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本編
第12話『日向桜』
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午後5時。
俺は今、事件の参考人として金原警察署の取調室に1人でいる。1人でいさせるのもどうかと思うけど。担当する刑事さんが間もなくこちらに来るとのこと。
取調室の中は殺風景で、机と椅子ぐらいしかない。窓もあるけれど、曇りガラスなので外の様子は見えない。茜色の光が差し込んでいるので、もうすぐ日が暮れることが分かるくらいである。
3年前の事件で、俺は唯一の家族として取り調べを受けたので、取調室という場には慣れている。緊張もせず、むしろ懐かしいと思えるくらいだ。そんな自分が悲しい。
「ひさしぶりだね、真守君」
扉の開く音がした瞬間、聞き覚えのある声が聞こえた。
振り返ると、そこには黒いスーツを着た女性が立っていた。美しさと可愛さを兼ね備えた顔立ちと艶やかな長い黒髪が印象的だ。
「おひさしぶりです、日向刑事」
「ええ。あの事件以来だから……3年ぶり、かな」
「そうですね」
彼女の名前は日向桜。金原警察署に勤めている警察官で、彼女は3年前の事件を担当した刑事さんであり、そのときに出会った。また、この取調室で当時の俺に取り調べをした。
当時からのさっぱりとした雰囲気は変わらないな。この人なら信頼できると本能で判断しているのか、今のところは女性恐怖症の症状は全く現れていない。
日向刑事は机を挟んだ向かい側にある椅子に座る。
「私がこの事件を担当することになったよ。まあ、被害者が長瀬真守と聞いて自ら志願したのもあるけど」
「ご迷惑をおかけしてすみません」
「何を言っている。悪いのは突然君に襲いかかった名栗だ。真守君は何も悪くないよ」
日向刑事は爽やかに笑いながらそう言った。
「当時から落ち着いていて立派だったけど、3年経って更に立派になった気がするよ」
「そうでしょうかね」
「そのことにも驚いたけど、九条家のSPになっていることに一番驚いたよ。アルバイトでやっているのか?」
「バイト感覚でできる仕事なわけがないじゃないですか。こんなことがあるんですから」
「そりゃそうか。これは一本取られた」
そういえば、3年前に取り調べをしたときも、日向刑事はこういう風に俺の心をほぐしてくれたっけ。
「ということは、高校に進学はせず、社会人として働いているってことか」
「そうですね。まあ、正確には駅前の書店で働いていたんですけど、突然解雇させられちゃって。自分も甘かったと思っているんで、労基に反しているとか訴えるつもりはありませんよ」
「そんなことがあったのか。まあ、君がそう言うなら突然の解雇については目を瞑っておこう。そういえば、新年度になってから本屋さんで真守君によく似た店員がいたと思ったけど、やっぱり君だったんだね」
「ええ、そうです」
どうせなら、声をかけてくれても良かったのに。俺は仕事中だけど。
「男性に対しては普通に対処できているのに、どうも女性相手には緊張していたね。しかも、中高生から私ぐらいの年齢の女性に対して」
日向刑事は意地悪な笑みをして言ってくる。さすがは警察官だ。人の様子をよく観察しているんだな。それに加えて、相当な推理力を持っている。
日向刑事の指摘したのは女性恐怖症のことだろう。さすがに日向刑事にはこのことを正直に話した方が良さそうだ。
「それは女性恐怖症のせいですよ」
「……女性恐怖症?」
「ええ。覚えていますか。3年前の事件が起こった後、都築凛さんに怪我を負わせたとして都築家が長瀬家に対して損害賠償を求めていたことを」
「もちろん覚えているさ。あの事件を担当したんだから。それに、賠償額が莫大な金額だったからね。それが何か関係しているのか?」
「はい。裁判中のことだったんですけど、都築凛さんが取り巻きの女の子を従えて俺の前に現れまして。言うことを聞けば賠償額を半分にすると言って、強姦させられたんです。その影響で女性に対して酷く恐怖心が芽生えてしまって……」
