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プロローグ『いつもよりいい日』
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『まずはお嫁さんからお願いします。』
本編
「今日も可愛いなぁ」
ニッコリと笑いながら、親友の西山颯太はそう言った。
西山が視線を向けている方を見ると……そこには数人ほどの女子達と楽しそうに会話をしているおさげの黒髪の女子生徒がいる。
「有栖川さんのことか」
「おう! ファンだから、同じクラスになったこの4月から毎日がより楽しいぜ!」
持ち前の爽やかな笑顔になって西山はそう言う。同じクラスになったから、有栖川優奈さんのことをいつでも見られるんだもんな。2年生までに比べたら、毎日が楽しいと思うのは当然か。
「良かったな。西山の笑顔を見ていると、俺も何だか楽しくなってくる」
「嬉しいことを言ってくれるじゃないか、長瀬」
その言葉が本当だと示すように、西山の笑顔は嬉しそうなものに変わって。西山は俺の肩をポンポンと叩いてくる。
「そういや、今日も有栖川は登校中に告白されたらしいぜ」
「そうなんだ。本当に人気だよなぁ」
2年ちょっとのうちに、西山から「有栖川さんが告白された」話を何度聞いたことか。手の指と足の指を使っても全然足りないくらいには聞いたと思う。また、俺・長瀬和真も、有栖川さんが告白された場面は両手では数えきれないほどに目撃している。
可愛らしい顔立ち。
とてもいいスタイル。
入学当初から、学年1位の成績を取り続ける頭の良さ。
日本有数の規模を誇る企業グループの有栖川グループ会長の孫娘で、有栖川商事社長の娘というお嬢様。
それでいて、それらのことを鼻に掛けない温和な性格の持ち主で、誰に対しても敬語で話す。
有栖川さんがたくさん告白されるのも納得だ。ただ、有栖川さんは告白を全て断っていて、恋人がいたことはないそうだけど。
「西山は告白しないのか? 1年の頃から有栖川さんのファンだけど」
西山はイケメンだし、サッカー部のエースでもある。明るくて気さくな性格だから、西山なら有栖川さんが告白をOKする可能性がありそうな気がするけど。
「好きだぞ。でも、俺にとって有栖川はアイドルみたいな感じなんだ」
「アイドルか。まあ、見た目も中身も凄いから、西山がそう言うのも分かるな」
「ああ。だから、告白する気は全然ないな。こうして同じ空間にいて、少し遠くから有栖川を見られれば満足なんだ。クラスメイトになって、推しと同じ空間にいられる今が最高に幸せなんだよ」
「そうか。まあ、西山が幸せならそれでいいと思う」
俺がそう言うと、西山は笑顔で「おう」と言った。この様子と今の言葉からして、西山が有栖川さんに告白することはなさそうだ。
「長瀬はどう思っているんだ? 有栖川のこと。バイト先で何度も接客したことがあるんだろう?」
「ああ。有栖川さんは……可愛くて優しそうな女の子だと思ってる。西山が可愛い可愛いって言うのもあるし」
「ははっ、そうか」
「ただ、人気が凄いから……西山の言うように、うちの高校のアイドルって感覚だよ。今のところは恋愛的な感情はないな」
「なるほどな」
だから、これからも教室でこうして西山と一緒に見たり、登下校のタイミングで挨拶したり、バイト先でたまに接客したりするくらいの関わりだろう。
有栖川さんのことが話題になったので、再び見ると……有栖川さんは友達と一緒に声に出して笑っている。西山が「アイドルみたいだ」と言ったから、いつも以上に可愛く見えた。
放課後。
俺は学校から徒歩数分のところにあるマスタードーナッツで接客のバイトをしている。
マスタードーナッツは全国チェーンのドーナッツ屋だ。高校に入学した直後からバイトを始めた。小さい頃から両親が買ってくれたここのドーナッツが好きで、高校生になったらバイトしたいと思っていた。
