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中学編

ふたりの中三・啓蟄の次候

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 塾の町支部校。
 籍を移した初日に、はじめてイコと会った場所。そして長い間、イコとはここでしか会えなかった。
 前の席に座った小さな体を見つめて、焦がれて、いない時には不安になって。

『岩並君、岩並君!』

 可愛い声に、楽しげに跳ねるような早口で呼ばれるだけで、すぐ幸せになれた。つい最近まで、こんなに一緒にいられるなんて思いもよらないくらいの仲だったのだ。
 側にいられる時間が過ぎ去るのを惜しんで、宝物のようにして過ごしていた3年間の日々。

「先生にありがとう言ったし、みんなにさよなら言ったし、忘れてることないかなあ?」

 振り向いてこちらの机で頬杖をつきつつ、イコは思案顔だ。真面目な顔さえ愛おしくて、指先で頬をなぞれば、静かに目を閉じてされるがままになっている。
 7年間通っていたイコには、別れの意味はさらに大きいだろう。以前見せた、環境が変わっていくことへの不安は、今は表に出ていない。

 これから先、いろんな所へ行こう、イコ。
 いろんなことをしてみよう。
 一緒に。
 いつだってお前と一緒にいたいと、心の底から願ってる。

 みんな別れを口にしつつ、合格の余韻、もしくは不合格の焦燥から、早く教室から出て行った。残っているのは俺たちだけだ。

「俺からはホワイトデーのお返しがあるな」

 イコに触れるのをやめ、花柄のパッケージを鞄から取り出す。俺の手にはちょっと似合わない、淡い水彩調の薔薇模様だ。

「わあ、お菓子?」
「マシュマロなんだ」
「ありがとう、たぁくん! 開けてみていい?」

 どうぞ、と答えると、細い指先が箱を開けていく。白い特大マシュマロは、透明なビニール袋に入れられてなお、甘酸っぱい薔薇の香りを放った。

「イコがチョコを手作りしてくれたのに、こんなお返しで悪いんだけれど」
「ううん、これでっかいね! おいしそうだし、いいにおい。一緒に食べようよ」
「3つしか入ってないのにいいのか?」
「2人で半分こだよ」

 折れそうな指先がビニール袋を破ろうとして、白い筋を作って終わる。開かない、とちょっとしょんぼりしたイコから受け取り、大きく破いて広げる。中身はクルミぐらいの大きなマシュマロだ。

「いただきます。中、何か入ってるのかな」
「見てみるか」

 2人ともウェットティッシュで手をふいてから、マシュマロを手にする。俺が手にしたマシュマロを半分にちぎると、中から薔薇ジャムが出てきて、さらに香りが増した。

「ほぁ、いいにおーい」
「ほら」

 半分をイコの口元へ差しだす。

 何を贈ろうか考えていたとき、パッケージを見てこれだと思った。中身が薔薇ジャム入りマシュマロだと知って、なおさらぴったりだと思ったのだ。店先にも花の香りがしていた。イコに贈りたくなる春の香りだった。
 愛を伝える花の香り。
 小さな赤い唇が開いて、小粒な歯をちらりと見せながらマシュマロを食べる。手にかすかにかかる吐息、近づく体温に、今更ながらどきどきする。このまま指を口に含ませ、柔らかな舌に触れたくなる欲求を抑えて問う。

「どうだ?」
「おいひい!」

 もきゅもきゅ口を動かしながら返事をするイコが可愛い。ハムスターみたいだ。軽く魅惑の頬袋(仮)をつついてから残りの半分を自分の口に入れれば、甘酸っぱい柔らかな花を食べているようだ。

「薔薇の香りが強いね! そのままお花食べてるみたい」

 思ったことと同じことをイコが口にした。そうして恥ずかしそうに頬を染める。

「たぁくんの贈り物、いつも素敵で、こう、なんだか毎回プロポーズされてる気分になる」
「正解」
「えっ」

 目をまんまるく見開いたイコの、華奢なあごを指で軽く押し上げ、顔を近づける。体温が伝わるくらい近くでささやく。

「いつもそのくらいのつもりでいるんだ。俺がどれだけイコを好きなのか、知ってもらいたいから」
「今日はキス、ケチらない?」
「ケチらない」

 薔薇の香りの甘いくちづけ。
 何度も角度を変えて繰り返しするうちに、キスは深いものに変わっていく。もう触れるだけの軽いくちづけで我慢なんてできやしないのだ。濡れた音と吐息に耳を侵されて、互いの柔らかさに夢中になって、むさぼるようなキスを続ける。

 好きだ。
 この小さな唇も、少し早口の話し方も、こちらを見上げる濃く深い色の瞳とまなざしも、世界を楽しむ感性も、傷つきやすい心も、イコの全部が好きでたまらない。
 焦がれて、焦がれて、でも嫌われることを恐れて、3年間のほとんどを前に進めずに過ごした。ようやく手を伸ばす決心がついて、こうして触れることを許された今が奇跡のようだ。

 はじまりの場所を去る前にしたくちづけを、俺は一生忘れないだろう。

 イコも、そうだといい。


 ◇


 たぁくんと2人並んで、外から町支部校を眺める。
 民家をリフォームして使っている、ちょっと所帯じみた、けれど温かみのある塾。外見を裏切らず中の先生たちもあったかかった。

 中3の授業が終わったのにまだ煌々と明かりがついている。先生たちは今、残念ながら公立入試に落ちた人の相談にのっているのだろう。二次募集にかけるのか滑り止めに進学するか。長くなるその話し合いにも、先生たちは熱心に応じているに違いない。

 7年間お世話になった場所。

「長くいたイコほどではないだろうけど、俺にとっても、ここは大事な場所だ」

 イコと会えたから、とたぁくんが静かに言う。私を見るその眼差しが、優しく私の感傷に寄りそってくれる。
 恵まれた体格と容姿を持つ、けれどそれを鼻にかけることなど思いつきもしない、誠実で真面目な男の子。優しくて何事も一生懸命な、私の大好きなひと。

 帰り道、付き合い始めてからは家の前まで送ってくれるようになった。校区外へ出て戻るわけだからずいぶんな距離なのに、「イコと一緒にいたいんだ」と気にも留めない。それどころか、たぁくんは雪の時期が終わっても自転車を使わず、歩いて塾へ来るようになっていた。「時間がかかっても構わない、イコと一緒に手をつないで歩きたいんだ」という理由に思い切り照れてしまった。

 それも今日で終わり。
 きっともうここには来ない。

「イコ、帰ろう」

 差しだされた大きな手に、そっと手を重ねる。
 つないだ手の暖かさに泣きそうになる。ここを離れて迎える高校生活は、どんなだろう。

 さようなら、ありがとうございました。
 大事な出会いさえくれた私の居場所。


 私は子ども時代に別れを告げて、大好きなひとと歩き出す。
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