「……なるほど。それじゃ仕方ないか」
ふぅ、と日向刑事は一息ついて、
「でも、都築凛さんがしたことは立派な犯罪だ。君を責めるつもりはないけど、当時はどうしてそれを言わなかった?」
鋭い目つきをして俺にそう問いかけてきた。
「……怖かったんです。もし、警察に言ったら、強姦よりも酷く辛い復讐が待っているような気がして。誰にも言えず、当時の俺はビクビクして毎日を過ごしていました」
俺がそう言うと、日向刑事の目つきは柔らかなものに変わる。
「……そうか。そうだよな。彼女は都築家の令嬢だ。彼女のバックに都築という日本有数の財閥がある。その力でねじ伏せられるか、復讐もあったかもしれない」
「莫大な賠償金もそんな財閥の圧力があってこそ言えることだと思いました」
「私も同じことを思ったよ。でも、最終的には当初の請求額よりもかなり少ない額で決着がついていなかったか?」
「親戚が協力してくれたんです。確かに都築さんが怪我をした理由は家の車に当たったことですけど、運転していた父のことを物凄く悪く言われた気がして。だから、本当に有り難いことだと思いました」
「そうか。3年の間に色々あったんだなぁ……」
日向刑事は大きくため息をついた。確か日向刑事は20代後半だったはずだが、年齢以上の哀愁が漂ってくる。
「日向刑事こそ、この3年間の間に何かなかったんですか? 例えば、その……結婚されたとか」
俺がそう言った瞬間、日向刑事は両手で机を思い切り叩く。
「苗字が変わっていないんだから結婚しているわけがないでしょ! というか、結婚したいと思える男に出会ったことないし……」
まさに鬼の形相、という表情になっている。こ、恐い。
警察署なんだから男はたくさんいるはずだけど。日向刑事好みの人がいないのかな。同族嫌悪で警察官は嫌だとか。確か、日向刑事はキャリア出身の刑事さんらしいし、恋愛よりも仕事優先という考えかもしれない。
「私は恋愛よりも仕事の人間だと考えているみたいだね、真守君」
「……何で分かったんですか」
「それは数年刑事やってるし、何よりも女としての私の勘は鋭い。現に今当たった」
勘で通してしまうところがお嬢様と似ているな。
3年前からやり手の警察官だとは聞いていたけど、こういう感じで被疑者とかにも取り調べをしていたんだと思う。
「まあ、魅力的に思う男は1人いるけどね……」
「そ、そうですか。その方と上手くいくと良いですね」
「うん。じゃあ……協力してくれるかな?」
「えっ」
日向刑事は突然、椅子から立ち上がって俺の横まで近づき、ワイシャツの第2ボタンまで開ける。そのせいで、胸元が大胆に露出してしまっている。
「な、何をしているんですか!」
「魅力的な男というのは君のことだよ、真守君。女性恐怖症なんだろう? それなら、私が治してあげる」
う、嘘だろう? 俺のことを気になっているってことは、もしかして13歳の俺のことをそういう目で見ていたのか?
まずい、急に症状が出始めてきたぞ。体が震えている。
「いえいえ、結構ですから! それに、お嬢様とメイドのくるみさんが克服に協力してくれると言っていますし!」
「メイドの方はどうか知らないけど、お嬢様というのは九条由衣さんのことだろう? 同級生なんかより、大人である私との方が効果的じゃないか? 今の様子からして、私も症状が現れちゃう年齢に入るんだろう?」
「は、入りますけど……」
「ふふっ、嬉しいことを言ってくれるね」
そう言うと、日向刑事は俺のことをゆっくりと抱きしめ、優しく頭を撫でてくる。日向刑事から感じる女性特有の甘い匂いと、この独特な感触……ああ、やめてほしい。このままだと、俺……確実に気絶するぞ。
「真守君ってさぁ、普段は落ち着いていて大人っぽいのに、たまに子供らしい弱さを見せるから好き。大人である私が守ってあげたくなっちゃうなぁ。それに、女性恐怖症だなんて言われたら……都合がいいじゃない」
耳元で囁くのを止めて頂けませんか。生温かい吐息がとても気持ち悪いです。
「ど、どどどどうしてですか?」
「……私以外の女を怖がると思って」
ブ、ブラックだな! ピンクじゃない! これが女性の闇ってやつなのですか?