バイトを始めた当初は何度もミスをしていた。ただ、店長や先輩スタッフの方々が教えてくれたおかげもあり、今は接客の仕事は一通りできるようになった。
今日も午後4時からシフトに入り、カウンターでの接客を中心に仕事をしていく。
店内を見渡すと、ドーナッツやパイなどのスイーツはもちろん、コーヒーや紅茶などのドリンクを楽しんでいるお客様も多い。うちはドリンクも美味しいと評判だから、カフェ感覚で利用するお客様も結構いる。あと、平日の夕方だから、制服姿の学生を中心に来店するお客様も多い。
シフトに入ってから30分ほど経ったとき、有栖川さんが、よく一緒にいるクラスメイトの女子の井上萌音さんと来店した。1年生の頃から、2人は何度もこのお店に来ており、俺が接客したことがある。
こうして近くで見ると、有栖川さんは本当に可愛らしい子だ。井上さんも小柄な体格と幼げな顔立ち、ショートボブの金髪だから、有栖川さんに負けず劣らずの可愛さを持っていると思う。
「私、決まった」
「では、お先にどうぞ。私、迷っていますので……」
「ふふっ、今日もか。じゃあ、お言葉に甘えて私から。長瀬君、注文していい?」
「どうぞ」
井上さんはホイップクリームの入ったフレンチクルーラーと、アイスティーを注文した。
俺は井上さんから代金を受け取り、彼女が注文したメニューを用意する。それらを乗せたトレーを井上さんに渡した。
「お待たせしました」
「ありがとう。……美味しそう。テーブル席を確保しておくわ、優奈」
「ええ。分かりました」
有栖川さんがそう言うと、井上さんはテーブル席の方へ向かっていった。
有栖川さんは……今もドーナッツやパイが陳列されているショーケースを見て迷っているな。好きなものがたくさんあるのか、有栖川さんはこうしてショーケースの前で迷うことが多い。幸いにもカウンターの前には有栖川さん以外は全然いないし、ゆっくりと選ばせてあげよう。
俺の視線を感じたのか、有栖川さんはこちらを向く。俺と目が合うと有栖川さんは苦笑いする。
「すみません。今回も迷ってしまって」
「どれも美味しいからな。迷うのもしょうがないさ。ここには他にお客さんは全然いないし、焦らずに考えて」
「ありがとうございます。……ちなみに、長瀬君のオススメってありますか? 今日はかなり迷っていて」
「オススメか」
有栖川さんにオススメを訊かれるのは初めてだな。俺が2年バイトしているからか、有栖川さんは期待している様子だ。
「オススメは……オールドファッションだな。シンプルなドーナッツだけど、優しい甘さがいいんだ。コーヒーや紅茶にも合うし。ドーナッツの中では一番安いし。俺が一番好きなのもあるけど、迷ったときにはこれにするよ」
「オールドファッションですか。確かに、優しい甘味がいいですよね。私も好きです」
「そうなんだ」
自分の好きなドーナッツを好きだと言ってもらえると嬉しいな。
「教えていただきありがとうございます。では、今回は長瀬君オススメのオールドファッションにしましょう。あとは、アイスコーヒーのSサイズをお願いします」
「オールドファッションお一つにアイスコーヒーのSサイズですね。ガムシロップとミルクはいりますか?」
「どちらもいりません」
「かしこまりました」
その後、有栖川さんに代金を支払ってもらい、俺は彼女が注文したメニューを用意していく。
2つのメニューをトレーに乗せて、有栖川さんに手渡す。
「どうぞ」
「ありがとうございます。この後もバイト頑張ってくださいね」
「ありがとう。井上さんとごゆっくり」
「ええ」
優しく微笑みながらそう言うと、有栖川さんは俺に軽く頭を下げた。井上さんが座っているテーブル席に向かった。
それからは、何度か有栖川さんと井上さんのことを見ながら仕事をしていく。
2人は談笑したり、互いのドーナッツを一口ずつ食べさせ合ったりしている。その光景に癒やされた。
