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高校編
高一・清明の次候①
しおりを挟む見渡すかぎりの草原。
ざわざわと草を鳴らし風が吹き抜けていく。
空が眩しい。
一体ここはどこなのか、と思う俺の横に、光を受けて映えるパステルカラーを見つけた。小柄な体にまとわれた、ふんわりした桜色のワンピース。
「まだ見えるね」
スカートの裾を風にひらめかせながら、イコが振り向いていた。ふわふわの髪には薔薇のつぼみの髪飾り。俺の横で立ち止まって、後ろを見つめている。
遠くに花園が見える。ベビーピンクと淡いオレンジの薔薇。壊れた鳥籠はつる薔薇に埋もれてもう分からない。
しばらく見なかった鳥籠の夢、あの続きなのか。
意外だった。もう見ないのだろうと勝手に思っていた。
「たぁくん」
呼ばれてイコを見下ろせば、何かつまんだ手をこちらへ伸ばしている。
「はい、あーん!」
よく見ると、美しくカットされた透明で硬質な粒、クリスタルみたいに虹色を反射する飴玉サイズの石だった。にこにこと可愛いイコの手を優しくつかんで、迷わず自分の口元へ誘導する。
口の中へ入れた瞬間。
『たぁくんは、何事にもちゃんと取り組んで、雑なことをしない。そういうところ、とっても尊敬する!』
『変にはしゃいだりしないで、静かな声で話すでしょう。具合悪くてもね、たぁくんの声は耳が辛くないの。特別』
『たぁくんの手は優しくてあったかい魔法の手だからなあ。他の生き物みたいに、私も攻略されてしまいましたよ! 犬に猫にウサギに私に……、どれだけ手玉に取ったんですかい旦那ぁ』
一気にイコの言葉が自分の中から溢れてきた。時に真っ直ぐ、時にからかいを含んだ、俺を見る優しい視点。ふとしたときにイコが褒めてくれる言葉が、俺の中に入った小さな結晶を育ててゆく。
『たぁくんが、大好き!』
ああ。
胸が震える。
この結晶は、いつか俺にとって『どんなに辛くても、これさえあれば生きていける』―――そういうものに育つのかもしれない。そんな予感がする。
「ありがとうイコ」
結晶を飲み込んだ後、呼びかけて気付く。イコの気配がない。
「……イコ?」
イコのいない草原を見渡す。日がかげりはじめた。地平線の向こうからにじむように黒い雲が広がる。たった一瞬、蛇の舌に似た紫電が空を舐める。
雨が、来る。
◇
朝の1組はざわざわとうるさい。
2組はのんびりしてる、とイコは嬉しそうに教えてくれたが、1組はどうもピリピリしている。小柄や宅益などが人当たりではまだいい方だとか、極端すぎるだろう。
来年は一緒のクラスに、なんて言っていたけれど、このぶんじゃイコは2組の方が良さそうだ。
窓側1番後ろ。俺は身長から割り当てられただろう席で考え込む。
今朝、何か夢を見て起きたような気がする。忘れたくない、忘れてはいけない、胸がざわめくような夢を。
朝はまだ、見た夢がなにがしかの形になっていたのに、時間が経てば経つほどおぼろげで不確かになってゆき、焦燥だけが残っている。
一体何だったのか、と頬杖をついた拍子に、朝重ねたイコの唇を思い出した。煮え切らないもやもやが胸の奥から消え、柔らかく甘い記憶に塗り替えられる。
イコ。
俺の可愛い、お姫様。
小さくて、細くて、壊れてしまいそうに弱い体を持ちながら、俺なんかより世界を細かく見て素敵なところを楽しんでいる。外に出られる時間も会える人も、俺よりよほど少ないのに。
当たり前だったはずのつまらない日常の色を、イコがその眼差しで塗りかえてくれる。
イコの言葉を聞いていると、世界を再発見したような気になる。イコの軽やかな笑い声が、突拍子もない発言が、可愛い笑顔が大好きだ。誰より側で聞いていたい。見ていたい。
イコのことが、誰より好きだ。
「おーい、今日は全校朝会だぞ。2組が行ったら教室出ろー。今動いてるのが3組あたりだから、あともう少しだな」
入ってきた担任の筑市先生が全体に呼びかける。まだ40才にならないくらい、おじさんとお兄さんの間、という感じの先生だ。
「えっめんどくっさ」
「それ行かなきゃダメですかー」
近くの席に座って話していた男子ふたりがつまらなそうに訊く。
ふたりは成績こそいいが態度の悪い奴らだ。どうも、いいとこの家の子らしく、学舎以外の進学を家から認められなかったらしい。
行きたいところへ行けなかった鬱屈がたまっているのだとしても、それは担任のせいじゃないのに。ふるまいがまだ幼い。
「あのな、もし全校朝会中にクラスから何か無くなってみろ。学校にいるのに全校朝会出なかった奴が疑われるだろ? そうそう事件なんか起きないけど、自分から疑いの種を作るなんて面倒くさい事するなよ。どっちも不愉快になるだろ? 『李下に冠を正さず』だ」
筑市先生は眉を寄せて言うと、ふたりの側まで行って机に手をついた。
「わかったら行くぞ。ホラ、たっち! たっちしてくだしゃいねー」
「うわキモっ」
「わかったよ行く! 行きますから! なに抱えようとしてるんスか、自分で立てます!」
「え? だっこいらない? そりゃよかった」
育休から復職したばかりの先生は、たまに幼児語が出るいいパパでもある。
公立学校で育休する男性職員はたまにみられても、私立ではまだ珍しい。復職して即選抜1組の担任とは、周りに文句を言わせない程に有能ということなのか。世話好き、というか、塾の伊井先生を思い出す雰囲気の人だけれど。
「まだギリギリ間に合う。貴重品がある奴は、急いでロッカーへ預けてこいよー」
言い残して筑市先生は出て行った。廊下側にある窓から、移動していく他のクラスが見える。
この、イコの腰から上くらいの高さから付いている窓は、見学や視察の人間が中へ入らずとも様子が見えるように、という配慮らしい。学舎は県政財界からの寄付が多い分、視察も多く入るのだという。
先生は窓について「授業中、のぞかれても気にならないぐらいの集中力を見せろよー、それができりゃあ、誰が入ってきたって平気なはずだ。赤ん坊がそばでギャン泣きしても、揺るがないくらい集中してみろ!」とコメントしていた。要所要所で乳幼児ネタが入る人だ。
そろそろ2組も移動し終わるだろうか。イコの姿はまだ見えなかった。気をつけて眺めていたのに、イコの姿をとらえる前にひとのかたまりが途切れる。なんでイコがいない?
もしや見逃したかと立ち上がると、ようやくイコが廊下の窓から見えた。ふたりの女子に伴われてゆっくりと歩いている。
ひとりは入学式で仲好くなったと言っていた、どこかの若女将だ。歩き方がふらふらと頼りないイコを支えている。
待て。
おかしい。
イコの顔色が悪い。歩き方があやしい。いつもと違いすぎる。
イコたちの後ろには誰もいない、きっと2組の最後尾だ。なら俺が後ろについてもなんの問題もないだろう、早足で教室のドアへ向かう。
俺が廊下へ近づく間もイコの体はふらふらと揺れ、俺がドアに手をかけた瞬間、大きくぐらりとかしいで窓から姿を消す。
「きゃあ、イコちゃん!?」
慌てて俺がドアを開けるのと、廊下に女子の悲鳴が上がったのは同時だった。
「イコ!?」
座り込んだふたりの女子に抱えられ、真っ青な顔をして、イコが倒れていた。
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