

『一度帰りたい、帰って父さん母さんに謝りたい。けれどまだその心構えができない。だからまず景に、僕の近況を知らせることにした。卑怯なやり方ですまない。
 もし僕が帰ることで家族の和を乱すことになるのなら、僕は戻らない方がいいと思う。それだけでいいから、教えてもらえればとても嬉しい。そしてこの手紙のことは、父さん母さんには黙っていてほしい』

 文末には携帯の番号と三日前の日付。失踪の理由は簡潔にとどめ、切ないまでに家族を気遣う、どこまでも兄らしい文面。

 弟に医者になる能力があれば、失踪するほど追い詰められることはなかった兄。努力するふりすらしなかった不甲斐ない弟を責めることもなく、こうして頼って――今も続く家族の絆を信じて、手紙を書いてくれた。
 少なからず家族のエゴの対象――優秀な跡取りとして、自らが気楽に生きるための犠牲として扱われていたことに、敏い実継が気づかなかったわけがない。それでも自分勝手な家族を思い、会いたいと思ってくれている。自らの居場所をその手で築きながら、それでも帰りたいと伝えてくれている。
 兄はもう、以前の兄ではないのだろう。追い詰められ、思い詰め、すべてを捨てて逃げ出した弱さとやさしさを、痛みの根源である家に帰り家族に謝りたいと願う、背筋の通ったしなやかな強さに昇華させた。どこまでも家族を気遣う、そのやさしさだけは変えることなく。

 その兄を迎える自分も、もう過去の甘やかされた弟ではないことを、景は誇りに思う。そして、自分を変えてくれた、魔法使いのような少年との出会いを。
 兄の苦しみに気づくこともできなかった、罪に値するほどの愚鈍さを謝り、許しを乞いたい。そして兄の側から、両親との関係修復への架け橋となりたい。本来そうあるべきだった、誰もが仮面を被らず窒息することもなく、互いの顔を見て食卓を囲めるような、新しい家族の形を築けるように。

 景の異変を感じ取ったのか、勘定場から出てきた文也がそっと傍らに立った。

「大丈夫ですか」
「……『おにいちゃん』からだよ」
「え?」
「君の『おにいちゃん』からの手紙だ」

 手紙を押し付けると、文也は景が頷くのを待って、さっと文面に目を走らせた。実継と『おにいちゃん』が同一人物であることを確信し、ほぼ六年ぶりの兄からの便りに呆然としている景を見つめて静かに言った。

「連絡、してあげてください。上嶋さんの考えが落ち着いたら。日付は三日前だけど、ずっと待っていると思うから」
「……変に気を回してないで、とっとと帰って来いって怒鳴ってやるよ」

 そうしてあげてください、と呟いて景の袖を掴んだ少年を引き寄せ、抱きしめる。驚く間も与えずに唇を重ね、舌を差し入れて少年のそれを包み込んだ。
 兄の帰還が、『おにいちゃん』の帰還が、父母の失踪で魂が揺らぐほど傷ついた少年を癒すように。
 大切な人の無事を知って自分の中に湧き上がる喜びが、少しでも文也のものとなるように。

 それだけを願って、何度もキスを交わした。溺れる人が空気を求めるように、景は文也の唇を求めた。
 兄の無事の喜びと、袖を掴むことでしか『おにいちゃん』の帰還に揺れる自分を伝えられない恋人への愛おしさに溺れそうだった。
 やがて唇が離れ、二人の間に隙間ができて、文也はそこが鍵の掛かっていない店内であることを思い出したらしく、そそくさと勘定場に戻った。ぎこちなく景を見返す物慣れない恋人を愛しく思いつつ、景は最初に浮かんだ疑問を口にする。

「それにしてもこの手紙、本当にどうやってここまで来たんだか」
「ああ、それはそんなに不思議なことじゃないですよ」

 それまでの恥じらいを一瞬で脱ぎ捨て、店内の本に関する質問を受けた店番の顔で、文也は答える。

「古本屋の仕事は、単に古書を売買するんじゃなくて、本をあるべき場所、必要とされる場所へ導くことなんです。だからその手紙も、虎穴堂を頼ってきたんでしょう。祖父は古本屋の主人としては凄腕ですから」

 行く先を失った本を導くように、住所もない手紙を宛先人へと導き、人智を超えた絵を描いて彷徨う孫の魂を導く。
 古書肆とはそういう職業なのだろうか。そんな特殊技能を必要とする職業なのだろうか。
 文也がそうした特殊技能を持っているのか不明だが、彼には癒しという解呪を得意とする魔法使いの側面がある。人の心をほぐし、進むべき道を示して導く稀有な能力を備えている。
 すでにその片鱗を見せ始めている恋人のまだ見ぬ祖父、凄腕の古書肆と、文也をめぐっていつか対決する日が来るのかと思うと、それだけで目眩がしてくる。
 この恋を自覚して以来の習い性、ため息の大量生産をどうにか押しとどめ、それでも景は訊かずにはいられない。

「君のおじいさんて、一体何者?」
「前にも言ったでしょう。『おばけ屋敷』の主人で、うちに集まるものたちの主ですよ」

 さらりと答えるその内容は捨て置けないものだったが、その明るい笑顔は値千金の輝きで、景の心を眩しく照らした。
 化け物でも、魔法使いでも、人ならざるものでもかまわない。
 大切な人が傍らにいる。笑いかけてくれる。それがどれほど貴く素晴らしいことか、景は知っている。近い将来、上嶋家の全員がそのことを噛みしめる日が来るだろう。

「……失くしたものは、いつも君から返ってくる」

 兄も、兄の失踪で失った前向きな気持ちも、人を思い遣る心も、忘れていた恋心も。
 すべて文也から返ってきた。
 机の上に置かれた文也の手を取り、神聖なものに触れるようにその甲に口づける。

「君は『おばけ屋敷』の魔法使いなのかもしれないね」

 真面目な顔で告げる景に、頬を赤らめた魔法使いは、

「僕は魔法学校ホグワーツの生徒じゃないですよ」

ファンタジー小説も嗜んでいるらしい的外れな返事をして、動揺をごまかすように、今すべての軛から解き放たれたその恋人を軽く睨んだ。
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