2人に接客してから30分ほどして、本日最初の休憩に入る。休憩室でアイスコーヒーを飲んだり、テーブルに置いてあるドーナッツを食べたりして。そのことで今日の学校とバイトの疲れが抜けていく。
10分ほど休憩したところで、俺はお店の前の道路の掃除をすることに。ほうきとちりとりを持ってお店の入口近くに向かう。
道路に行くと、落ち葉や空き缶、お菓子の袋が落ちている。近くに街路樹や植え込みがあるから落ち葉は仕方ないけど、ゴミをポイ捨てしないでほしいな。そんなことを思いながら掃除していると、
「見つからんな……」
男性のそんな呟きが聞こえた。
顔を上げて、呟きがした方を見ると、帽子を被ったジャケット姿の老人の男性が下を向いてキョロキョロとしていた。さっきの言葉からして、何かを落とし物を探しているのだろう。
「あの。何か探されていますか?」
老齢の男性に向かってそう問いかける。
男性は「ええ」と言いながら、こちらに顔を向ける。こうして見てみると、スラッとした人だな。背も俺よりも数センチくらいしか低くないし。落とし物をしたけど落ち着いた雰囲気で。凄そうな人のオーラがある。
「実はスマホを落としてしまってね」
苦笑いをしながら男性はそう言う。低くて渋みのある声だな。
「スマホですか」
「ああ。駅の改札前で落としたのに気付いて。このあたりで友人にメッセージを送った記憶があるから、探しているんだ」
「そういうことでしたか。自分のスマホで、あなたのスマホに電話を掛けてみてください。自分も耳を澄まして着信音を聞きますので」
「それはいい方法だね。お願いするよ」
と、老齢の男性は微笑みながらそう言った。
俺はスラックスのポケットから自分のスマホを取り出し、電話のダイヤルを表示させる。
「これで、あなたのスマホの番号を入力してください。受話器のマークがある赤いボタンをタップすれば発信しますので」
「分かった。ありがとう」
俺は老齢の男性にスマホを手渡す。この方法で男性のスマホが見つかるといいな。
男性は慣れた手つきで俺のスマホをタップしている。その姿は品があって、絵になる。ダンディズムな感じもして。この方のように歳を重ねられたらいいなと思えるほどだ。
「発信したよ」
「はい」
ここは駅前で人通りが多いから、意識を集中させよう。
歩く人達の話し声や、車やバイクの走行音が聞こえる中で、
――プルルッ。プルルッ。
と、スマホの着信音らしき音が聞こえてきた。その音は……植え込みの中から聞こえている。
植え込みをそっとかき分けると、そこには紺色のスマホが落ちていた。画面には『着信』の文字と、俺のスマホの番号が表示されている。間違いない。これが男性のスマホだ。
植え込みの中に落ちているスマホを拾い上げて、
「見つかりました。自分の番号が表示されているので、これがあなたのスマホかと」
そう言って、男性に拾ったスマホを見せる。
男性は嬉しそうな表情になって「おぉ」と甲高い声を上げる。
「これじゃよ! 私のスマホは」
「そうですか。見つけられて良かったです」
手で砂や埃を軽く取り払って、男性にスマホを渡した。交換のような形で男性から俺のスマホを受け取った。
「見つけてくれてありがとう。連絡先や写真がいっぱい入っているからのぉ」
「そうでしたか。スマホを落とすと不安になりますよね」
「そうだね。メッセージした後に、ジャケットのポケットに入れたつもりだったが、植え込みに落としてしまったんじゃろうなぁ」
「そうかもしれませんね。お役に立てて良かったです」
「本当に感謝するよ」
男性は俺の目を見つめながらニコッと笑う。俺がスマホを見つけたことで、男性がこういう笑顔になれたのだと思うと嬉しい気持ちになる。
「君はかなりの好青年だね。しかもイケメンときた。茶髪もよく似合っている」
「いえいえ、そんな」
「謙遜するところもまたいいね。ところで、君の雰囲気からして……高校生か大学生といったところだろうか」