「は、早く離してくれませんか。息苦しくなってきました」
「……本当だ。顔が青くなってる。私にこんなことされたら、大抵の男は顔を赤くして、鼻息荒くして、俗に言う肉食系男子なら私のことを襲うはずなのに」
いや、どんな肉食系男子相手でも、日向刑事なら自分の方から襲って、主導権を握ることだろう。
「と、とにかく離してくれませんか。本当にまずい状況なんで!」
「分かった。でも、私のことを桜って名前で呼んでくれたらね」
「分かりました。だから、お願いします、桜さん!」
「……いいよ」
そして、ようやく日向刑事……いや、桜さんは俺から離れてくれた。今朝の都築さんに匹敵するくらいに心臓に悪かったぞ。
「……ていうか、本気で俺に気があるんですか?」
「恋愛感情はないけど、そこら辺の男よりはよっぽど魅力的だと思うよ。大人っぽくなったし。あっ、女性恐怖症の克服のために私のところに来てもいいよ。頼れるお姉さんとしてね」
「そ、そうですか。とりあえず、お気持ちだけは有り難く受け取っておきます」
まさか、こういう色仕掛けで事件を解決してきた、なんてことは……桜さんならありそうな気がする。今のだってかなりの演技だったし。仮にそうだとしたら、警察官としてどうかしているけど。
桜さんは再び向かい側の椅子に座る。ワイシャツのボタンもしっかりと止める。
「じゃあ、そろそろ本題に移ろうか。まあ、大体のことは名栗への取り調べで分かっているんだけどね。真守君の言うとおり、彼のことは殺人未遂容疑で起訴する方向になりそうだよ」
「は、はい……そうですか……」
「す、すまないね。落ち着いてから話を進めようか?」
さすがに申し訳ないと思っているのか、桜さんは苦笑いをしながらそう言う。
「……いえ、大丈夫です」
「そうか。じゃあ、話を進めるよ。君も問い詰めたそうだが、彼はこの写真に写っている君の殺害をこのナイフを使って行えと命令されたと供述したよ。そして、報酬は300万円で前払いだって」
「俺に話したとおりですね。彼はただ命令に従っただけ……」
「名栗が言っていたよ。君がCherryがどうとか言っていたって。どうして彼にそんなことを?」
「実はそのCherryと名乗る人間が、彼に俺の殺害を命令した人間だと考えているからです。おそらく、灰色のスーツの男はCherryの手下というところでしょう」
「ちょっと待って。どうして、真守君はCherryが黒幕だと自信を持って言えるんだ? 何か心当たりでもあるの? あと、そもそもCherryって誰だ?」
そうか、Cherryのことを桜さんは当然知らないんだよな。あまりCherryのことを口外しない方がいいけれど、こうして殺人未遂事件が起こってしまった。それを担当する刑事である桜さんには言った方がいいな。
「実は由衣お嬢様がCherryと名乗る人間に命を狙われているんです」
「えっ!」
「そのこともあって、九条家は急遽SPを募集し……それに応募した俺が採用されたんです。そして、今日からお嬢様の通う宝月学院へ同行しているんです」
「じゃあ、Cherryと名乗る人間は九条さんにSPがついたという変化に気付き、SPである君とを殺そうと考えたんだね。SPは主を守る壁のような存在だから」
さすがは桜さんだ。すぐに状況を把握してくれた。
実はCherryからお嬢様に渡された手紙をスマートフォンで撮っていた。その写真を桜さんに見せる。
「これがCherryからお嬢様宛に送られた手紙の中身です。宝月学院のお嬢様の下駄箱の中に入っていたそうです」
「価値のないものは消える運命にある、か。もしかして、数年前に問題になっていた九条建設の耐震強度偽装問題なのっかな……」
やはり、桜さんもそう考えるか。耐震強度のない建物は住む価値のないもの。それを作った九条建設への恨み、と桜さんは考えているんだろう。
「俺も最初はそう思いましたが、お嬢様はそうじゃないと言っているんです。九条建設に絡んでいるなら本社でもいいですし、お屋敷のポストに入れてもいいはずです。それなのに、実際には下駄箱に入れられていました」
「それだと、九条由衣さんに対する個人的な恨みという線も捨てきれないね」
「ええ」
どのような理由でも、九条建設が絡んでいるのなら、九条建設の社長であるお嬢様のお父様に分かる形で手紙を送りつけると思う。
「それで、真守君はCherryが誰なのか予想はついているの?」
