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中学編
不健康女子の中三・冬至の末候②
しおりを挟む「悪い」
イコ、と私を呼んだ岩並君は、我に返ってうつむいた。
ああ、そうか。
やっぱり空耳じゃなかった。私が脳内で作った幻聴ではなかったのだ、ずっとそうかもしれないと疑っていて、だから本人には訊けなかった。
『早くよくなれ、イコ』
貧血の時に聞いた、あの優しい声。
「悪くないよ、世渡でもイコでも呼びやすい方でよいのです。でもイコの方が仲好しって感じするね」
ね? と見上げると、岩並君は顔を赤らめた。口を開いて、閉じて、何か言葉を探している。
「とりあえず座って! お茶出すから」
「あ、ああ。わかった……イコ」
ためらいがちに付け加えられた言葉に嬉しくなる。
熱々の緑茶を入れて出し、自分の分も持って彼の向かいに座れば、まだ岩並君は落ちつかないようにそわそわしている。いつも泰然と座っているひとなのに。
「なあ、これ、持って帰っていいか。ちゃんと記録に残してから食べたい」
「そんなに気に入った? ペロちゃんとるりちゃん、溺愛してるんだねえ。ラップもタッパーもあるから、使っていいよ」
「ありがとう」
喜んでもらえてよかった。でも、岩並君が落ち着くように気を配ったはずなのに、なんか悪化してる気がするんだよね。もしや逆効果ですか。謎。
「さて、と。改めまして、新春お茶会にご参加ありがとうございます。今回は、年末辺りから寝ぼける様子が見られた岩並君が心配で計画された企画ですー」
「俺が……そうか」
「あと年末年始も忙しかったって聞いて、勉強前にちょっとでものんびりしてもらえたらと思って。おつかれさまです」
「ありがとうイコ、嬉しいよ」
「では時間も限られてるので始めちゃいましょう、いただきまーす」
「いただきます」
私はさっそく自分の分のペロちゃん(羊羹)を食べる。岩並君のお皿にあるのがなんとか上手くできたもので、私のはちょっとペロちゃんがおでぶなのだ。証拠隠滅!
「一番最初にいったな」
「だって食べ物だし」
羊羹美味しいです。もぐもぐ。
彼はといえば、普通の羊羹の方を食べはじめる。ペロちゃんとるりちゃん(お菓子)を食べないなら、羊羹もっと厚めに切ってあげればよかったな。
「そういえば、さっきの歌は何だったんだ?」
「そこ掘り返すのですか!? 案外容赦ないな! 忘れようよ岩並君」
「無理だあんな歌詞」
「ぐぬぬ」
確かにあの歌詞は忘れられない。
「深夜アニメのオープニングなの。主人公の女子高生がどこかの王族の御落胤で、闘うのが好きで強い相手を探して旅をしてて、負かした相手に毎回惚れられるんだけど置いてっちゃうっていう話」
「はあ」
「で、主人公のお師匠様が、なぜか女体化して現代まで生き延びていた宮本武蔵で」
「えっ」
「爆乳フンドシ美女で女性キャラでは一番人気」
「えっ」
「最近、偉人女体化も爆乳も逆ハーも珍しくないんだよー」
「日本は大丈夫なのか……」
岩並君は遠い目をした。だめですよそこは、喜びながら「日本始まったな!」とか言わなきゃ。
岩並君は年末年始の話をしてくれた。
神社のお手伝いがとっても忙しかったこと。近所のおじいさんが飲み過ぎちゃって新年早々息子のお嫁さんにこっぴどく叱られていたこと。
またしてもお姉さんの烈さんが女装と間違われて、でも烈さんはもう慣れたもので、巫女服の下に花柄の服を着て打ち上げで「この桜吹雪が目に入らぬかー!」をやって憂さ晴らしをしていたこと。
「巫女服でやるか普通。神主の宮居のおじさん、苦笑いしてた。普通なら怒られるところだ」
「あはは! でもほら、毎回女装と間違われちゃうんでしょう? それでもちゃんとお手伝いしてるんだから偉いんだよ」