「はい。すぐ近くにある高校に通っていて。こちらのマスタードーナッツでバイトしています」
「そうなのかい。すぐ近くの高校ということは、常盤学院大学附属高校に通っているのかな?」
「はい、そうです」
「そうか。私の孫娘もそこに通っているのだよ」
そうかそうか、と男性は嬉しそうに言う。自分のスマホを見つけてくれた人が、自分の孫が通っている高校の生徒だと分かって嬉しいのだろう。
「君、名前は何て言うのかな? あと、写真を一枚撮らせてほしい。君への感謝の気持ちを忘れぬようにな」
「そういうことであれば。長瀬和真といいます」
「長瀬和真君か。よく覚えておくよ」
男性……おじいさんは穏やかな笑顔でそう言い、スマホをこちらに向けて写真を撮った。初対面の人に写真を撮られたけど、この人ならきっと大丈夫だろう。
「いい写真が撮れたよ。ありがとう」
「いえいえ」
「では、私はこれで失礼するよ。バイト中にすまなかったね。この後もバイトを頑張りなさい」
「はい」
俺がそう言うと、おじいさんは帽子を外して俺に軽く頭を下げ、駅の方に向かって歩いていった。少し話したからかもしれないけど、後ろ姿も紳士的でかっこいい雰囲気がある。
お店の前の掃除を終え、俺はカウンターに戻って、接客中心に仕事をしていく。
カウンターに戻ってから15分ほどで、有栖川さんと井上さんは席から立ち上がり、カウンターまでやってくる。
「先ほどはありがとうございました。オールドファッション美味しかったです」
「優奈に一口もらったけど美味しかったよ」
「それは良かった」
「長瀬君、この後もバイトを頑張ってくださいね」
「頑張ってねー」
「ありがとう」
お礼を言うと、有栖川さんと井上さんは俺に小さく手を振ってお店を後にした。
有栖川さんに俺のオススメするドーナッツを美味しいと言ってもらえて。おじいさんのスマホを見つけられて。有栖川さん、井上さん、おじいさんからバイトを頑張れと言ってもらえて。今日はいつもよりいい日だったな。
本編
「今日も可愛いなぁ」
ニッコリと笑いながら、親友の西山颯太はそう言った。
西山が視線を向けている方を見ると……そこには数人ほどの女子達と楽しそうに会話をしているおさげの黒髪の女子生徒がいる。
「有栖川さんのことか」
「おう! ファンだから、同じクラスになったこの4月から毎日がより楽しいぜ!」
持ち前の爽やかな笑顔になって西山はそう言う。同じクラスになったから、有栖川優奈さんのことをいつでも見られるんだもんな。2年生までに比べたら、毎日が楽しいと思うのは当然か。
「良かったな。西山の笑顔を見ていると、俺も何だか楽しくなってくる」
「嬉しいことを言ってくれるじゃないか、長瀬」
その言葉が本当だと示すように、西山の笑顔は嬉しそうなものに変わって。西山は俺の肩をポンポンと叩いてくる。
「そういや、今日も有栖川は登校中に告白されたらしいぜ」
「そうなんだ。本当に人気だよなぁ」
2年ちょっとのうちに、西山から「有栖川さんが告白された」話を何度聞いたことか。手の指と足の指を使っても全然足りないくらいには聞いたと思う。また、俺・長瀬和真も、有栖川さんが告白された場面は両手では数えきれないほどに目撃している。
可愛らしい顔立ち。
とてもいいスタイル。
入学当初から、学年1位の成績を取り続ける頭の良さ。
日本有数の規模を誇る企業グループの有栖川グループ会長の孫娘で、有栖川商事社長の娘というお嬢様。
それでいて、それらのことを鼻に掛けない温和な性格の持ち主で、誰に対しても敬語で話す。
有栖川さんがたくさん告白されるのも納得だ。ただ、有栖川さんは告白を全て断っていて、恋人がいたことはないそうだけど。
「西山は告白しないのか? 1年の頃から有栖川さんのファンだけど」
西山はイケメンだし、サッカー部のエースでもある。明るくて気さくな性格だから、西山なら有栖川さんが告白をOKする可能性がありそうな気がするけど。