「宝月学院の関係者である可能性が高いかと。もっと言えば、生徒である可能性が高いと考えています」
「由衣さんに送られた手紙と、名栗が灰色のスーツの男から受け取った写真からそう考えているのね」
「ええ。特に写真からです。この写真、宝月学院1年3組の教室で撮影された写真なんです。おそらく、Cherryはスマートフォンなどで写真撮影し、そのデータを名栗が出会った灰色のスーツの男に送信したんだと思います」
「その可能性が高そうね。デジタルカメラとか、写真のデータを保存した記録媒体を直接手渡すっていうのも危険だと思うし。でも、写真は宝月学院で撮られているから、宝月学院の看守に聞いて来校者記録を調べる必要があるね。あとは、入り口近くに防犯カメラがあれば、そこに映っている映像も」
「お願いします」
宝月学院の関係者であれば、来校者記録のことや防犯カメラの有無のことについては把握しているはずだ。そこから有益な情報は得られない可能性が高いと考えている。
あとは、やはり……あのことを言っておく必要があるか。
「すみません、あともう一つ話したいことがあるんですけど」
「何かしら?」
「事件当時のことです。実は現場と道路を挟んだ向かい側に……俺達に気付かれないように都築凛さんが木の陰に立っていたんです」
「都築さんが?」
「ええ。ただ、気付いたのがパトカーの到着する直前だったので、俺が名栗に襲われているところを全て見ているかどうか分かりませんが」
「でも、真守君に気付かれないように木の陰に立っていた。怪しいな」
俺達に気付かれた瞬間に急いで逃げていたし。たまたま通りかかったから、というわけではなさそうだった。
「まさか、真守君……」
桜さんは何かを思いついたように、目を見開いて俺のことを見る。
「都築凛さんがCherryだと考えているのか?」
「……その可能性は否定できません。名栗が命令を遂行できたかどうか自らの目で見届けると考えれば筋は通ります」
「だけど、わざわざ灰色のスーツの男を使って、名栗に殺害の命令をしたんだ。そんな人間がわざわざ命令を遂行する見に行ったりする? 実際に君に見つかってしまっている」
桜さんの言うことにも一理ある。Cherryは自分の存在が知られないように色々と手を打ってきた。それなのに、命令通りに俺を殺害できているかどうか自ら見届けに行くというのは危険なことだ。殺害できたかどうかなら、少し時間が経ってからでも確認できるはず。
「それに、都築さんは九条さんに殺意を抱いているのか? 君の殺害を命令したということだけを考えれば、3年前の事件が発端だと納得できる部分もある。怪我もしているからね。しかし、九条さんを殺すためという前提があると、まだ彼女が君の殺害を命令した黒幕であることも、Cherryであることも言えないんじゃない?」
「そうですね。ですが、九条建設と都築建設は日本の建設業界のトップを争っている企業です。そこからの敵対心ということも考えられます。実際に、都築さんはお嬢様に対して挑発的な態度を取っていましたし。可能性はあると思います」
「……そうね。とにかく、彼女は真守君が気付くとすぐに逃げたのは事実だから、それについて話を聞く必要がありそうだ」
「そうですか。お手数をおかけしてすみません」
俺がそう言って頭を下げると、桜さんは声に出して笑う。
「別にかしこまらなくていいよ。気にしないで。真守君は可能性を提示しただけ。それも、ちゃんとした根拠のある可能性をね。そこから捜査を進めることを私は正しいことだと思っているよ」
「桜さん……」
「……そうだ、真守君。せっかく君のスマートフォンがここにあるんだ。連絡先を交換しよう」
桜さんは自分のスマートフォンを取り出し、俺のスマートフォンを側に寄せて何やら操作をしている。
「よし、これでOKだ。赤外線通信で交換しておいた。困ったことがあったらいつでも連絡してくれ。まあ、プライベートなことでもいいけど」
そう言う桜さんは頬をほんのりと赤くしていた。3年前よりも、何だか女性らしくなったような気がする。
「分かりました、桜さん」
「何か情報が掴めたら連絡するよ」
「ありがとうございます」
「じゃあ、取り調べはこれで終わりにしようか。私が車で九条家のお屋敷まで送ってあげるよ」
「ありがとうございます。そういえば、3年前も送ってくれましたよね。そのときは叔母の家でしたけど」
