恋人、はじめました。

桜庭かなめ

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特別編7

プロローグ『夏の午後に響く恋人の叫び』

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特別編7



 8月10日、火曜日。
 高校2年生の夏休みも半分ほどが過ぎた。
 夏休みの前半はバイトをしたり、恋人の青山氷織あおやまひおりとお家デートしたり、お泊まりしたり、一緒に夏休みの課題をしたり。友人の倉木和男くらきかずお清水美羽しみずみうさん、火村恭子ひむらきょうこさん、葉月沙綾はづきさあやさんと一緒に海水浴に行ったり。氷織達と一緒に氷織の従妹の桃瀬愛莉ももせあいりちゃんの面倒を見たりしたので、とても楽しい夏休みを過ごすことができている。後半も楽しく過ごしていきたい。

「この作品も面白かったですね!」
「そうだな」

 今日はお昼過ぎから俺の家でお家デートをしている。
 今は前回のお家デート以降に放送されたアニメを一緒に観ている。その際はクッションに隣同士に座って、俺の淹れたアイスコーヒーを飲んだり、甘いものを食べたりしながら。涼しい中ゆっくりできるし、何よりも楽しいから、こうした時間を過ごすのが俺達の定番となっている。
 前回のお家デート以降に放送され、氷織も俺・紙透明斗かみとうあきとも観ているアニメは4作品ある。キャラやストーリーのことで話しながら観ていった。

「これで全部ですね。どの作品も良かったです!」
「面白かったよな。氷織と観るのは初めてだから新鮮な気持ちで観られた」
「私もです。一人でじっくり観るのもいいですが、明斗さんと話しながら観るのもいいなって毎回思いますね」
「俺もだよ」

 氷織とアニメのことで話すのがとても楽しいからな。楽しそうに話す氷織の笑顔を見るといいなって思えるし。あと、今着ている青いフレンチスリーブの襟付きワンピースがとても似合っているのもあって可愛いし。ちなみに、このワンピースはゴールデンウィーク中のデートで、姉貴がバイトをしているアパレルショップで買ったものだ。
 4作品あったけど、全て観終わるまであっという間だった。
 マグカップに手を伸ばし、アイスコーヒーを飲む。

「……あっ、これで終わりか」

 一口飲んだら、マグカップが空になってしまった。アニメを観ながら少しずつ飲んでいたから、気付けば一口分しか残っていなかったんだな。

「氷織の方はどうだ?」
「私も全部飲み終わりました」
「そっか。じゃあ、冷たいものをまた淹れてくるよ。これまではコーヒーだったから、次はアイスティーにする?」
「いいですね! では、アイスティーをお願いします」
「了解」

 トレーに自分のマグカップと氷織が使っているマグカップを乗せて、俺は自分の部屋を後にする。
 1階のキッチンに行き、マグカップを洗う。今は真夏だから、水道水の冷たさがとても心地いい。
 マグカップを洗い終わった後、俺は2人分のアイスティーを淹れていく。コーヒーもブラックを飲んでいたし、今も俺の部屋には甘いお菓子があるからガムシロップやミルクは入れなくていいかな。
 アイスティーを淹れ終わり、マグカップを乗せたトレーを持って階段を上がろうとしたときだった。

『きゃああっ!』

 2階から氷織の叫び声が聞こえたぞ! 何があったんだ!

「氷織、どうした!」
「氷織ちゃん! 何かあった?」

 リビングにいた母さんにも聞こえたようで、母さんがリビングから飛び出してきた。母さんの顔には困惑した表情が浮かんでいる。

「明斗、何か知ってる?」
「いや、特に何も。ついさっきまで、キッチンでアイスティーを淹れていたから。とにかく、俺の部屋に行こう」
「そうね」

 俺は母さんと一緒に急ぎ足で2階に上がり、俺の部屋の扉を開ける。
 部屋の中には、俺のベッドの上で青ざめている氷織の姿があった。小刻みに体が震えていて。

「氷織、どうした?」
「何かあった?」
「……あ、あそこに大きなゴキブリが……」

 震えた声でそう言いながら、氷織はある方向に向けて右手の人差し指で指し示す。その方を見ると……テレビの後ろの壁にゴキブリがいた。氷織の言う通り、かなりの大きさだ。

「これを見たから、大きな声が出ちゃったんだな」
「は、はい。あんなに大きなゴキブリを見ることはあまりありませんから。小さいならまだしも、あそこまで大きいと怖くて……」
「そうか」

