絵の中に棲む夢

音羽夏生

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 運動会シーズンの高く澄んだ空に、地上をやさしく撫でるように吹き渡る風が気持ちいい。
 ようやくしつこい残暑もなりを潜め、駅までとはいえ自転車通学の景は、ほっと一息つける秋の到来にペダルを漕ぐ足捌きも快調だ。
 自転車を電車に乗り換えて五駅揺られ、駅から大学まで歩いて十分。
 今日の講義は午後からなので、時間はまだ二時間ほどある。頼まれていた古書を片手に、景は高間教授の研究室を訪ねた。

 長い廊下を歩きながら、この包みを手渡してくれた少年と、彼を取り巻く静謐で重厚な空間を思い出す。バイトが入っていてゆっくりすることはできなかったが、虎穴堂での時間はスローモーションで撮られた映画のように印象的で、一コマ一コマを鮮明に脳裏に映し出すことができた。

(浮世離れした場所だったな……あの店番の子も)

 『高間研究室』と簡素なプラスチックの札が貼られたドアをノックし、返事を待って中に入る。珍しく中には教授一人で、パソコンの画面に目を向けながらお茶を啜っていた。

「頼まれものを届けに来ました」
「ああ、ありがとう。ご苦労だったね、助かったよ」

 何を勘違いしているのか、研究室に出入りする学生を顎で使う教授もいる中、高間教授は親しい中にも礼儀ありを地を行く、アカハラからは最も遠いところに生息している人物だ。その穏やかな人柄と物腰は、学生たちの間でも人気が高い。
 特に興味があってそのゼミを取ったわけではなかったが、一人の人間としての高間教授を景は尊敬していた。

「上嶋君もお茶を飲んでいかんかね、さっき丸山先生から出張土産の饅頭をもらったんだ」
「ありがとうございます」
「悪いがセルフで」
「わかってます」

 勝手知ったる他人の研究室だ
 忙しそうに画面に目を走らせる教授の茶碗の中身もだいぶ減っている。湯沸しポットの湯量は十分だったので、急須の中身を共同の給湯室の生ゴミ入れに捨て、新しい茶葉を茶匙ですくって入れる。湯を注いで茶葉が蒸れるのをしばらく待ち、教授に声を掛けた。

「教授、お茶取り替えますけど」
「お、すまんね」

 確認したいことが終わったのか、教授はようやく画面から顔を上げた。二人分交互に注いだお茶を机に置くと、出がらしではない香りに目元を緩めた。

「昔から英語が苦手でね。国文学を専攻すれば縁が切れるだろうと思ったのに、何だって英語のメールなんか読まなきゃいけないんだか」

 心の底からぼやくように言うので、思わず笑ってしまった。

「教授の研究が海外からも注目されてるってことでしょ? 光栄と思うべきですよ」
「そうは言ってもねぇ、長年しみついた苦手意識はどうにもならんよ」

 肩を落としつつため息をついて、ふと思い出したように教授は景の持ってきた包みを手に取った。

「もう随分虎穴堂にも行ってないなぁ、あそこは私の心のオアシスなのに。上嶋君は地元だから、いつでも行けるんだな。羨ましいよ」
「でも俺、今回初めてなんですよ、あそこに行ったの」
「ほう、それはもったいない。で、どうだった?」
「何というか、来る者拒むといった外観ですけど、中に入ると落ち着くというか――癒される感じでした」
「そうだろう、癒されるんだよ」

 賛同者を得たとばかりに、教授はうんうんと子供のように頷いた。

「仕入れで多忙なのか店主にはなかなか会えないけど、文也君がまたよく出来た子だからね。昨日の店番は文也君だったかね?」
「高校生くらいの子でしたよ」
「それが文也君だよ」

 「あの店主、本当に店に腰を落ち着けることがないな」と教授は呆れ口調で付け足し、お茶を一口啜って顔を顰めた。猫舌なのだ。

「あれは本当に大した子だよ、あの膨大な本棚の中身を完璧に把握してるんだから。何を訊いてもすぐに的確な答えが返ってくるし、私設の助手を雇う余裕があれば絶対に彼にお願いしたいところだ」
「あの本棚の中身って……嘘でしょ」

 数え上げるだけでも難事業の、凄まじい本の海だった。下手したら溺れてしまいそうな。それを把握し管理しているとは、事実ならただの店番ではなく司書の域だ。というより、優秀なリファレンスシステムを備えたデータベースだ。

「それに今時珍しく、自ら家業を継ぐと言ってるんだよ。自分の家だから、自分が守ると言ってね。あんな素晴らしい跡取りがいて、店主も安心なことだろう。その前にうちの研究室に来て私の手伝いをしてもらいたいものだけど、あの子は修堂高校に通う秀才だからなぁ。研究の質と情熱は他の研究者に劣るとは思わないが、偏差値を考えるとうちはあの子にそぐわないし」