「そうだったね」
あの事件の直後、俺は叔母の家に住むことになったからな。何回か桜さんに取り調べを受けたけど、帰りはいつも彼女に送ってもらっていた。
「真守君を送った後は、捜査をしに行ってくるよ。都築凛さんについても、できるだけ早く話を聞きたいところだけど、明日になるかもしれない」
「そうですか。頑張ってください」
「……ひさしぶりに知り合いの男と、気兼ねなく長く話せたよ」
「俺も同じです。桜さんだから……でしょうね」
「……そんなことだから、君は女性に苦しむんじゃないのか?」
まったく、と桜さんは照れ笑いをしていた。
「じゃあ、そろそろ行くか」
「はい」
俺は桜さんの運転する車に乗って、九条家のお屋敷に帰るのであった。
俺は今、事件の参考人として金原警察署の取調室に1人でいる。1人でいさせるのもどうかと思うけど。担当する刑事さんが間もなくこちらに来るとのこと。
取調室の中は殺風景で、机と椅子ぐらいしかない。窓もあるけれど、曇りガラスなので外の様子は見えない。茜色の光が差し込んでいるので、もうすぐ日が暮れることが分かるくらいである。
3年前の事件で、俺は唯一の家族として取り調べを受けたので、取調室という場には慣れている。緊張もせず、むしろ懐かしいと思えるくらいだ。そんな自分が悲しい。
「ひさしぶりだね、真守君」
扉の開く音がした瞬間、聞き覚えのある声が聞こえた。
振り返ると、そこには黒いスーツを着た女性が立っていた。美しさと可愛さを兼ね備えた顔立ちと艶やかな長い黒髪が印象的だ。
「おひさしぶりです、日向刑事」
「ええ。あの事件以来だから……3年ぶり、かな」
「そうですね」
彼女の名前は日向桜。金原警察署に勤めている警察官で、彼女は3年前の事件を担当した刑事さんであり、そのときに出会った。また、この取調室で当時の俺に取り調べをした。
当時からのさっぱりとした雰囲気は変わらないな。この人なら信頼できると本能で判断しているのか、今のところは女性恐怖症の症状は全く現れていない。
日向刑事は机を挟んだ向かい側にある椅子に座る。
「私がこの事件を担当することになったよ。まあ、被害者が長瀬真守と聞いて自ら志願したのもあるけど」
「ご迷惑をおかけしてすみません」
「何を言っている。悪いのは突然君に襲いかかった名栗だ。真守君は何も悪くないよ」
日向刑事は爽やかに笑いながらそう言った。
「当時から落ち着いていて立派だったけど、3年経って更に立派になった気がするよ」
「そうでしょうかね」
「そのことにも驚いたけど、九条家のSPになっていることに一番驚いたよ。アルバイトでやっているのか?」
「バイト感覚でできる仕事なわけがないじゃないですか。こんなことがあるんですから」
「そりゃそうか。これは一本取られた」
そういえば、3年前に取り調べをしたときも、日向刑事はこういう風に俺の心をほぐしてくれたっけ。
「ということは、高校に進学はせず、社会人として働いているってことか」
「そうですね。まあ、正確には駅前の書店で働いていたんですけど、突然解雇させられちゃって。自分も甘かったと思っているんで、労基に反しているとか訴えるつもりはありませんよ」
「そんなことがあったのか。まあ、君がそう言うなら突然の解雇については目を瞑っておこう。そういえば、新年度になってから本屋さんで真守君によく似た店員がいたと思ったけど、やっぱり君だったんだね」
「ええ、そうです」
どうせなら、声をかけてくれても良かったのに。俺は仕事中だけど。
「男性に対しては普通に対処できているのに、どうも女性相手には緊張していたね。しかも、中高生から私ぐらいの年齢の女性に対して」
日向刑事は意地悪な笑みをして言ってくる。さすがは警察官だ。人の様子をよく観察しているんだな。それに加えて、相当な推理力を持っている。
日向刑事の指摘したのは女性恐怖症のことだろう。さすがに日向刑事にはこのことを正直に話した方が良さそうだ。
「それは女性恐怖症のせいですよ」
「……女性恐怖症?」
「ええ。覚えていますか。3年前の事件が起こった後、都築凛さんに怪我を負わせたとして都築家が長瀬家に対して損害賠償を求めていたことを」
「もちろん覚えているさ。あの事件を担当したんだから。それに、賠償額が莫大な金額だったからね。それが何か関係しているのか?」
