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中学編
中三・大寒の末候②
しおりを挟む「イコ。腹に入れるものを買ってきた。吐き気は?」
「……ううん」
疲れ果て頭痛に動けなくなったイコのために、クラッシュタイプのこんにゃくゼリー飲料と水を手にしてしゃがみ込む。胃が空だとよくないことぐらい、俺だって薬に縁がなくても知っている。
イコは今日歩き回るからと、命綱セットは持たずに来たが、最低限の薬は用意していたらしい。腹の中にものを入れさせ、水で薬を飲むのを見守る。
こくり、と鳴る細く白い喉。細い指が濡れた口元をぬぐい、ずらしたマスクを直す。目を閉じ再び動かなくなったイコの手から、俺は水の入ったペットボトルを取りビニール袋に入れた。
「少し動けるようになったら、もっと楽に休める所に行こう」
「いま、いく」
小さな声。
「大丈夫か?」
「ここ、あかるすぎて、つらい」
回りを拒絶するように、イコはうつむいて身を縮める。
吹き抜けの大きな天井、たくさんの店舗からそそぐ光。自販機さえも照明があかあかとついている。ショッピングモールは光の洪水だ。
イコが頭痛持ちだと知ってから、多少頭痛について調べた。片頭痛は薬を飲んで、暗く静かな部屋で休むのが1番らしい。音、光、においなど、外界からの刺激が痛みや吐き気を悪化させるのだ。
できるだけ早く、イコを静かに休める場所へ連れて行かないといけない。
「わかった。イコが嫌じゃなければ、背中におぶって行く」
「うん……」
イコからバッグを受け取り、背中を向けてしゃがむ。
肩口から首に細い腕が回され、一瞬うなじがぞくりとしたのち、背中に小さな重みが生まれる。頼りなく軽い、でも何より大事な重み。
ありがとう、と耳の辺りで呟かれた。礼なんかいらない。イコを任せる相手を間違えた俺が悪いんだ。そのまま膝を抱えて立とうとすると、小さな声で静止がかかる。
「いわなみ、くん。おしりもって。すわるとこ、できて、らくだから……」
「いいのか、そんな所触っても」
「ん……」
俺は言われた通り、イコの尻を支えて立つ。柔らかな感触はダウンコートである。絶対そうだ。イコは具合が悪いんだ、だから落ち着け、俺。
イコを揺らさないようにそっと移動する。近くにあった案内板をチェックし、最短の移動経路を探す。幸いそう遠くない場所にエレベーターがあった。乗り込み、イコが苦しくならないよう、極力回りから空間を保って立つ。
「大丈夫か、気持ち悪くないか」
「うん」
細かく階へ止まるエレベーターに焦れる。八つ当たりだとわかっていても、背中の重みの頼りなさが苦しくて苛立つ。
俺はきっと、この小さな軽いものを守るためなら、何だってするだろう。だってこんなにイコが苦しむことが辛いのだ。俺はイコの痛みのひとかけらだって代わってやれない。
イコ。
俺は、お前が安心して頼ることのできる人間になりたい。
きっとまだ俺には、いろんなものが足りないのだ。
◇
ショッピングモールに併設されたシネコンのロビーは薄暗く、置かれたソファーもふかふかしていて座り心地がいい。大きなモニターから流れる予告の音こそうるさいが、離れてしまえば周囲の雑音並になる。
イコを休ませる場所として思いついたのがここだった。
端の長いソファーへ降ろされたイコは、力尽きたように横になっている。マスクは息苦しいととうに外していた。靴を脱いで白いダウンのコートへくるまる姿は、繭に包まれたさなぎのようだ。
俺はイコの頭のすぐ横へ座り、異変があればすぐわかるようにイコを見おろす。背もたれにひじをついて上から眺めれば、イコはなおさら小さく見えた。
耳から入るのは何度も何度も繰り返される映画の予告編。
呼吸に上下する肩を見つめて、どれくらい経った頃だろうか。
「いわなみ、くん」
小さな声に、慌ててイコの頭の方へと上半身を屈める。
イコは下を向いて身を縮めていて、顔が見えない。
「どうした」
「ありがとう。ごめんなさい、楽しいお出かけだったのに」