 景は黙って勧められた饅頭に手を伸ばし、セロファンの包みを剥いてかぶりついた。

(あの子、今時のアイドルみたいな顔して、田舎の古本屋を継ぐのか)

 こめかみの上あたりがじんわり痺れて冷たくなっていくのを無視しながら、口の中の甘さに無理矢理集中する。

(家を守るって、結局はあの古い黴臭い中で根腐れるように生きてくってことだろ。頭も顔もいいんなら、もっとマシな人生目標を立てればいいのに)

『実継がいなくなって、誰がこの家を、上嶋医院を守るというんだ』

 遠いところで落ちる水音のように、頭の中に響いて広がる声がする。額を押さえて肩を落とす父の姿。

『あなたの知り合いで、医大に通うお嬢さん持つ人はいないの? 景と結婚して、病院も継いでもらえば』
『馬鹿を言いなさい。どの面下げて、我が家は医者を育てるのに失敗したのでお宅のお嬢さんをくださいなんて言える? ――景には最初から期待してなかったが、こんなことならちゃんと勉強させておくんだった』
『浪人しないと言ったあの子を許したのは、あなたですよ』
『何年浪人したところで、景が理系に転向できるとは思えん。……諦めるしかない、三代続いた上嶋医院を』
『……実継が戻ってくれたら……』

 フラッシュバックのような記憶の再生に吐き気がこみ上げたが、咀嚼した饅頭とともに熱いお茶で飲み下した。
 饅頭の礼を述べて研究室を辞し、景は廊下に出た。努めて思い出さないようにしている傷の痛みに、頭の芯はすっかり冷えきっていた。

 天下の修堂高校で常に上位の成績を維持しつつ生徒会長も務めた、絵に描いたような優等生だった三歳年長の兄は、両親の期待に応え志望通りに医学部の合格通知を手に入れた日、ひっそりと姿を消した。
 身の回りの品と着替え、少しの現金がなくなっており、「ごめんなさい、さがさないでください」と書き置かれた紙片に覚悟の失踪であると知れた。両親はすぐに捜索届を出したが、事件性が低く家庭の問題で片付く性格の失踪だったため、警察は一応の捜査はしたものの熱心ではなく、幾人か雇った探偵も役に立たなかった。

 あれから五年半、兄の抜けた父と母と次男の関係は錆びついたままだ。
 穏やかでやさしく、父の跡を継いで医者になることに異議を唱えることもなく勉学に励み、その夢への第一歩を踏み出した途端に消えてしまった実継。
 彼を失踪へ追いやった理由を、誰も知らない。思いつくことすらできない。仲睦まじい家族のはずだった自分たちでさえも。

 あれ以来、自分は、両親は、本音の口を閉ざしている。一度溢れてしまったら、諸刃の言葉で取り返しのつかないところまで追いつめてしまいそうで、お互い竦んでしまっている。長男の失踪で子供に向き合う方法をすっかり忘れてしまったかのように、父も母も腫れ物を触るように次男を扱う。景も知らない人のように距離を置いて両親と接した。
 つまるところ、父も母も景も、この期に及んで自分のことを考えている。自分を鎧い、傷つかないようにすることで手一杯だ。それを証明するような、エゴに満ちた深夜の居間の両親の会話。

 幼い頃から、出来の良い実継と比較されるたび、両親が実継を自慢するたびに、嫉妬と劣等感をタバコの火のように押しつけられた。しかし、そうまでして努力しないと両親にやさしい言葉を掛けてもらえない兄に比べ、馬鹿な子ほど可愛いを地で行くように無条件で可愛がられた自分は、両親の中で兄よりも上なのだと根拠もなく信じきっていた。
 息子の失踪ではなく、後継者の不在を嘆く両親を偶然盗み見た時、初めて兄という人の哀しさを思った。そして、優秀な後継者である兄がいたからこそ、理系科目は全滅で、医者には逆立ちしたってなれない自分の存在が許されていたことを思い知らされた。

『……実継が戻ってくれたら……』

 あの夜の母の声が甦る。
 もし兄が戻ってきたら、五年半の空白と苦悩を飛び越えて、両親は喜んで迎えるだろう。実継という可能性を捨てきれない両親が届けを出しているせいで、合格した医学部にはまだ籍が残っているから、復学して医者の卵になることも可能だ。後継者を取り戻した上嶋家は元に戻り、何事もなかったように日々は過ぎるかもしれない。
 長男の不在で、一家にとって何の役にも立たないことを露呈した次男の居場所を、永遠に奪ったまま。
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