「はい。裁判中のことだったんですけど、都築凛さんが取り巻きの女の子を従えて俺の前に現れまして。言うことを聞けば賠償額を半分にすると言って、強姦させられたんです。その影響で女性に対して酷く恐怖心が芽生えてしまって……」
「……なるほど。それじゃ仕方ないか」
ふぅ、と日向刑事は一息ついて、
「でも、都築凛さんがしたことは立派な犯罪だ。君を責めるつもりはないけど、当時はどうしてそれを言わなかった?」
鋭い目つきをして俺にそう問いかけてきた。
「……怖かったんです。もし、警察に言ったら、強姦よりも酷く辛い復讐が待っているような気がして。誰にも言えず、当時の俺はビクビクして毎日を過ごしていました」
俺がそう言うと、日向刑事の目つきは柔らかなものに変わる。
「……そうか。そうだよな。彼女は都築家の令嬢だ。彼女のバックに都築という日本有数の財閥がある。その力でねじ伏せられるか、復讐もあったかもしれない」
「莫大な賠償金もそんな財閥の圧力があってこそ言えることだと思いました」
「私も同じことを思ったよ。でも、最終的には当初の請求額よりもかなり少ない額で決着がついていなかったか?」
「親戚が協力してくれたんです。確かに都築さんが怪我をした理由は家の車に当たったことですけど、運転していた父のことを物凄く悪く言われた気がして。だから、本当に有り難いことだと思いました」
「そうか。3年の間に色々あったんだなぁ……」
日向刑事は大きくため息をついた。確か日向刑事は20代後半だったはずだが、年齢以上の哀愁が漂ってくる。
「日向刑事こそ、この3年間の間に何かなかったんですか? 例えば、その……結婚されたとか」
俺がそう言った瞬間、日向刑事は両手で机を思い切り叩く。
「苗字が変わっていないんだから結婚しているわけがないでしょ! というか、結婚したいと思える男に出会ったことないし……」
まさに鬼の形相、という表情になっている。こ、恐い。
警察署なんだから男はたくさんいるはずだけど。日向刑事好みの人がいないのかな。同族嫌悪で警察官は嫌だとか。確か、日向刑事はキャリア出身の刑事さんらしいし、恋愛よりも仕事優先という考えかもしれない。
「私は恋愛よりも仕事の人間だと考えているみたいだね、真守君」
「……何で分かったんですか」
「それは数年刑事やってるし、何よりも女としての私の勘は鋭い。現に今当たった」
勘で通してしまうところがお嬢様と似ているな。
3年前からやり手の警察官だとは聞いていたけど、こういう感じで被疑者とかにも取り調べをしていたんだと思う。
「まあ、魅力的に思う男は1人いるけどね……」
「そ、そうですか。その方と上手くいくと良いですね」
「うん。じゃあ……協力してくれるかな?」
「えっ」
日向刑事は突然、椅子から立ち上がって俺の横まで近づき、ワイシャツの第2ボタンまで開ける。そのせいで、胸元が大胆に露出してしまっている。
「な、何をしているんですか!」
「魅力的な男というのは君のことだよ、真守君。女性恐怖症なんだろう? それなら、私が治してあげる」
う、嘘だろう? 俺のことを気になっているってことは、もしかして13歳の俺のことをそういう目で見ていたのか?
まずい、急に症状が出始めてきたぞ。体が震えている。
「いえいえ、結構ですから! それに、お嬢様とメイドのくるみさんが克服に協力してくれると言っていますし!」
「メイドの方はどうか知らないけど、お嬢様というのは九条由衣さんのことだろう? 同級生なんかより、大人である私との方が効果的じゃないか? 今の様子からして、私も症状が現れちゃう年齢に入るんだろう?」
「は、入りますけど……」
「ふふっ、嬉しいことを言ってくれるね」
そう言うと、日向刑事は俺のことをゆっくりと抱きしめ、優しく頭を撫でてくる。日向刑事から感じる女性特有の甘い匂いと、この独特な感触……ああ、やめてほしい。このままだと、俺……確実に気絶するぞ。
「真守君ってさぁ、普段は落ち着いていて大人っぽいのに、たまに子供らしい弱さを見せるから好き。大人である私が守ってあげたくなっちゃうなぁ。それに、女性恐怖症だなんて言われたら……都合がいいじゃない」
耳元で囁くのを止めて頂けませんか。生温かい吐息がとても気持ち悪いです。
「ど、どどどどうしてですか?」
「……私以外の女を怖がると思って」
ブ、ブラックだな! ピンクじゃない! これが女性の闇ってやつなのですか?
