アドルフの微笑

桜庭かなめ

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プロローグ『月下美人』

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『アドルフの微笑』



「綺麗だ……」

 咲いた。
 咲いた。
 月下美人の花が咲いた。


 毎年、片手で数えるほどしか咲くことのない月下美人。その花を満月の日に見ることができるなんて。しかも、梅雨入りした6月中旬という時期に見ることができるなんて。これは奇跡と言ってもいいだろう。強い花の香りが、開花したことをより実感させてくれる。
 月明かりによって、月下美人の白い花が美しく照らされている。そんな花を俺はスマートフォンやデジカメでたくさん撮影した。

「へえ、本当だったんだ。神楽君が花を育てているっていうウワサ」

 どこか聞き覚えのある可愛らしい声が聞こえたので、その声の主の方に振り向いてみる。
 すると、そこにはスカートにノースリーブのYシャツ姿の女性が立っていた。彼女、学校の教室で見たことがあるな。

「ええと……月原だったか」
「そう。月原咲夜つきはらさくや。正解だよ、神楽颯人かぐらはやと君」

 そう言うと、月原はにっこりと笑って、俺に近づいてくる。
 この女、いったい何を企んでいるのか。彼女は高校のクラスメイトだけれど、彼女と言葉を交わしたことはこれまでに一度もない。
 それにしても、こうして間近で見てみると、月原はとても可愛らしい顔をしていると分かる。俺とは正反対で目はクリッとしていて。サラサラとしたセミロングの黒髪も、オレンジ色のカチューシャもよく似合っている。あと……スタイルも結構良さそうだ。

「この花って神楽君が育てているの?」
「ああ。小学生の頃から。この花畑で色々な花を育てているんだ。家もこの近くにあって。ちなみに、この白い花は月下美人っていうんだ。年に多くて3, 4回しか咲かないんだよ。しかも、咲いたときは一晩しか咲かせない」
「へえ、そうなんだ。じゃあ、運が良かったんだね」
「……そうだな。今夜は満月だからより運がいいって思う」

 月原咲夜っていう名前が、彼女のことを満月の下に咲く月下美人の花に引き寄せたのかもな。彼女は可愛らしさもあるけど、美人でもあるし。そう考えると、月下美人って月原の花とも言えそうだ。

「月下美人だっけ。白くて綺麗な花ね。匂いが結構強いけれど、好みかも」
「そう言ってくれると、育てた人間として嬉しいよ」

 家族や親戚、近所の人以外に褒められることは全然ないから。
 月下美人の花の匂いがさっきよりも体の奥まで届いて、心地良くも思える。それは月原が好みだと言ってくれたからだろうか。それとも、今感じている匂いの中に、彼女の匂いが混ざっているからだろうか。
 月原は楽しそうな笑顔を浮かべる。月光に照らされた彼女のその笑みはとても美しい。

「ねえ、月下美人の花の写真を撮ってもいい?」
「ああ、いいぞ」
「ありがとう」

 月原はスカートのポケットからスマートフォンを取り出し、月下美人の花の写真を撮っている。その中で「綺麗」という彼女の呟きが聞こえた。
 そんな彼女のことを見ていると、月原は頬をほんのりと赤くする。

「じっと見られると、ドキドキしちゃうな」
「……それは恐怖からか?」
「はっ? 確かに、神楽君の目つきって物凄く鋭くて恐いから、恐怖がないって言ったら嘘になるけれど。ただ、こういう2人きりの状況で男子に見つめられたら……ド、ドキドキしちゃうものなの!」
「……そういうものなのか」
「そういうもの」

 月原は不機嫌そうな表情を浮かべながら断言した。そのせいなのか、彼女と目を合わせていると……さすがに意識してしまうな。
 それにしても、他愛のないことでクラスメイトとこんなに話すことって、高校生になってからはおろか、小学生の頃からでも初めてのことだ。夢かもしれないと思って下唇を軽く噛むと、はっきりと痛みを感じた。

「……それで? 噂を確かめるためだけに、ここに来たわけじゃないよな?」

 俺がそう言うと、図星だったのか月原は真剣な表情になる。ただ、すぐに彼女の口角が上がる。

「……察しがいいね。さすがは中間試験でクラストップ。学年でも3位だけあるね」
「察しの良さに試験の順位って関係あるのか? あと、定期試験の順位にさほど興味ない」
「……何だか神楽君らしいかも」

 ふふっ、と月原は上品に笑った。

「そんな神楽君にお願いをしたいことがあって。それで、今までに友達から聞いた話を思い出して、花畑を探していたの」
「そうだったのか。まあ、月原は俺の育てた花を褒めてくれたし、とりあえず話は聞く。俺にお願いしたいことって何なんだ?」

 俺がそう問いかけると、月原は恥ずかしそうな様子になり、それまで俺に向けることの多かった視線をちらつかせる。そういう態度を取られると、どんなお願いをされるのか不安になってくるんだが。
 それから少しの間、無言の時間が続き、

「あたしのお願いは……」

 月原はようやく口を開き、両手で俺の右手をしっかりと掴む。そして、彼女はほんのりと頬を赤くし、潤んだ瞳で俺のことをしっかりと見つめる。

「あたしの……ニセの恋人になってくれませんか?」
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