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中学編
番外編 中三・春分の次候①
しおりを挟む早朝、いつものペロの散歩兼走り込みのために外へ出れば、朝靄の中、冷たい空気が肺を満たした。
頭を空っぽにして道のりの前半を走り、途中から少しずつ、速度を落としながら進む。周りを見る余裕が出てくる。
そこここの家の庭で、梅が咲いている。山茶花はそろそろ終わりだ。葉のない高い木についた、白く大きな蕾は白木蓮かコブシか。たくさんの白い小さな花が付いた木は、毒を持つ馬酔木。ふと黄色に目を引かれ、菜の花を見つけ嬉しくなる。
イコ、春が来たぞ。
まだ天気は安定しない。急な冷え込みはまだいい方で、いきなりあられが降ってきたりする。春先の霜など果樹には厳禁だから、一晩中火をたいて気流を作り木々を守る、なんてこともある。
けれど確かにここに、春が来ている。待ち望んだ春が。
イコをさいなむものが、ひとつ減る。
イコと付き合いはじめてから、俺は春の気配に敏感になった。目に入る花の名前が気にかかり、イコはこの花が好きだろうか、なんて思う。桃の枝と薔薇の花束を、この間見た梅の花と香りを、イコがとても喜んでくれたから。
今度はどの花がイコの笑顔を生むだろう? そう考えるのも楽しい。
ペロが人の気配を感じたか、はしゃぎはじめた。本当に番犬に向かないなお前。この分だと相手へ飛びつくかもしれない、どこからくるだろうと回りを見渡すと、生け垣の先、嘉規さんのうちの門からおじさんの姿が見えた。
「おはようございます」
「おはよう丈夫ちゃん」
おじさんは長靴を履き首からタオルを掛け、背中に噴霧器の本体を背負っている。かぶっている緑の野球帽はつばが傷んでいて、年季が入っていた。
「お仕事、早くからお疲れさまです。薬剤ですか」
「うん。範囲狭いからもう終わったけど。元々、うちはあんまり薬使わないからねえ」
「先日はお世話になりました」
喜んで飛びつきたがるペロのリードをしっかり握り直しながら頭を下げると、嘉規さんちのおじさんは苦笑いする。
「いやあ、岩並さんちのひとに会うたびに、言われっぱなしだよそれ。こっちの方がたくさんお世話になってるのにさあ」
おじさんはどっこいしょ、と庭石へ座ると、噴霧器を降ろし俺を手招きした。お邪魔します、と断ってから門の中へ入って側に立つ。おじさんは足に飛びつくペロにも構わず、にやにやしながら見上げてきた。
「どう、彼女とは仲好くやってる?」
「えっ」
直球で訊ねられ言葉に詰まったけれど、なんとか返事を絞り出す。
「はい、おかげさまで」
「あはは、赤くなってるよ! いいね、若いね。どっかデート行った?」
「映画、とか。あと近場で、天神梅街道を」
「そりゃずいぶん近場だなー。まあそうだよな、中学生だもんなあ」
金かかることなんかできないよな、とおじさんが頷いた。
金のかかること。
イコは金のかかるデートを望まないのでは、という気がする。にぎやかなことも遠出も、体が心配だということもあるだろうが。
梅を見に行った時のように、あまり金を使う場面がない方が安心して過ごしていたように思う。俺が何か支払おうとすると、少しのことでも申し訳ないと肩を縮めるのだ。
「ひとごみがこたえる、体の弱いコなんです。冬も辛いらしくて。嘉規さんからいただいた薔薇、春が一足先に来たって、とても喜んでいました。梅街道も、春の花だし、何かあればすぐ帰って来られるから行ってみたんです」
「喜んでた?」
「はい」
「よかったねえ」
「はい」
花も、心遣いも、両方喜んでくれる感受性の強い女の子なんです、そんなところも大好きなんです。
そう言いたかったけれど、口には出さない。
「でも、いただいたって丈夫ちゃん、お買い上げしてくれたじゃないか」
「代金、ちょっとしか受け取ってくれなかったじゃないですか」
「そりゃ、除雪手伝ってもらったもんなあ。役場に行ってもボランティアいつ来るかわかんないし、ひと雇えばもっとかかるし。1番困ってたときに助けてもらったからいいんだよ」
冬場の除雪ボランティアは高齢者世帯優先だ。頼んでも嘉規さんのうちは後回しになっただろう。