「は、早く離してくれませんか。息苦しくなってきました」
「……本当だ。顔が青くなってる。私にこんなことされたら、大抵の男は顔を赤くして、鼻息荒くして、俗に言う肉食系男子なら私のことを襲うはずなのに」
いや、どんな肉食系男子相手でも、日向刑事なら自分の方から襲って、主導権を握ることだろう。
「と、とにかく離してくれませんか。本当にまずい状況なんで!」
「分かった。でも、私のことを桜って名前で呼んでくれたらね」
「分かりました。だから、お願いします、桜さん!」
「……いいよ」
そして、ようやく日向刑事……いや、桜さんは俺から離れてくれた。今朝の都築さんに匹敵するくらいに心臓に悪かったぞ。
「……ていうか、本気で俺に気があるんですか?」
「恋愛感情はないけど、そこら辺の男よりはよっぽど魅力的だと思うよ。大人っぽくなったし。あっ、女性恐怖症の克服のために私のところに来てもいいよ。頼れるお姉さんとしてね」
「そ、そうですか。とりあえず、お気持ちだけは有り難く受け取っておきます」
まさか、こういう色仕掛けで事件を解決してきた、なんてことは……桜さんならありそうな気がする。今のだってかなりの演技だったし。仮にそうだとしたら、警察官としてどうかしているけど。
桜さんは再び向かい側の椅子に座る。ワイシャツのボタンもしっかりと止める。
「じゃあ、そろそろ本題に移ろうか。まあ、大体のことは名栗への取り調べで分かっているんだけどね。真守君の言うとおり、彼のことは殺人未遂容疑で起訴する方向になりそうだよ」
「は、はい……そうですか……」
「す、すまないね。落ち着いてから話を進めようか?」
さすがに申し訳ないと思っているのか、桜さんは苦笑いをしながらそう言う。
「……いえ、大丈夫です」
「そうか。じゃあ、話を進めるよ。君も問い詰めたそうだが、彼はこの写真に写っている君の殺害をこのナイフを使って行えと命令されたと供述したよ。そして、報酬は300万円で前払いだって」
「俺に話したとおりですね。彼はただ命令に従っただけ……」
「名栗が言っていたよ。君がCherryがどうとか言っていたって。どうして彼にそんなことを?」
「実はそのCherryと名乗る人間が、彼に俺の殺害を命令した人間だと考えているからです。おそらく、灰色のスーツの男はCherryの手下というところでしょう」
「ちょっと待って。どうして、真守君はCherryが黒幕だと自信を持って言えるんだ? 何か心当たりでもあるの? あと、そもそもCherryって誰だ?」
そうか、Cherryのことを桜さんは当然知らないんだよな。あまりCherryのことを口外しない方がいいけれど、こうして殺人未遂事件が起こってしまった。それを担当する刑事である桜さんには言った方がいいな。
「実は由衣お嬢様がCherryと名乗る人間に命を狙われているんです」
「えっ!」
「そのこともあって、九条家は急遽SPを募集し……それに応募した俺が採用されたんです。そして、今日からお嬢様の通う宝月学院へ同行しているんです」
「じゃあ、Cherryと名乗る人間は九条さんにSPがついたという変化に気付き、SPである君とを殺そうと考えたんだね。SPは主を守る壁のような存在だから」
さすがは桜さんだ。すぐに状況を把握してくれた。
実はCherryからお嬢様に渡された手紙をスマートフォンで撮っていた。その写真を桜さんに見せる。
「これがCherryからお嬢様宛に送られた手紙の中身です。宝月学院のお嬢様の下駄箱の中に入っていたそうです」
「価値のないものは消える運命にある、か。もしかして、数年前に問題になっていた九条建設の耐震強度偽装問題なのっかな……」
やはり、桜さんもそう考えるか。耐震強度のない建物は住む価値のないもの。それを作った九条建設への恨み、と桜さんは考えているんだろう。
「俺も最初はそう思いましたが、お嬢様はそうじゃないと言っているんです。九条建設に絡んでいるなら本社でもいいですし、お屋敷のポストに入れてもいいはずです。それなのに、実際には下駄箱に入れられていました」
「それだと、九条由衣さんに対する個人的な恨みという線も捨てきれないね」
「ええ」
どのような理由でも、九条建設が絡んでいるのなら、九条建設の社長であるお嬢様のお父様に分かる形で手紙を送りつけると思う。
「それで、真守君はCherryが誰なのか予想はついているの?」
「宝月学院の関係者である可能性が高いかと。もっと言えば、生徒である可能性が高いと考えています」
「由衣さんに送られた手紙と、名栗が灰色のスーツの男から受け取った写真からそう考えているのね」
「ええ。特に写真からです。この写真、宝月学院1年3組の教室で撮影された写真なんです。おそらく、Cherryはスマートフォンなどで写真撮影し、そのデータを名栗が出会った灰色のスーツの男に送信したんだと思います」
