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中学編

中三・立冬の初候①

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 永井がいなくて寂しかったのだろう、今日ははじめからあまり元気がなかった分、イコはずいぶん甘えん坊だった。

俺の机で重ねた両腕の上にあごを乗せ、こちらを黒目がちな目で見て話しかけてきて、俺はもうその上目使いに速攻で胸を撃ち抜かれた。
 たまらない。瞬殺だ。できることならイコを膝の上に座らせて、思う存分甘やかしてやりたい。
 休み時間中ひっきりなしに話しかけられたが、あまりにも可愛くて、イコの顔を直視できたのは数えるほどだ。

 俺は黒板を向くフリをしながら、イコの背中を見つめる。
 前には狭い肩幅と厚みのない小柄な体。さっきまで俺が触れていた頭を上げて、イコは黒板とノートへ交互に視線を向けながら、真面目に板書を写している。

 ああ。
 触れてしまった。

 永井のことに自分のことを合わせて話す、そのイコの様子があまりに痛々しくて切なくて、つい、許しも得ずに触ってしまった。
 必要に迫られ抱き上げて運んだいつかの時とは違う。
 慰めたくて、触れたくて手を伸ばした。
 イコの柔らかな髪と、体温と、華奢な骨の感触が、まだ左手に残っている。

 嫌がりもせず、目を閉じ気持ちよさそうに小さな頭、ふわふわな髪を俺になでられるままだったイコは、本当に仔猫にそっくりだった。力を入れたらすぐに砕けてしまいそうな小さな頭は、その感触のはかなさまでよく似ていて。
 もう愛しくて可愛くて、多分あの一瞬、俺の顔面は、でれでれに崩壊していたに違いない。

 イコの背中を見ながら思う。

 お前が本音を口にしてくれて嬉しいよ、イコ。
 謝る必要なんかない、俺は、お前が気兼ねなく本音で話せる相手になりたいんだ。

 ―――だからこそ。
 知っていないといけないことがある。


 ◇


 長く休んでいた間の分の課題を採点をしてもらうため、イコが職員室へ出かけた直後、「ぶふあっ!!」というくぐもった叫びとともに、俺の席と欠席の仲良の机を挟んだ席に座る女子が、机の上へ横倒しに突っ伏した。

「甘い! 空気で! 息ができないッ!!」
「大野君が休んだからなー。防波堤なくて巻添まきぞえさん直撃だ」
「ギガ泥棒並の強引さでラブストーリーが始まったんだけど何なの!?」
「なでなでしてるときの! 岩並君の! 顔!!」
「ヤバい、顔ヤバい」
「誰かモザイク持ってこい!」
「あれで、なんで世渡さん気付かないのかな」
「世渡さん、もしかして生命維持以外のスイッチ切ってるんじゃ……?」
「鈍いんじゃなくて、あれセーブモードか!」

 例によって好き勝手、散々な言われようだ。俺の顔のこと以外で気になる発言もあったが、まずはみんなに訊きたい。

「―――世渡は第二中にちゅうで居心地の悪い思いをしてるのか」

 黙っていられなかったのだ、声が少し固いものになったのは許してほしい。
 俺の、教室にいる全員への言葉で、しん、と静まり返った中、ため息がひとつ。

「学年全体ではそんな空気はないよ。大体が小学校からずっと一緒の連中だ、世渡さんがどんな体質なのかよく知ってるし、性格だってわかってる。たまにとばっちりが来ることはあっても、基本、少し周りから離れたポジションにいるだけの、人当たりがいい素直な人だってね」

 イコとは同じクラス、委員会も一緒の脇谷だった。
 脇谷は窓際の席で皮肉っぽく笑いながら、ただ、と言葉を続ける。

「同じクラスに、自分大好きなお子様がいるんだ。そこからの風当たりが強かった。自分が注目されてないと嫌だっていうお子様だから、体調関連でどうしても目立つ世渡さんが許せなかったんだろう。でも、以前の話かな」
「以前?」
「中三は受験で忙しいだろう? みんな声が大きいだけのお子様の相手なんかしてられないんだよ。だから世渡さんがわずらわされることもなくなったわけ。お子様だけは、状況がよくわかっていないみたいだけど」

 そうして、肩をすくめる。

「まあ世渡さん本人は、お子様が騒いでいようとへこんでいようとどうでもいいだろうけどね。あの人はそういう人だろ? いつもマイペースで、自分の世界を持ってる。小さな体してさっきは結構勇ましいこと言ってたし」

『ほんとうがほしいの』

 イコは痛々しいくらいきっぱり言い切っていた。たとえ傷ついても、見せかけだけの優しさはいらないと。あんなに折れそうに細く小さな弱い体をしていていながら、イコはなかなかに苛烈だ。

「まさかと思うけど、口を挟んだりしないよね、岩並君?」

 黙って考え込む俺を見て、脇谷は眉を寄せた。

「後数ヶ月で卒業だっていうのに、外から蒸し返すのは悪手だよ。世渡さんは例のお子様を自分の世界から排除して気にしてないようだから、今更何を言ったところで岩並君の自己満足でしかない」
「心配するな、どうもしないさ。ありがとう脇谷、よくわかった」

 以前八つ当たりみたいな態度を取ってしまった相手だ、なおさらちゃんと礼を言わないといけない。もうこの話は終わりだ、と言う意思表示とともに脇谷へ頭を下げると、教室の空気がふっと和らいだ。それを感じながら思う。

 話を聞いたところでは、今のところ自分のできることはないようだ。脇谷の言うとおり、下手に動けばイコの迷惑になるだけだろう。
 今まで、イコはともかく、イコの周辺に関しては無関心が過ぎた。だが無力を嘆くより、今回は少しだけでも、イコの周りを知ることができたと考えた方がいい。
 そう、結局は、何があってもイコの味方であればいいのだ。

 さっきもらった鉛筆キャップの人形を、つまんで手に取る。
 とぼけて可愛らしいミーアキャットは確かにイコ自身にも似ている。
 けれど、ふとした時に、弱く小さな体、朗らかな性格の奥に、イコは消えず燃える火と真っ直ぐ通った芯を感じさせる。それもまたイコの魅力だ。
 あの、虹彩も瞳孔も境目がわからないほどに濃く深い色の、奥を見通せない瞳。そこにまだどれだけのものが隠れているんだろうか。
 凜としたイコを垣間見るたび、自分は、またイコに引きつけられてしまうのだろう。

 ああ。
 凜としたイコも、いつものイコも、いっしょくたに膝の上へ乗せて、存分に甘やかしてやれればいいのに。

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