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中学編

不健康女子の中三の初秋②

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 ぽこっと目が覚めたら、ブランケットの柄が見えた。
 あったかいベッド。いつもの自分の部屋。カーテン越しの日差し。
 自分の周りは日常そのもので、でも当たり前がおかしい気がして、ぼーっと天井を眺める。知ってる天井だ。「知らない天井だ……」とか言ってみたい気がするけどその場合、原因は救急搬送か誘拐かどちらかなので諦めたほうがよさそうです。

「あ」

 救急搬送。
 そうだそうだよ、私、塾で貧血になったんだ。外でやらかすなんて久しぶりで、やせ我慢しすぎたせいでなおさら反動が大きかった。視界がぐるぐるして動けなくなって……?

「ん?」

 あれ? あれ、なんだこれ。ヤバい記憶がないぞ。怖い。横になったまま膝を抱えるとちゃんとパジャマを着ていて、ちょっとだけほっとする。夢オチ? いや違う、現実だ現実。
 塾で貧血とか、たくさん回りに迷惑をかけたはずなのだ。思いだせ思いだせ。ほらどうやって帰って来た?

『世渡、辛いか』
『ちょっと待っていろ。何とかするから』
『少しだけ我慢だ、多分10分もかからない』
『すぐ来る。世渡、動けるか?』
『世渡、苦しくないか? 眠れるようなら、眠ってしまった方が楽だろう』

「うわ」

 低くて静かで、真剣な、そして気づかいのにじんだ声が、一気に耳元へよみがえってきて焦る。
 そうだ、うちのママを呼ぶのに時間がかかりすぎるから、塾とご近所の岩並君ちの人が送ってくれたんだよ! 確か! あんまり具合が悪かったせいで、岩並君のおうちの人も車も覚えていない。
 だけど。

 脇の下から手を入れられ、幼児みたいに抱えられて、岩並君に運ばれたのだ。だっこである。横抱きお姫様だっこ? いや縦方向の子どもだっこだった。ほらなんかチワワとか腕に抱くときの。 自分で言ってへこむけれども。

 制服の厚い生地。柔軟剤と繊維と汗のにおい。壊れ物でも扱うような優しい手つき。じんわりと伝わってくる体温に安心して、ひどく甘えたい気分になったのを思いだす。
 私の太ももより太いんじゃないかと思う腕にすっぽり包まれて、広い胸板にぐったり寄りかかって、広い肩に頭を預けて……。
 すぐ目の前に、白いシャツのえりと首があって。「世渡」って岩並君が私を呼ぶと喉仏が。動いて。

「うわわわわ」

 顔から火が出る。耳が熱い。顔を手で覆って身もだえする。
 何これ? なんだこれ。恥ずかしくてじっとしてられないんですが。腕の中にすっぽりとか抱きしめられたようなモンじゃないですか! あの眼福むきむきボディに! ふあー!!
 嬉し恥ずかし乙女モードに陥った私は、愚かにもなけなしの体力をじたばたすることで消耗した。うう無念なり。力の入らない体をベッドへ沈めて目をつむる。

「もっかい寝よう」

 これ以上考えたらだめだ、身が持たない。無になれ、目をつむって眠れ私!
 体力を使いすぎただけなんだ、休んでいたら治るのだ。
 早くよくなってちゃんとみんなに、お礼を言うのだ。

『早くよくなれ、イコ』

 そう呼びかけてきたあの声が、夢か現実だったのかは、回復するまで胸の中へ静かにしまっておくことにした。


 ◇


「ゴリラが小猿抱いてるみたいだった」
「でしょうね!」

 知世ちゃんは私が岩並君に運ばれていた様子をそう表した。
 わかってたさ……自分でも様子を想像して、チワワみたいだとか腹話術の人形ポジションかよとか思ってたさ……。でももっと悪かったな、どっちも類人猿かよ!

 学校帰りに様子を見に来てくれた知世ちゃんと、部屋でささやかなお茶会である。ちなみにお茶は出ない。りんごジュースだ。
 ふたり、ラグの上でだらしなく座りながらおしゃべりを満喫する。
 私はパジャマのままカーディガンをはおっている。楽だけど、だらしないからではなく、まだ半病人のためである。だって、貧血起こして運ばれて来てから3日しか経ってないのだ。
 私はあの日の、虫食いだらけの記憶を埋めるべく、知世ちゃんへたくさん質問をし、たくさん話を聞く。

「でもなんか気にくわないのよ、なんで縦抱きだったのか。自分の腕に座らせる形でお尻支えるとかどうなのあいつ?」
「階段降りなきゃいけなかったからじゃない? 消防隊員さんて、何か起きても対応できるように片手を空けておくために、助けた人も片手で運ぶんだって」
「両手がふさがるからお姫様だっこが却下って?」

 知世ちゃんは腑に落ちない、という顔でストローをつまみ、グラスの中をかき混ぜる。そのままひとくち飲んでさらに渋い顔になった。

「ねえ私、何にもしないで一緒に車に乗ってただけなのに歓迎されすぎじゃない? このジュース、缶でもペットボトルでもなくて、瓶入りの高級ギフトセットの味がするんだけど。その上、緒石院おいしいんの和栗ロールケーキとか……」

 味でパッケージの形態までわかるとか凄すぎませんか知世ちゃん。ソムリエか。でも気にすることないよ、歓迎させてくださいお嬢様。いつもお世話になっております。
 私はまだちょっとしっかり座っていられなくて、テーブルに頬杖をつき体を支える。食欲も回復していないため間食などもってのほかだ。ジュースだけで我慢する。
 そして私は知っています、そのロールケーキは菓子折を買うついでのお土産です。私が体力尽きて寝ている間に、パパとママは岩並君のおうちと塾へ、菓子折持ってお礼に行って来たらしい。

『岩並君のおうちに行ったらみんなおっきくて!! 凄いの!! しかもみんな美男美女で……』

 帰って来たママが大興奮でした。私は全く覚えていないけれど、運転してくれた岩並君のおじいちゃんもでっかくて骨太なタイプだったそうな。

「筋肉質じゃないけど、ガッシリしてた」
「どうして私に記憶がないのか……」

 ひたすらに惜しい。
 他にも、伊井先生が迎えの車で渋滞が起きないように車の誘導をしてくれたとか、大野君が私のうちまで案内してくれた(彼は小学校の頃、私の隣の席になり連日プリントを届けさせられ『いいかげん学校来いよ!』とキレたことがある。)とか、座席から落ちないように知世ちゃんが抱えてくれたとか、覚えていないことがたくさんあって、申し訳なく思う。

「直接お礼が言いたい……」
「早く昼間パジャマ脱いで動けるようになんなさい」
「うん。知世ちゃん?」
「何よ」
「いつもありがとう」

 知世ちゃんは片方の口の端をあげ、何も言わずにニヒルに笑った。
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