「その可能性が高そうね。デジタルカメラとか、写真のデータを保存した記録媒体を直接手渡すっていうのも危険だと思うし。でも、写真は宝月学院で撮られているから、宝月学院の看守に聞いて来校者記録を調べる必要があるね。あとは、入り口近くに防犯カメラがあれば、そこに映っている映像も」
「お願いします」
宝月学院の関係者であれば、来校者記録のことや防犯カメラの有無のことについては把握しているはずだ。そこから有益な情報は得られない可能性が高いと考えている。
あとは、やはり……あのことを言っておく必要があるか。
「すみません、あともう一つ話したいことがあるんですけど」
「何かしら?」
「事件当時のことです。実は現場と道路を挟んだ向かい側に……俺達に気付かれないように都築凛さんが木の陰に立っていたんです」
「都築さんが?」
「ええ。ただ、気付いたのがパトカーの到着する直前だったので、俺が名栗に襲われているところを全て見ているかどうか分かりませんが」
「でも、真守君に気付かれないように木の陰に立っていた。怪しいな」
俺達に気付かれた瞬間に急いで逃げていたし。たまたま通りかかったから、というわけではなさそうだった。
「まさか、真守君……」
桜さんは何かを思いついたように、目を見開いて俺のことを見る。
「都築凛さんがCherryだと考えているのか?」
「……その可能性は否定できません。名栗が命令を遂行できたかどうか自らの目で見届けると考えれば筋は通ります」
「だけど、わざわざ灰色のスーツの男を使って、名栗に殺害の命令をしたんだ。そんな人間がわざわざ命令を遂行する見に行ったりする? 実際に君に見つかってしまっている」
桜さんの言うことにも一理ある。Cherryは自分の存在が知られないように色々と手を打ってきた。それなのに、命令通りに俺を殺害できているかどうか自ら見届けに行くというのは危険なことだ。殺害できたかどうかなら、少し時間が経ってからでも確認できるはず。
「それに、都築さんは九条さんに殺意を抱いているのか? 君の殺害を命令したということだけを考えれば、3年前の事件が発端だと納得できる部分もある。怪我もしているからね。しかし、九条さんを殺すためという前提があると、まだ彼女が君の殺害を命令した黒幕であることも、Cherryであることも言えないんじゃない?」
「そうですね。ですが、九条建設と都築建設は日本の建設業界のトップを争っている企業です。そこからの敵対心ということも考えられます。実際に、都築さんはお嬢様に対して挑発的な態度を取っていましたし。可能性はあると思います」
「……そうね。とにかく、彼女は真守君が気付くとすぐに逃げたのは事実だから、それについて話を聞く必要がありそうだ」
「そうですか。お手数をおかけしてすみません」
俺がそう言って頭を下げると、桜さんは声に出して笑う。
「別にかしこまらなくていいよ。気にしないで。真守君は可能性を提示しただけ。それも、ちゃんとした根拠のある可能性をね。そこから捜査を進めることを私は正しいことだと思っているよ」
「桜さん……」
「……そうだ、真守君。せっかく君のスマートフォンがここにあるんだ。連絡先を交換しよう」
桜さんは自分のスマートフォンを取り出し、俺のスマートフォンを側に寄せて何やら操作をしている。
「よし、これでOKだ。赤外線通信で交換しておいた。困ったことがあったらいつでも連絡してくれ。まあ、プライベートなことでもいいけど」
そう言う桜さんは頬をほんのりと赤くしていた。3年前よりも、何だか女性らしくなったような気がする。
「分かりました、桜さん」
「何か情報が掴めたら連絡するよ」
「ありがとうございます」
「じゃあ、取り調べはこれで終わりにしようか。私が車で九条家のお屋敷まで送ってあげるよ」
「ありがとうございます。そういえば、3年前も送ってくれましたよね。そのときは叔母の家でしたけど」
「そうだったね」
あの事件の直後、俺は叔母の家に住むことになったからな。何回か桜さんに取り調べを受けたけど、帰りはいつも彼女に送ってもらっていた。
「真守君を送った後は、捜査をしに行ってくるよ。都築凛さんについても、できるだけ早く話を聞きたいところだけど、明日になるかもしれない」
「そうですか。頑張ってください」
「……ひさしぶりに知り合いの男と、気兼ねなく長く話せたよ」
「俺も同じです。桜さんだから……でしょうね」
「……そんなことだから、君は女性に苦しむんじゃないのか?」
まったく、と桜さんは照れ笑いをしていた。
「じゃあ、そろそろ行くか」
「はい」
俺は桜さんの運転する車に乗って、九条家のお屋敷に帰るのであった。
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