 あのサイズのゴキブリがいきなり現れたら、大きな悲鳴を上げてしまうのは無理ない。
 そういえば、1学期の中間試験の勉強会を氷織の家でしたとき、大きなクモが出現したっけ。そのときも氷織は今のように青ざめた顔をして、悲鳴を上げていたな。

「ゴキブリ怖いわよねぇ。私も怖いわ。……明斗。恋人の氷織ちゃんのためにもさっさと駆除しちゃいなさい」
「ああ、分かった」
「じゃあ、あとは任せたわ」

 母さんはそう言うと、俺の肩をポンと軽く叩いて、足早に部屋から去っていった。母さんは虫が苦手だからなぁ。また、今はバイトで外出中の姉貴は母さん以上に苦手なので、うちで虫が出現したときは俺と父さんが駆除する役目になっている。
 マグカップを乗せたトレーを勉強机に置く。机に置いてあるボックスティッシュからティッシュを2枚抜いて、右手に乗せる。ゴキブリは平気だけど、素手で掴めるほどの耐性はさすがにない。

「氷織。俺が駆除するから安心して」
「は、はいっ。お、お願いしますっ」
「氷織はそのままベッドにいてくれるかな」
「分かりました」

 万が一、ゴキブリが動き始めても、氷織がベッドにいてくれた方が俺も移動しやすいからな。
 依然として、ゴキブリはテレビの裏側の壁にいる。
 ゴキブリが移動してしまわないように、俺は静かな足取りでゴキブリに近づいていく。作戦通り、ゴキブリはその場に留まっている。

「……それっ」

 ティッシュを乗せた右手を、ゴキブリに向かって素早く伸ばす。
 素早く伸ばしたことで空気の流れを感じ取ったのだろうか。ゴキブリは移動を開始する……が、俺の右手の動きの方が早いので、ゴキブリは俺の右手に収まった。ティッシュ越しに固い感触が感じられる。

「よし、捕まえた」

 クモのときのように、外に逃がしてあげよう。
 俺は道路側にある窓を開けて、ゴキブリを力強く投げた。それもあり、ゴキブリはうちの庭をも飛び越えて道路に落ちていった。それを見届けて、俺は窓を閉めた。

「ゴキブリ、道路に投げたぞ。これで大丈夫だ」

 そう言い、ベッドの方に顔を向けると……氷織はほっとした様子で俺のことを見ていた。

「良かったです。明斗さん、お疲れ様でした」
「いえいえ。うちにはゴキブリを捕獲するものをいくつか仕掛けているから、今年はあまり出なかったんだけどな。怖い想いをさせちゃってごめん」
「気にしないでください。それに、落ち着いて駆除した明斗さんがかっこよかったですし。その姿を見られたのは嬉しかったです」
「そう言ってくれて嬉しいよ」

 俺はベッドの側まで向かい、ベッドに座っている氷織の頭を優しく撫でる。
 俺にゴキブリを駆除してもらったり、頭を撫でられたりするのが嬉しいのだろうか。氷織はニコッと可愛らしい笑顔を見せる。さっきは青ざめた様子で怯えていたから、氷織がまた笑顔になれて良かったよ。
 ゴキブリを退治する俺を見られて嬉しいと氷織は言ってくれた。ただ、ゴキブリを見つけて怖い思いをしないに越したことはない。捕獲するものだけでなく、他にもゴキブリ対策を講じた方がいいかもしれないな。

「ゴキブリを駆除してくれてありがとうございました」

 柔らかな笑顔でそう言うと、氷織は俺にキスしてくれた。どんな理由であれ、恋人からキスしてもらえると嬉しい気持ちになる。

「……そうだ。アイスティーを淹れたんだった」

 ゴキブリの一件ですっかり忘れていた。
 ゴキブリを掴んだティッシュをゴミ箱に捨てて、マグカップを乗せたトレーが置いてある勉強机に向かう。
 マグカップを2つ持って、これまで座っていたクッションの前に置く。ちなみに、そのときには氷織はベッドから降りてクッションに腰を下ろしていた。

「アイスティーいただきますね」
「どうぞ召し上がれ」

 俺がそう言うと、氷織はさっそくアイスティーを一口飲む。これまでに何度も氷織にアイスティーを淹れているけど、今日も美味しくできているだろうか。

「冷たくて美味しいです、明斗さん」

 持ち前の優しい笑顔を俺に向けながら、氷織はそう言ってくれた。そのことに嬉しくなると同時にちょっとほっとする。
 俺もアイスティーを一口飲む。……いつもより美味しいな。そう思えるのは、氷織が怖がっているゴキブリを駆除するという一仕事して、氷織を笑顔にできたからかもしれない。
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