「それにさ、丈夫ちゃんの恋にひと役かったなんて、ご近所じゃ羨ましがられるとこだって」
「なんでですか……」
「そりゃあ泰山さん有名だもんな。俺たちなんか親から聞かされて育った世代だ」
嫁取りの話のせいでじいちゃんはこの辺じゃ有名だ。お陰で地域のひとに話しかけられることも、親切にしてもらうことも多い。
よほどじいちゃんと俺は似ているのか、若いときのじいちゃんを知っている人はそっくりだと言うし、知らないひとも「泰山さんのお孫さんなの? どおりでねえ!」とひとりで納得する。
「嫁大事にして仕事もできるとか、格好いいよなあ。うちは花卉部の方だから、聞いた話だけど。あのひとが来ると青果部のひと気持ち悪くなるらしいよ。知ってた?」
「気持ち悪い?」
それは聞いたことがない。
「いい年こいたおっさんが、みんな恋する乙女みたいになるんだってさ。そんな中、あのひとしれっと特選の等級出して帰るだろ。その背中にまたしびれるらしいよ」
「ええ……?」
知らないところでじいちゃんが人気者になっていた。
「じいちゃんは、うちでは」
「うん」
「いつも何かしら仕事しているか、ばあちゃん眺めながらにこにこしてるかどちらかなので、ぴんとこないです」
「おおー、想像通りじゃないですか」
おじさんは楽しげに笑うと、じゃれるペロの頭をなでる。
「丈夫ちゃん、ビニールハウス見せてあげるから、彼女とおいでよ。岩並さんちから近いし、そんな動かないから負担もないだろ」
「えっ、いいんですか」
「うん。観光薔薇園みたいなことできないかって青年会で相談されてさ。ひとに見せるのってどんなもんだろと思ってたの。露地栽培の方は今、薔薇が休眠期だから見て楽しいもんじゃないし、ビニールハウスも切り花用の蕾がほとんどだけど、ちょこっと咲かせてるのもあるからさ」
構ってもらって元気になったペロが、しっぽをちぎれんばかりに振る。
「お客のおもてなしってやつ? 試してみなきゃなーって、うちの母ちゃんと話してたとこなんだ。だから、もしよかったら彼女とおいで」
薔薇のビニールハウス。
雛祭りにイコへ贈った花束を用意するとき、少しだけ入らせてもらった。
色とりどり、様々な種類の薔薇。ほとんどは出荷に合わせ蕾だけれど、試験的に植えたものや、頼まれて別に納品するというものが大輪の花を咲かせていて、規格外になってしまい切り取られた花が無造作に生けられて、とてもいい香りがした。
きっと、イコも楽しめる。
「ありがとうございます! 喜びます、きっと」
「おー、丈夫ちゃんがはしゃぐとか、レアなもの見たなー。で? どんなコなの、彼女」
どんなコか訊かれた瞬間、脳裏にどっとイコの記憶が溢れて、体温が上がる。
ふわふわと柔らかな髪。瞳孔や虹彩のきわさえ分からないほど深く謎めいて濃い色の瞳。赤く小さな唇から名前を呼ばれる、それだけで俺は簡単に幸せになってしまえる。
焦がれて、焦がれて、ようやく両思いになれて、触れ合うことを許してもらえた、大切なこいびと。
俺の大事なお姫様。
「体が弱くてあんまり外に出られないから白くて、細くて。小さくて可愛くて。短めの髪がふわふわしてて、動きが小動物っぽくて可愛いんです」
「おー、もう可愛いが2回出てきた。それで?」
「ちょっと早口で跳ねるみたいな話し方が可愛くて、笑い声とか、笑顔とか……大好きなんです」
「大好きかー。いいねー、どのくらい?」
どのくらい?
訊かれて考え込む。
俺は、どのくらいイコが好きだ?
「俺」
「うん」
「きっと、イコのおむつ替えてやれます」
「うわあ、なんかすごいのろけ出てきた! それ高齢者になってからの話だよね? プレイじゃないよね?」
「おじさん、中学生に何を言ってるんですか……」
「丈夫ちゃんも、中学生が何を言ってるんですか。介護とか若さがないこと言っちゃって」
おじさんは野球帽を脱いでガジガジと頭をかくと、ため息をついた。
「これって泰山さんの血かなあ、すっげえな……」
なんのことだか、よくわからなかった。
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