「好きだぞ。でも、俺にとって有栖川はアイドルみたいな感じなんだ」
「アイドルか。まあ、見た目も中身も凄いから、西山がそう言うのも分かるな」
「ああ。だから、告白する気は全然ないな。こうして同じ空間にいて、少し遠くから有栖川を見られれば満足なんだ。クラスメイトになって、推しと同じ空間にいられる今が最高に幸せなんだよ」
「そうか。まあ、西山が幸せならそれでいいと思う」
俺がそう言うと、西山は笑顔で「おう」と言った。この様子と今の言葉からして、西山が有栖川さんに告白することはなさそうだ。
「長瀬はどう思っているんだ? 有栖川のこと。バイト先で何度も接客したことがあるんだろう?」
「ああ。有栖川さんは……可愛くて優しそうな女の子だと思ってる。西山が可愛い可愛いって言うのもあるし」
「ははっ、そうか」
「ただ、人気が凄いから……西山の言うように、うちの高校のアイドルって感覚だよ。今のところは恋愛的な感情はないな」
「なるほどな」
だから、これからも教室でこうして西山と一緒に見たり、登下校のタイミングで挨拶したり、バイト先でたまに接客したりするくらいの関わりだろう。
有栖川さんのことが話題になったので、再び見ると……有栖川さんは友達と一緒に声に出して笑っている。西山が「アイドルみたいだ」と言ったから、いつも以上に可愛く見えた。
放課後。
俺は学校から徒歩数分のところにあるマスタードーナッツで接客のバイトをしている。
マスタードーナッツは全国チェーンのドーナッツ屋だ。高校に入学した直後からバイトを始めた。小さい頃から両親が買ってくれたここのドーナッツが好きで、高校生になったらバイトしたいと思っていた。
バイトを始めた当初は何度もミスをしていた。ただ、店長や先輩スタッフの方々が教えてくれたおかげもあり、今は接客の仕事は一通りできるようになった。
今日も午後4時からシフトに入り、カウンターでの接客を中心に仕事をしていく。
店内を見渡すと、ドーナッツやパイなどのスイーツはもちろん、コーヒーや紅茶などのドリンクを楽しんでいるお客様も多い。うちはドリンクも美味しいと評判だから、カフェ感覚で利用するお客様も結構いる。あと、平日の夕方だから、制服姿の学生を中心に来店するお客様も多い。
シフトに入ってから30分ほど経ったとき、有栖川さんが、よく一緒にいるクラスメイトの女子の井上萌音さんと来店した。1年生の頃から、2人は何度もこのお店に来ており、俺が接客したことがある。
こうして近くで見ると、有栖川さんは本当に可愛らしい子だ。井上さんも小柄な体格と幼げな顔立ち、ショートボブの金髪だから、有栖川さんに負けず劣らずの可愛さを持っていると思う。
「私、決まった」
「では、お先にどうぞ。私、迷っていますので……」
「ふふっ、今日もか。じゃあ、お言葉に甘えて私から。長瀬君、注文していい?」
「どうぞ」
井上さんはホイップクリームの入ったフレンチクルーラーと、アイスティーを注文した。
俺は井上さんから代金を受け取り、彼女が注文したメニューを用意する。それらを乗せたトレーを井上さんに渡した。
「お待たせしました」
「ありがとう。……美味しそう。テーブル席を確保しておくわ、優奈」
「ええ。分かりました」
有栖川さんがそう言うと、井上さんはテーブル席の方へ向かっていった。
有栖川さんは……今もドーナッツやパイが陳列されているショーケースを見て迷っているな。好きなものがたくさんあるのか、有栖川さんはこうしてショーケースの前で迷うことが多い。幸いにもカウンターの前には有栖川さん以外は全然いないし、ゆっくりと選ばせてあげよう。
俺の視線を感じたのか、有栖川さんはこちらを向く。俺と目が合うと有栖川さんは苦笑いする。
「すみません。今回も迷ってしまって」
「どれも美味しいからな。迷うのもしょうがないさ。ここには他にお客さんは全然いないし、焦らずに考えて」