席を立って、「お茶のおかわりは?」と訊くと、「ありがとう、イコ」と湯飲みを差し出してくれる。教卓の水筒から緑茶を注ぎながら思う。
どうして、そんなに大事そうに、嬉しそうに私の名前を口にするの。岩並君。
「そうそう、私ちゃんと、除夜の鐘聞きながらお願い事をしたよ! 岩並君のお願い事が満願成就しますようにって」
「ありがとう、俺も元旦の朝にイコのこともお参りしておいたから」
「うん、ありがとう。ね、岩並君のお願い事って何だったの」
お茶を出して席に着きながら訊くと、岩並君が苦笑する。
「秘密」
「ずるいー」
「叶っているかどうか、わからない願い事なんだ。わかった時は叶わなかった時だから、できればずっとわからないままでいたい、とは思う」
「なあに、トンチですか岩並吉四六さん」
岩並君は、難しい謎かけみたいなことを言って、考え込む私を優しい目で眺める。
今日の彼の紅茶色のまなざしは、いつもよりずっととろりと甘い。なんだか胸が詰まって、羊羹も入らなくなりそうだ。
「なんか、お腹一杯になってきちゃった。岩並君、私の羊羹いらない?」
菓子楊枝ではちみつ羊羹を刺して差し出すと、岩並君が少し身を引く。
「なんか、そのままだと刺さりそうだ」
確かに、今日の菓子楊枝はステンレス製だ。大体モノが刺さっているとはいえ、カトラリーを人に向けるとかやっちゃいけないことだよね。私は大いに反省して羊羹を皿に戻す。
さてどうしよう、私はお手拭きで丁寧に手を拭き直すと、直接羊羹を摘まんで差し出した。
「はい、どうぞ!」
そうして、岩並君が赤面したのを見て失敗を悟る。
皿ごと渡すとか、岩並君のお皿に載せてあげるとか、色々方法があったはずなのに私は何をやってるんだろう、潔癖症相手であれば絶交されちゃう案件だ。こういうところが抜けている。
ダメだなあ私、なんて思いながら彼のお皿へ羊羹を置くため腕を下げようとしたけれど、同時に手首を柔らかく掴まれて動けなくなる。
「本当に、細いな」
目を細めて私を見ながら、ため息交じりに優しく呟く。
掴まれた腕は強く握られている訳でもないのに自由にならない。そのまま岩並君の口元へ運ばれる。
大きな手に包まれた手首、指先に感じる呼気。ぱくん、と食べた岩並君の唇が指をかすめて、体にぞくぞくっと震えが走る。
はちみつを入れすぎてほとんどはちみつ、みたいな紅茶の瞳が、甘く甘く私を見る。
「ありがとう、美味しい」
顔が熱い。息が苦しい。体中が、着てる服の衣ずれさえくすぐったくてムズムズする。
ええ誰、このひと誰、私の知ってる岩並君じゃない!
手が離された腕をパッと引っ込めると、岩並君が喉の奥でくつくつ笑う。ホントに誰だ! お気遣い紳士はどこへ行った。
「ああイコ、羊羹の金箔が付いてる」
「えっ、ど、どこ!?」
「ここ」
長い腕が私の方へ伸ばされ、大きな右手が私の頬を包むように触れた。そのまま、親指が唇を撫でる。
「っ!」
見つめないで。
そんなに愛おしげに、切なげに見ないで。
雰囲気に飲まれて身動きもできない。あったかくて大きな岩並君の手。頭がぼんやりしてくるのは、息がしにくくて酸欠だからだ、きっとそう。
酸素が足りなくてバグってる。
おかしくなっているから、こんなことを思うんだ。
今唇に触れている親指を、いつか私がされたときのように、口にくわえてしまいたい、なんて。
「てっ」
「て?」
岩並君が 私の顔から手を離して訊く。
耐えられずにぷるぷる震えながら、私は声を絞り出す。
「撤収ーッ!!」
もうそろそろ、お片づけの時間。
だからいいのだ。
これは戦略的撤退です。
逃げて、なにが、悪い!!
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