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中学編

中三・立冬の末候①

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「Su〇caって便利だね! これなら当日もすいすいだねー」

 改札を通ってはしゃぐイコが可愛い。

 膝丈のウールのスカートはグレーのチェック。細く控え目に赤い線が入っていて、厚手の生地なのにふんわりしている。短めのベージュジャケットはダブルのきちんとした衿で、いいところのお嬢さん、という印象だ。
 いつもなら寒がってタイツを履いているのに、今日は雨だから濡れてもいいようにと生足だ。ささいな衝撃でも砕けてしまいそうな小さくて白い膝がちらちら見えて、そのたびに胸がきゅうっと締め付けられる。

 小さい。可愛い。食べてしまいたい。

 そんなことばかり考えているから、何が食べたい? ときかれて「世渡が食べたい」なんて口走りそうになるんだ。あれは焦った。落ち着け俺。
 かくいう俺の服は今日も姉さんの手が入っている。

『あんたは上半身に淡い色ね。制服とかならまだ形で大丈夫だけど、濃い色着るとでかいから威圧感が凄いんだって。黒のハイネックに黒のパンツなんか着たら、これから2人ほどりにいくヒットマンにしか見えない! 狙撃銃入れたギターケースしか似合わなくなるからね!?』

 服のアドバイスついでに、勝手に俺を非合法な職業へたとえてくる姉に土産を約束させられた。今回は色々動き回るためそんなに改まった服ではないが「トレンドはおさえといた!」らしい。
 そのためなのかどうなのか。あいにくの小雨の中、世渡家へ迎えに行った俺を見て、出てきたイコは開口一番「わーおしゃれだー! おはよう岩並君」と笑顔になった。俺を見上げてギンガムが可愛いとはしゃぐ、本人が1番可愛い。

 そんなイコは、今日は小さなバッグしか持っていない。いつもなら大量の荷物いのちづなを持ってふらふら歩いているのだが、出掛けるには身軽な方がいいと諦めさせられたらしい。「だから迷惑かけちゃうかもしれない」なんて困ったように言ってきた。
 いくらだってかけてくれていいのに。むしろその役目を誰かに奪われたなら、俺はきっと傷ついて、しばらく使い物にならないだろう。

『イコちゃんの体調が悪くなったり、急に何かあったら、すぐにタクシーを拾って連れ帰ってください』

 世渡家でイコが身支度に引っ込んでいる間、イコのお母さんが俺に封筒を渡しながら頼んできた。

『イコちゃん帰るの嫌がるかもしれないけど、下見はまたできるから、岩並君の判断でお願いね。本当は、こんなの出番がないといいんだけど』

 イコはこうやって守られている。それでも年に何度も寝込んでしまう。寒い中、半袖短パンで走り回って育ってきた俺とは全く違うのだ。
 どうしようもない部分が多い中、周りの配慮できることは全てしておきたいという願いが、このひとを、中学生の俺なんかへ頭を下げさせている。
 後で確認したら、封筒には1万円が入っていた。どこで何があってもいいようにだろう。こんな物を預けられるのだ、信用されているのだと思いたい。

「改札内のトイレも場所を見たし、改札を出たところのトイレはあそこだな。駅なら困った時は窓口に行けばいい」
「うん。どこから出よう?」
「学校に近い出口は東口か。あっちだな」

 俺たちが改札内を確認している間に雨は本降りになったのだろう。床が濡れて滑りやすそうだ。ブーツを履いたイコも歩きにくそうにしている。ゆっくり隣を歩いて、何かあればすぐ手を貸せるよう心構えをしておく。

 駅構内はトイレなどが真新しく整備されているが、基本は古い駅舎のままなのだろう。段差が多い印象だ。バリアフリー部分を利用する場合、回り道を強いられるに違いない。ぱっと見て見当たらないのだ。中をいじれなくて外側に設置したんだろうと予想は簡単につく。
 極力、イコには歩きにくい場所を通らせたくないんだが。

「わ」

 東口の階段の前でイコが立ち止まる。つい俺も顔をしかめてしまった。いくらなんでもこれはないだろう。
 下へ降り駅から出るための階段は、角度が急で段が狭い、およそヒューマンフレンドリーとは無縁の酷いものだった。きっと国営時代から変わっていないのだろう。

「これ怖いね」
「そうだな。当日は人がもっと多いだろうし、回り道でも違う所を通った方がよさそうだ」

 怖いと言いつつイコが降りようと進んでいく。

「おい世渡」
「とりあえず学舎まで行って、帰りに違う入り口を通ればいいよね」

 手すりをつかんでそろそろと降りていく。俺は慌てて後ろについた。小さな背中を追いかける。

「うわあ、土砂降りになってるよ!」

 後半分というところで、外から雨が激しく入り込んでいる様子にイコが立ち止まった。手すりから手を離し、俺の方を向く。

「酷いな。ゲリラ豪雨なら、もう少しすれば収まるんだろうけど」
「でも今日、予報はずっと雨だったよね」

 止むかなあ、なんて言いながらイコはまた降りはじめて。
 足を滑らせ階段を踏み外した。

 イコの体が傾いて宙へ浮く。俺は左手で手すりを強く握り右腕を思い切り伸ばして細い腰をすくい取る。そのまま自分の胸元へ小さな体を押し付け華奢な肩へ顔をうずめ、全身で落とさぬように固定する。

 かつん、かつ、かつ、かつ、かつ。

 イコの腕から外れたカサが、階段の上を左右へ飛び跳ねながら落ちていき、地面に転がり雨を浴びる。

 動けない。
 息が苦しい。心臓がばくばくとうるさく、それはイコも同じで、小さな体を抱きしめたまま暴れ回る2つの心臓の音を聞く。腕を巻き付けた腰は折れそうなほど細く柔らかく、手加減ができなかったことが恐ろしくなる。無事かとききたいのに話すこともできず、抱き寄せたイコの肩口で、荒い息をすることしかできない。

 ああ、イコ。大事な、大事な、俺の大好きな女の子。
 こんなところで、こんなつまらないことで、危ない目になんて遭わないでくれよ。

 俺は心の中で、こんな危ない階段をそのままにしている無能な大人をののしった。今日をこんな天気にした空を恨み、降りようとするイコを止めなかった自分のうかつさを思う。

 イコの問題点は、体の弱さと体力のなさだけじゃない。外に出る機会が少なく、経験がないため状況に応じた体の使い方がわかっていないのだ。
 だから、電車の席に普通のイスの感覚で座ってしまい、少しの振動で席から投げ出されそうになったりする。危ない階段だとわかっているのに、途中で手すりから手を離す。
 自分の身を自分で守る事ができない。悪循環だとわかっていても、親は過保護にならざるを得ないのだろう。

「岩並、君」
「……なんだ」

 弱々しい、小さな呟き。

「びっ、くり、した」
「ああ」
「こわ、かった」
「ああ」
「ありがとう」
「ああ」

 俺はイコの肩口に顔をうずめたまま、深く深く息をつく。

「大丈夫か」
「うん」
「もう絶対、この階段使うな」
「うん」
「回り道でもエレベーターだ」
「うん」
「階段は降りきるまで手すりを離すな」
「うん」
「そもそも危ないと思ったら止めておけ」
「うん」
「世渡」
「はい」

 心の底から言う。

「無事でよかった」

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