「ありがとうございます。……ちなみに、長瀬君のオススメってありますか? 今日はかなり迷っていて」
「オススメか」
有栖川さんにオススメを訊かれるのは初めてだな。俺が2年バイトしているからか、有栖川さんは期待している様子だ。
「オススメは……オールドファッションだな。シンプルなドーナッツだけど、優しい甘さがいいんだ。コーヒーや紅茶にも合うし。ドーナッツの中では一番安いし。俺が一番好きなのもあるけど、迷ったときにはこれにするよ」
「オールドファッションですか。確かに、優しい甘味がいいですよね。私も好きです」
「そうなんだ」
自分の好きなドーナッツを好きだと言ってもらえると嬉しいな。
「教えていただきありがとうございます。では、今回は長瀬君オススメのオールドファッションにしましょう。あとは、アイスコーヒーのSサイズをお願いします」
「オールドファッションお一つにアイスコーヒーのSサイズですね。ガムシロップとミルクはいりますか?」
「どちらもいりません」
「かしこまりました」
その後、有栖川さんに代金を支払ってもらい、俺は彼女が注文したメニューを用意していく。
2つのメニューをトレーに乗せて、有栖川さんに手渡す。
「どうぞ」
「ありがとうございます。この後もバイト頑張ってくださいね」
「ありがとう。井上さんとごゆっくり」
「ええ」
優しく微笑みながらそう言うと、有栖川さんは俺に軽く頭を下げた。井上さんが座っているテーブル席に向かった。
それからは、何度か有栖川さんと井上さんのことを見ながら仕事をしていく。
2人は談笑したり、互いのドーナッツを一口ずつ食べさせ合ったりしている。その光景に癒やされた。
2人に接客してから30分ほどして、本日最初の休憩に入る。休憩室でアイスコーヒーを飲んだり、テーブルに置いてあるドーナッツを食べたりして。そのことで今日の学校とバイトの疲れが抜けていく。
10分ほど休憩したところで、俺はお店の前の道路の掃除をすることに。ほうきとちりとりを持ってお店の入口近くに向かう。
道路に行くと、落ち葉や空き缶、お菓子の袋が落ちている。近くに街路樹や植え込みがあるから落ち葉は仕方ないけど、ゴミをポイ捨てしないでほしいな。そんなことを思いながら掃除していると、
「見つからんな……」
男性のそんな呟きが聞こえた。
顔を上げて、呟きがした方を見ると、帽子を被ったジャケット姿の老人の男性が下を向いてキョロキョロとしていた。さっきの言葉からして、何かを落とし物を探しているのだろう。
「あの。何か探されていますか?」
老齢の男性に向かってそう問いかける。
男性は「ええ」と言いながら、こちらに顔を向ける。こうして見てみると、スラッとした人だな。背も俺よりも数センチくらいしか低くないし。落とし物をしたけど落ち着いた雰囲気で。凄そうな人のオーラがある。
「実はスマホを落としてしまってね」
苦笑いをしながら男性はそう言う。低くて渋みのある声だな。
「スマホですか」
「ああ。駅の改札前で落としたのに気付いて。このあたりで友人にメッセージを送った記憶があるから、探しているんだ」
「そういうことでしたか。自分のスマホで、あなたのスマホに電話を掛けてみてください。自分も耳を澄まして着信音を聞きますので」
「それはいい方法だね。お願いするよ」
と、老齢の男性は微笑みながらそう言った。
俺はスラックスのポケットから自分のスマホを取り出し、電話のダイヤルを表示させる。
「これで、あなたのスマホの番号を入力してください。受話器のマークがある赤いボタンをタップすれば発信しますので」
「分かった。ありがとう」
俺は老齢の男性にスマホを手渡す。この方法で男性のスマホが見つかるといいな。
男性は慣れた手つきで俺のスマホをタップしている。その姿は品があって、絵になる。ダンディズムな感じもして。この方のように歳を重ねられたらいいなと思えるほどだ。