「謝らなくていい、イコが悪い訳じゃない」
「烈さんだって、悪い訳じゃないんだよ……」
薬が効いてきたのか、イコの話し方がしっかりしてきた。俺はイコの頭をなでる。
早く、よくなれ。早くイコの体が楽になれ。願いながら指で髪をすく。
「烈さんね、いろんなお洋服勧めてくれたんだ。ママと私が選ばないような服。楽しかったんだけど、試着って疲れるんだね。何度もしてたら、ヘロヘロになっちゃった」
「あちこち連れ回されたんだろう?」
「私を楽しませようとしてくれたんだよ。私がね、途中で疲れてきたから休ませてほしいって、言えればよかった。気がついたらヘロヘロで、できなかったんだ」
自分を恥じるようにソファーへことさら顔を隠す。続く言葉は、自分に言い聞かせるものだった。
「もうすぐ高校生だもん。ちゃんと、自分の体と折り合いつけられるようにならなきゃだめなのに……」
「一気にやろうとしても無理だろう。少しずつ、折り合いをつければいい」
伊井先生は甘やかすなと言ったけれど、俺には無理そうだ。そんなにがんばり過ぎるなよ、イコ。なにも急ぐことなんかない。
「うん……。そうだね。そうなんだけど……」
消え入りそうな呟きを残して、またしばらくイコは動かなくなった。
こうして一緒にいても、わからないことばかりだ。
イコ、今何を考えてる?
できないことばかり数えて、自分を責めるのはやめてくれ。少しずつでいいんだ。少しずつ外へ出て、少しずつ知って、少しずつできるようになればいい。そしてできるなら、一緒にいさせてくれ。
俺はイコの髪をかきあげ、指先で耳をなぞる。可愛い可愛い、小さな耳。耳たぶの柔らかさが愛しい。
「ふ……」
「悪い、頭痛にさわるか」
「うう、ん。きもちい……」
もぞり、と小さな体が動く。ふわふわな髪をすき頭をなでながら、俺はイコの様子をうかがう。
なあ、イコ。がんばるお前の側にいられないと、俺は心配でどうにかなりそうだ。
それから10分くらい経って、イコはようやく身を起こし普通に座れるようになった。
深く座ると膝が曲げられなくなるため、必然的に浅くちょこんとソファーへ座るイコが可愛い。回りを気にする元気が出たか、きょろきょろと壁に貼られたポスターを眺め首をかしげる。
「せっかく映画館に来たのに、今日は映画見られないね。岩並君、見たいのある?」
「ひとつ。歴史物なんだ。でもラブロマンス風らしいから、迷ってる」
「歴史物が好きなのですか、岩並君?」
「ああ。洋画も邦画も、両方。近代でもそれより前でもいい」
「私も歴史物好き。コメディもヒューマンドラマも。邦画より洋画の方が好きかな。火薬やCGでドンパチしてるのは嫌いじゃないけど、あれは体力が持たないから見られないんだよね」
「ドンパチ」
端的だ。
「今度見に来よう岩並君」
「そうだな」
「ちょっと桃色で、うふんであはんなやつないかなぁ」
「それはひとりで見てくれ」
「ちょっとじゃご不満かな? エロエロで激しいのがお好みですか岩並君」
「どうしてそうなるんだ!」
抗議は長く続かない。にこにこしているイコに安堵のため息が出る。よかった。安心ついでに抱きしめたくなる。衝動をこらえて、頭をなでるにとどめる。
「元気になったな」
「おかげさまで。ありがとう岩並君」
俺に向かって礼を言うと、イコはテーブルの上にある上映スケジュールへ手を伸ばした。
「春休み、またラインナップがかわるね」
「そうだな、子ども向けなんかも増えそうだ」
「大人向けで面白そうなのがあったら見に来ようよ」
「そうだな」
「2人だったら、ペアシートゆったり使えるし」
「そっ、そう、だな」
ペアシートに腰掛け、指を絡めながらふたりで映画を見る想像をしてしまい、動揺を外に出さないように押さえ込む。
酷い不意打ちだ。
スケジュールのチラシをひっくり返しているイコを盗み見る。
なあ、イコ。
それは、映画デートのお誘いで、いいのか?
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