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中学編

中三・立冬の初候④

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 新しく知ったこと。
 まつげが長くて、目を伏せると大人びて見えること。
 紅茶は緑茶や番茶みたいに、何も入れずに飲むこと。
 自分の家にいると、安心するのかもっと笑顔が増えること。
 案外、グラマーだったこと……他多数。

 たった半日の勉強会で、たくさんイコを知り、たくさん笑顔を見て、たくさん名前を呼ばれた。
『岩並君』と、可愛い声で呼ばれるたびに、唇に触れたくて、くちづけがしたくて、何だってしてやりたくなった。今までなら「いいよ、悪いよ」と遠慮されていたようなことも、最近は素直に受けてもらえるようになったからなおさらだ。
 尻をぺちぺち叩かれたのは驚いたが、それだけ親密になれたということだろう。

 体温の伝わるほど近くで一緒にした理科は、目をきらきらさせて話を聞くイコの姿が見られたから成功と言える。お勉強なのに楽しい、面白かったとの感想で、ここ数日の準備も報われた。
 時折腕同士がくっついたり、イコの吐息が手にかかったりする度に、正気を保とうとメモをひたすらめくっていたのは、バレていないと思いたい。

『私の先生してくれると嬉しいです』

 見上げてくるそのまなざしに、深い深い濃い色の目に求められる喜びが、日に日に強くなる。もはや俺はイコに飼い慣らされているのだろう。
 それでもいい気がしてきて困る。
 きっと今、俺はとても浮かれているのだ。

「キモッ」

 そんな俺をひと言で切って捨てた姉さんは、居間で俺の土産のケーキを食べている。母さんとばあちゃんも一緒だ。ケーキを3つ買ってきてよかった。

「帰って来てからずーっとでれでれじゃない、キモい」
「まあまあ、あんたの見立てた服が役に立ったってことでしょ」

 悪態をつく姉を見ず口先だけでなだめつつ、チョコケーキを頬張る母。

「そーかね、柿右衛門のカレー皿に揃いの小鉢だったかね」
「玄関からして上品なのねえ、世渡さんちは」

 陶芸が趣味のばあちゃんは世渡家で使われていた器に興味深々だ。母さんはというと、玄関や和室のしつらえについて感心しきりである。うちの玄関の間取りでは真似はできないが、話を聞いているだけでも楽しい様子。
 姉さんはというと。

「お人形とかお姫様みたいだったとかその顔でよく言うよねー。ほんっとに男ってAラインのフレアスカート好きだな!」

 やはりイコの服が気になっている模様。
 仕方ないだろう、そう見えたんだから。座ってもなおたっぷりのスカートの布が広がって、イコがまるで開いた花のようだったのだ。

「ブラックウォッチのロングフレアワンピースに紺のパフスリーブのカーデか。形は甘めなのに色味で真面目系にしてる訳ね。白系のカーデで可愛く着ることもできるのにやらないってことは、やっぱ真面目コーデが基本なんだな、イコちゃんのお母さんチョイスは……」

 ケーキをつつきながらぶつぶつ言うと顔を上げる。

「優等生服が多いみたいだね、イコちゃん。隣に並ぶなら……カジュアルダウンしたモード系か」

 姉さんは俺を横目でねめつけた。

「でもあんた一歩間違うと極道かマフィアみたいになるからなあ」
「ごっ……!」

 品行方正に生きてきたつもりなのにひどい言われようだ。絶句した俺をよそに、さっさとケーキを平らげた姉さんは、畳の上へひっくり返る。

「あー、会ってみたい! 色々服を着せてみたい! 今度連れてきなさいよイコちゃん」
「そうよねー、うちに招待したらいいわ」
「簡単に言うなよ」

 そもそもどんな理由でうちに誘うのだ。

「そんなのどうとでもなるでしょう、でかい図体して肝っ玉小さいんだから」
「思い切って誘ってみなさいよ、遊びにおいでって」

 ああ、姉さんも母さんも簡単に言ってくれる。
 イコをうちに招く?
 それができたらどんなにいいか!


 ◇


 勉強会の余韻を引きずりつつも、日々は過ぎていく。
 教室で帰り支度をしていると、担任に、帰りに職員室へ寄るよう言われた。
 荷物を廊下へ置き「失礼します」と一声かけて職員室へ入る。

「岩並君。推薦のことだけど」

 ぽっちゃりしたおばさん、という風体の担任は、すぐに話を切り出した。

「12月の職員会議で正式に決まるけど、一応は、岩並君の希望通りに学舎へ推薦する形になりそうです。ただ、期末テストの結果も考慮するから、気を抜かないでね」
「わかりました、ありがとうございます」
「推薦をもらっても、学舎に確実に入れるかどうかはわかりません。あそこは普通の私立とは違うもの。推薦が正式に決まり次第、面接の練習をしましょうね」

 そこまでは真面目な顔をしていた先生は、にまりと笑って小さな声になる。

「岩並君は学舎が好んで取る生徒そのものだから、大丈夫だと思うけどね! 成績も内申も申し分なし。中学に空手部がなくても、くすぶったりせずサッカー部でレギュラー。高校では空手に打ち込みたいと願っている……。動機も十分!」

 まずは期末テストをがんばってね、との言葉とともに職員室から送り出された。

 私立文武学舎高等学校、通称学舎。
 県下トップレベルの私立高校だ。元々は幕末から明治の混乱期に、日本を背負う人間をこの地から、と願い武家の人々が設立を呼びかけ、豪農、豪商の出資で作られた学校である。
 県内一厳しいというこの学校は、設立の経緯の通り武士道の色が濃い。文武両道を是とし、剣道、弓道などの武術系部活動が盛んだ。空手に打ち込みたい県内の人間が憧れる学校でもある。
 俺の第一志望校だ。

 ここは生徒をほとんど推薦と専願で取る。基本、私立の推薦や専願はそれほど難しくないがここは違う。
 県内一厳しいこの学校に自分から通いたいと熱望し、かつふさわしい学力、人柄、志望理由がなければ推薦でさえ通らないことがあるのだ。
 いい成績をとるためがんばってきたのも、ここの推薦をもらいたいからだった。

 俺はひっそりとため息をつく。
 とりあえず、推薦で受験はできそうだ。期末テストがあるから油断はできないが。

 そういえば。
 イコも私立狙いだと言っていたが、志望校の話までは出なかった、と思い出す。どこを受ける気だろうか。あれだけ毎回寝込んでいれば出席日数が足りないはずだから、きっと推薦は取れないだろう。専願になるのか。

 まだ色々な事が不確かで、どうなるかわからない。
 わからないけれど。

 まずは無事に高校生になりたいな。なあ、イコ。

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