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中学編

小六の冬

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 世渡イコの名前を始めて知ったのは、小六の頃だった。

「健康ってさ……、ほんと大事だよな」

 タオルをしまいながら、仲良がしみじみ呟く。

 仲良とは小さい頃、それこそ小学校入学前から一緒に空手をやってきた。保育園は一緒だったが学区が違うので小学校は別。
 学校こそ違っても家族ぐるみの付き合いがあるし、週に何度か町の武道場で、こうしていろんな世代の人達と混じって体を動かす仲だ。

「なんだどこか悪いのか?」

 別に今日の動きは変じゃなかったのにな、と汗を拭きながら首をかしげると、「俺じゃない」と歯切れの悪い返事が来る。

「学校でさ、隣の席の奴が、やたら具合悪くなってよく休むんだよ」
「へえ」

 東小か、と声には出さずに呟く。

 俺は古い商店や農家の多い中央小学区。仲良は新興住宅街と大型郊外店、昔からの小さな集落が混在する東小学区だ。
 ちなみに『おカタい中央小、オタクの東小』と言われているが、本当かどうかは知らない。

「いつも横が空いてるから、俺目立っちゃってさ。授業中気が抜けなくて辛いんだ」
「先生に声をかけられるから?」
「そう! で、そいつが来たら来たで、いきなり鼻血噴いて地図帳血の海にしたり、ラジオ体操の練習で首違えて、頭傾いたまま病院送りになったり……。ヨガとかじゃないんだぜ? ただのラジオ体操なんだぜ? なんでそれで首がおかしくなるんだよ、先生も動揺してたよ!」

 先生は頭が傾いたまま元に戻らなくなった児童を連れて慌てて出て行き、しばらく体育館は大騒ぎだったらしい。

「ラジオ体操に耐えられない奴が世の中にいるんだな」

 障害などの問題がない状態で、そんなことになる人間がいるとは。なんというか、世界は広い。そして会ったこともない体育の先生がちょっと可哀想だった。先生だって驚いたに違いない。

「俺、あいつ怖い。うっかりぶつかったら死なせるかもしんないし」
「そいつ、何か持病とか?」
「体力なくて風邪引きやすいだけだってさ。久しぶりに学校来た時、元々ガリガリだったのがもっとガリッガリになってたよ。給食もほとんど残すんだぜ? なんでだよ、信じられねえ、あんなうまいものをッ!!」

 魂の叫びである。

 うちの町は給食がうまいのが自慢である。給食センターや外注などの世の波にあらがい、各学校に給食室がある完全自校給食制をかたくなに続けている。揚げパンをひとつずつ手で揚げてるって聞いた時には、俺も給食室をつい拝んでしまったくらいだ。
 調理員さんいつもおいしいごはんをありがとう。

「クラスも塾も同じだけど、間近で見るまでこんなにヤバい奴だなんて知らなかったよ」
「そいつも町の支部校なのか」

 俺は隣の市にある塾の本校に通っていた。仲良が通っている町支部校の方が近いけれど、中学受験をする同学年と接することが「刺激になるから」という親の考えだ。

「ああ。模試だと上位だから名前見るかも。世渡イコっていう奴」
「へえ、女子か……」

 このときの俺は、そんな奴もいるんだな、とか、仲良が少し大袈裟なんだろう、くらいにしか考えていなかった。
 大袈裟どころか、本物は仲良が言う以上に虚弱で不健康だなんてもちろん知らずに。

 そしてその次の模試結果で、俺はまたイコの名前と接することになる。


 ◇


 受験もしないくせに手間と時間をかけて隣の市の塾へ通う。
 随分ムダなことをと思われるかもしれないが、中学受験を視野に入れている塾の同学年は学校のクラスメイトより大人びていて、話すのが新鮮で楽しかった。
 親の言ってた「刺激になる」とはこういう事か。

 その日も祖父に送ってもらって塾へ着くと、掲示板に人だかりにができているのが見えた。冬休み中にあった、模試の結果が出たことを知る。
 全国展開はしていないが県下では最大規模の塾、しかも県都の本校。模試結果は、県内でどれくらいの順位なのかを見るのには1番だと言われていた。

(まずまずかな)

 算数は俺を含め満点が複数。俺の名前のすぐ近くに、同点1位で仲良の名前を見つけて嬉しくなる。1位の人間はほとんど本校在籍だから、町支部校のあいつは少し目立っていた。

「ん?」

 国語の結果。
 1人だけ満点。仲良と同じ町支部校在籍の表示。

「世渡、イコ?」

 2位の人間が90点だから、ぶっちぎりだ。

「またホネ子だ!」
「理系の方は目立たないけどなー」

 近くのぼやきを聞いて、俺はようやく仲良の言ってた「よく休む隣の席の奴」を思い出した。
 もしかして。

「ラジオ体操で首違えた奴?」

 近くでぼやいている奴らに声を掛けると、そろって苦笑した。

「そう! そっか、岩並も町から通ってるもんな」
「でもお前中央小だろ? なんで知ってんの?」
「友達が東小なんだ。確か、やたら休む奴だって聞いた」
「ああ。休んでるのに上位10パーセントに食い込んでるのが腹立つんだよな……。あの骨格標本」
「こっかくひょうほん」

 女子をあらわす単語ではない。

「ガリガリに痩せてて、いつも図書室にいるから『図書室の骨格標本』」
「学校にいるときはいつも図書室で本読んでるか、テーブルでぐんなりしてんの。図書委員だってのもあるけど」
「そうそう、その委員会って内申にプラスになるのかな、委員長とか」
「児童会の会長ぐらいじゃないとだめなんじゃないか?」
「クラス委員だとどうだろ」

 普段の生活では絶対に聞こえて来ない、受験関連の話(親が言うところの「刺激」)へ切り替わったのをよそに、俺は考え込む。

(町支部校。家から自転車で5分だよな)

 籍を移すことはできないだろうか。

 今の時点で、町支部校在籍者も県下上位が何人かいる。仲良や『世渡イコ』のように。
 そして、中学へ進学すればみんな受験生だ。塾本校も町支部校も変わらなくなる。「刺激」が目的なら、わざわさ本校へ通うメリットは減る。

 中学の部活に空手部はないらしい。でも空手は止めたくない。学校と全員参加の部活動、空手に塾。進学したら忙しくなる。
 ほんの少しのメリットのために時間をかけて本校へ通うのはもったいないだろう。

 ―――そうして、俺は3学期中に親を説得し、中学進学と同時に町支部校へ籍を変えた。

 町支部校へ移りたい本当の理由が「そっちの方が絶対面白そうだから」で、「やたらに情報は入るけど、どういう奴なのか全くわからない『世渡イコ』に直接会ってみたい」という部分が大きかったというのは、自分でも今更気づいた、誰にも言えない秘密である。
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