「発信したよ」
「はい」
ここは駅前で人通りが多いから、意識を集中させよう。
歩く人達の話し声や、車やバイクの走行音が聞こえる中で、
――プルルッ。プルルッ。
と、スマホの着信音らしき音が聞こえてきた。その音は……植え込みの中から聞こえている。
植え込みをそっとかき分けると、そこには紺色のスマホが落ちていた。画面には『着信』の文字と、俺のスマホの番号が表示されている。間違いない。これが男性のスマホだ。
植え込みの中に落ちているスマホを拾い上げて、
「見つかりました。自分の番号が表示されているので、これがあなたのスマホかと」
そう言って、男性に拾ったスマホを見せる。
男性は嬉しそうな表情になって「おぉ」と甲高い声を上げる。
「これじゃよ! 私のスマホは」
「そうですか。見つけられて良かったです」
手で砂や埃を軽く取り払って、男性にスマホを渡した。交換のような形で男性から俺のスマホを受け取った。
「見つけてくれてありがとう。連絡先や写真がいっぱい入っているからのぉ」
「そうでしたか。スマホを落とすと不安になりますよね」
「そうだね。メッセージした後に、ジャケットのポケットに入れたつもりだったが、植え込みに落としてしまったんじゃろうなぁ」
「そうかもしれませんね。お役に立てて良かったです」
「本当に感謝するよ」
男性は俺の目を見つめながらニコッと笑う。俺がスマホを見つけたことで、男性がこういう笑顔になれたのだと思うと嬉しい気持ちになる。
「君はかなりの好青年だね。しかもイケメンときた。茶髪もよく似合っている」
「いえいえ、そんな」
「謙遜するところもまたいいね。ところで、君の雰囲気からして……高校生か大学生といったところだろうか」
「はい。すぐ近くにある高校に通っていて。こちらのマスタードーナッツでバイトしています」
「そうなのかい。すぐ近くの高校ということは、常盤学院大学附属高校に通っているのかな?」
「はい、そうです」
「そうか。私の孫娘もそこに通っているのだよ」
そうかそうか、と男性は嬉しそうに言う。自分のスマホを見つけてくれた人が、自分の孫が通っている高校の生徒だと分かって嬉しいのだろう。
「君、名前は何て言うのかな? あと、写真を一枚撮らせてほしい。君への感謝の気持ちを忘れぬようにな」
「そういうことであれば。長瀬和真といいます」
「長瀬和真君か。よく覚えておくよ」
男性……おじいさんは穏やかな笑顔でそう言い、スマホをこちらに向けて写真を撮った。初対面の人に写真を撮られたけど、この人ならきっと大丈夫だろう。
「いい写真が撮れたよ。ありがとう」
「いえいえ」
「では、私はこれで失礼するよ。バイト中にすまなかったね。この後もバイトを頑張りなさい」
「はい」
俺がそう言うと、おじいさんは帽子を外して俺に軽く頭を下げ、駅の方に向かって歩いていった。少し話したからかもしれないけど、後ろ姿も紳士的でかっこいい雰囲気がある。
お店の前の掃除を終え、俺はカウンターに戻って、接客中心に仕事をしていく。
カウンターに戻ってから15分ほどで、有栖川さんと井上さんは席から立ち上がり、カウンターまでやってくる。
「先ほどはありがとうございました。オールドファッション美味しかったです」
「優奈に一口もらったけど美味しかったよ」
「それは良かった」
「長瀬君、この後もバイトを頑張ってくださいね」
「頑張ってねー」
「ありがとう」
お礼を言うと、有栖川さんと井上さんは俺に小さく手を振ってお店を後にした。
有栖川さんに俺のオススメするドーナッツを美味しいと言ってもらえて。おじいさんのスマホを見つけられて。有栖川さん、井上さん、おじいさんからバイトを頑張れと言ってもらえて。今日はいつもよりいい日だったな。
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